「藍……!」
 落ちていく手のひらを握りしめて、子供が一人声を上げる。
 嗚咽まじりに、死にゆく女の名を呼ぶ。
「…藍…」
 藍、藍、と、少女は何度も繰り返す。
 少女は悟っている。もう、答える声などないことを。
 ただ、そうしていれば、いつでも助けてくれたから。
 だから、どうしても繰り返し、冷たい手を己の頬に押し付ける。何度も撫でてくれた手を、守ってくれた手を、温めるように。
「…藍」
 ただ呟く少女は、物心ついた頃には、ひとではないものが見えた。
 本来ならば目には映らないくらいに力の弱い、魔物と呼ばれるそれが、精霊と呼ばれるそれが、見えた。
 物質世界に干渉できないようなそれは、それでも力をもっていないわけではない。知識を有していないわけではない。
 だから、少女は、おかれた環境にしては聡く育った。
 物質世界へ姿を現すことを望む魔物、あるいは精霊には、その体をよこせと呼ばれた。夢で、あるいは起きている間も、ずっとそうしてさいなまれた。その体をよこせと自我を食い破らんとする者達に、常にさいなまれた。
 だから、少女は、おかれた環境に関係なく怯えを抱いて生きていた。
 魔物も、精霊も。
 基本的には、彼女の身体を守らんとした。
 だから、迫る危機を時たま感づいた。それでも、守られるのは身体だけ。心は、魂は、早く捨てろと呼びかけられた。邪魔なのだと、そんな風な声が、絶えず聞えていた時期がある。
 夢を見る度に傷ついていく時、守ってくれたのは、唯一、目の前のこの女だけ。
「藍」
 彼女が傍にいる時は、身体をよこせと訴える声は聞えなかった。だから、安堵できた。そうしているうちに、声は遠く、聞こえなくなった。
 ようやく聞こえなくなったその頃、消えてしまえと言われた。夢ではなく現の男が、ひどく憎々しげにそう言った。
 いてはならない忌み子だと言われ、斬りつけられた。
「…あ、いぃ……」
 鏡の向こうの自分と似た面立ちの男から守ってくれたのも、彼女だった。
 傍にいてくれたのは、守ってくれたのは。名を呼んでくれたのは。生かして、くれたのは。全てを、くれたのは。
「…あい…」
 うなだれて顔を覆えば、力を失った彼女の手が地に落ちる。
 青白い手が、土で汚れる。
 動かないそれを見て泣けば泣くほどに、彼女は思い知っていた。
 もう、助けてくれない。こんなにも泣いても気付いてくれないなんて、今までなかったから。
『鈴様』
 膝を抱えて泣いていると、いつだって、そんな風に見つけてくれた人は、もう。
 もう――――……!
「……私の所為だ……」
 いつだって助けてくれると思っていた。そうして、頼って。逃げた。自分を殺めんとする集団から。
 けれど、自分が頼らなかったなら、彼女が追われる謂われは、きっとなかった。きっと、そうだ。
「私、の…………」
 横たわり動かない骸を抱き寄せながら、少女は繰り返す。小さな身体で、押しつぶされるように、抱きしめる。
 私の所為で、このひとが死んだのに。
 それでも、生きろと言われた。どうか、と願われた。
 願い事をされたことなど、初めてな気がする。
 ならば、叶えたい。どうやっても、叶えなければ。
 生きるためには、なにが必要?
 生きのこるために、なにが邪魔?
「…………ああ…………」
 そんなもの、分からない。教えてくれなきゃ、分からないよ、藍。
 小さくそう呟いて、骸を抱く手に力をこめる。
 分かることは、あの矢が彼女を殺めたこと。
 自分の所為で死んだ彼女は、自分を狙ったあの矢に殺められたと言う、それだけ。
 きつく噛んだ唇から、血がこぼれる。それを拭うことをしないまま、少女は思った。

 ―――私が悪いから、藍が死んだ。
 でも、私はどうして悪いんだっけ。

 色んなものに悪いと言われすぎて、うまく分からない。
 じゃあ、色んなものに、全部に。悪いと思われていたの、だろう。
 ああ、なら、全部。
 最初から―――………

「………『なくなってしまえばいい』」
 骸を抱いた少女がつぶやいた言葉は、人と人との会話に使う言葉ではなく、呪。精神世界に干渉するための言の葉。
 ただし、術として成立するはずもない、ただの単語の羅列。
「…『なにもかも』」
 しかしそれは、あるいは。
 呪詛ともよばれる、冷たい祈り。
 魔力を高めるためだけに歪んだ試みを繰り返した一族の長の末、生来に強い力をもって生まれた娘の、呼びかけ。
「『なにもかも』…………」
 自身の血で真っ赤に染まった唇は、それ以上の言葉を紡がない。気の抜けたように、うっすらと開いたまま。唇と同じ色彩をもつ瞳は、虚ろに宙を眺め―――やがてきつく閉じられる。
 意識があるのかも分からない様で、少女は育ての親の骸を強く抱く。すがりつくように、守るように。抱き寄せたきり、動かない。
 それでも―――
 その伸びた髪は、風を受けてざわりと揺れた。
 森に潜んでいた精霊が、魔物が、ざわざわと動く。
 何もかもを恨んだ娘の呼びかけに、従う。

「―――いたぞ!」
 少女のものではなく、少女を追うその声が響くその時、一層強く風が吹く。
 ひとには見えざるはずのものが動き、生み出す風が、強く。


 生ぬるい風に、やがて、濃い血の香りが混じった。








 鬱蒼と深い森の中、一人の男が歩く。
 黒い髪を短く切り、褐色の目を不機嫌そうに細めた男だ。
 男は、武器を作り、売ることを職としていた。
 そのための材料にと魔物を狩りに来たのだが、どうにも具合が悪い。
 男が住む町から遠く離れたこの森は、昔から強い魔物がいるという話だった。物騒だから近づくなと言われる類の森だった。
 それでも男はこの森を好んでいた。仕事の道具としては、好んでいた。
 一人の人間としては、物騒さを楽しいとは思えない。たまに死体と行きあたった時など、少なからず落ち込む。
 なにより、その空気。鬱蒼と暗い空気が好きな人間などそうはいないだろう。
 しかし、と男は小さくごちる。思わず口に出して、答える者はいないのだと小さく苦笑する。まったく、妻をおしゃべりだと笑えないではないか、と。
 ―――しかし、今日は一段と、空気が暗い。
 言葉の続きを胸の内だけで呟いて、男は歩く。明け方の道を、憂鬱な心地で。
 手頃な得物を求め、歩き続け――――鼻孔にひどく嫌な香りを感じた。
「……」
 まさか、と思い立ち止まる。
 そうしてその香りを確かめて、確信する。血だ。
 口の中で小さく呪を唱え、身を守るための術を纏う。装備は、正体不明の脅威に向うには、少し心もとない。だから、男の作りうる最高の強度の鎧を作った。
 そのような状況だ、無論、ほうっておいて引き返してもよいのだが。あまりに真新しい香りに、思ってしまう。まだ生き残りがいるかもしれない、と。
「…職業病だな」
 己を嗤うために呟いた男は、匂いを頼りに黙って歩く。歩く度に濃くなる匂いに、一層強く顔をしかめながら。
 そうして歩いた彼が目にしたのは――――奇妙な光景だった。
「……」
 少し開けた、森の片隅。
 開けたと言うよりは、なにかの大きな動物になぎ倒されたように木々が倒れる森の片隅。
 そこが、血の匂いの源で。
 そこには、奇妙な光景があった。
 倒れた木々の下敷きになった遺体には、手脚がなかった。食い破られたような跡が、残っているだけで。
 木々から離れたところにある遺体も、似たような有様だった。否、木に押しつぶされた場所は無事であった者達よりより酷く、食い破られている。
 そんな風な遺体を、男はかつて何度も目にした。武器を作る前、警軍として魔物と戦っていた頃、何度も目にした。魔物による死体だ。人の使う術にも、似たようなありさまになるものはいくらでもあるが。現場に残る魔力は、人のそれと少し違う。質が微妙に違うのだと解明されているし、肌で感じる空気が違う。
 こんなにも色濃く感じるのは、奇妙ではあるが。
 奇妙と言えば、遺体の衣服もそうだ。やけに古めかしい衣装は、中々手に入れられるものではないように見える。
 奇妙な光景だった。
 食いあさられた様子を見るに、随分な数の魔物が騒いだはずだと言うのに、見当たらない。真新しい血臭が、この惨劇をつい最近のものだと伝えていると言うのに。つまり、よほど素早かったと見える。そのような種類の魔物がいる森とは聞いていなかったが、突然新しい魔物が現れることは、珍しくない。
 珍しくないからこそ、最も奇妙なものは、唯一傷のない物。
 物だと、男は思った。
 生きている者など、いないと。そう思った。
 けれど。
「………子供………?」
 低く、茫然とした呟きに、少女は答えなかった。
 じっと見つめられていることにも気付かぬまま、子供はゆるく息を繰り返す。一見すると息をしていると分からないくらい、微かに。
 濡れた頬を冷たい頬に押し付けて、じっと瞼を伏せる子供からは、魔力らしい魔力が殆ど感じられない。ぽっかりと、空っぽだ。本来他人の魔力の状態など分からないが、あまりに空っぽすぎて、それが分かってしまった。
 けれど、なぜ。からっぽなのか。
 からっぽな娘が、生きながらえられたのか。
 感じる疑問よりも強いのは、哀れに思う気持ち。
 奇妙な娘は、なにもかもが空っぽで。今にも、死にそうに見える。

 大切そうに女の死骸に抱きつく死にそうな子供に。
 男は、黙って手を伸ばした。







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2012/01/18