とろりと煮えた薬湯を差し出す。
「鈴様」
「…うん」
 いつもなら、何かを頼もうとするとすぐに頷いてかけてくるかけてくる彼女は、一拍置いてうなずいた。
 躊躇いながらも近づく子供に差し出すのは、痛みを、意識を。遠くに持っていくための、薬。…それは、毒と大差ない。
「…すぐ終わりますから」
 それでも、寝ている間に。酷いことは全部、終わりますから。
「…ああ」
 …最初に『儀式』が始まって、一体何年たったのか。
 今年で10になる彼女は、時たまやけに大人びた顔で瞼を伏せる。
 常はむしろ齢より幼くうつる表情を、急に。
 その変化は『諦め』だと知っているから、胸が苦しい。
 胸が苦しくて、思いだすのは。何度も浮かぶ、どうでもよいこと。
 ―――もしあいつがもっと善良だったら、こんな結末にはならなかったかしら。
 そんなことはありえないと、良く良く知っている。
 知っているけれど、何度も。浮かぶ痛みは、その男へ向かう。
 母が死んだあの頃から、ずっと。変わることなどできないでいる。
 ―――瞳を閉じていくその子を見ながら、そっと昔を思い出した。

8 years ago

 ―――思いだす記憶は何時だって暗く、沈んだものだ。

 わたしの父は、外の人間だったらしい。
 外と徹底的に隔離された里。深い森にかこまれたことは勿論、何重にもはられた結界が人との繋がりを閉ざす、隠れ里。隠れざるえない、歪んだ儀式を繰り返す里。
 早い話が、犯罪者集団である。あるいは、カルト集団とでもいうかもしれない。
 食べ物は自給自足で、通貨だって同じようなもので。その里のみで生活は完結しているから、それに気付くことすらない人間が―――罪の意識すらない無能な羊ばかりが、たくさんいたけれど。
 けれど。
 けれど、それでも里は少しだけ外との繋がりを求めた。進んでいく技術や、変化する術の形態。そんなものをあてにして、少しだけ交流が続いた。ささやかながら、交易というべきだったのかもしれない。
 その、少ない『外との交易役』の一つが、わたしの家系であり。少しとはいえ『外』を知った母は、『外』の男に惹かれて―――2人で手を取り合って外に逃げて幸せに。なれたらいいと、思ったらしい。
 里は隠れ里、何年も何年も違法とされる術を伝え、外道とされる儀式を繰り返し、その血に宿る魔力(チカラ)を高めることにとりつかれた一族。
 その里は、裏切りを許さなかった。
 外に出る女も、入って来た男も。全て。
 許しはせずに、男は追い出した。『私に愛想が尽きたの、きっと』『そうであってほしいの』『追い出されただけですんだことを祈っている』母はひどく泣きそうな顔でそう語ったけれど。
 もう来ないから諦めろ、と。そう告げられた時に母の元に戻って来たという父の指輪は、わたしが見た時。
 なにか、赤黒いものが、こびりついたままだったけれど。

 そこまで排他的な里が、わたしを生む母をゆるした理由は、一つ。
 無能で愚かな民は、それでも閉じた里に鬱屈は感じていたのだろう。
 娯楽として、残虐な儀式を喜び。娯楽として、迫害する対象を求めた。
 その対象の一つが―――わたしと母だったのだ、要は。

 ものを売ってもらえないのは序の口。歩いているだけで石を投げられる。集団で殴られたことも。言われない噂をいくつも囁かれる。それに基づいてまた殴られる。
 飛んできたのは、石だけではない。攻撃魔法以外のものは、大抵投げられる気がする。例えば―――、水だった。
 寒いその日、頭からかけられた凍えた水には、あるいは術でもかけてあったのか。それとも、ただ水に負けただけか。
 結果として、二人で、むごい風邪を引いた。
 5日間。
 あの5日間を、わたしは忘れない。
 苦しくて、暑くて。寒くて、それすらわからなくなって。それでも誰も助けなど来ない。
 ……それでも、母とすごした最後の時。
 狭い家で、身体を寄せ合って。それでも、母が、死んだ。
 悲しむ暇も、弔う暇もなかった。
 一体どこから母の死を聞きつけたのか。わたしは、追い出されることになった。仮にも同胞だった女がいないのだから、こんな子供を置いておく必要はないと言って。そもそも母が厭われた原因はわたしのなのだから、死んで償えと。まだ熱は引いていず、ろくに術も扱えない。そんな、死を待つ状態で。
 そんな状況で、雪の上に転がされて。
「―――その娘、私によこせ」
 聞こえた声は、むごく楽しげで。腕をひく手は、上等の皮手袋に包まれて。
 ともかく腹がたったことを、良く覚えている。
 腹が立って、それでも。
 触れた手の熱さは、もう母は持っていないもので。ひどくなきたくなった。

 ―――それからは、あいつの子飼いの召使としての日々。
 あいつが強く言ったからどうにか許される、召使。特に決まった仕事はなく、ただなにかを頼まれれば決して断れない立場。雑用係、というよりは。奴隷と言うべき身分だけれども。とりあえず生きていくことは許されていたから、それなりに穏やかだった。
 あいつのお陰で、生きていくことはできた。
 けれど、あいつがいなければ、もっと心穏やかな人生を送ったのも、事実だと思う。
 好き勝手に振り回されて、ぼろぼろにされて。
 泣くことも忘れた頃に、『暇つぶし』だと言ったあいつが、いなければ。
 わたしをなぶることが暇つぶしだと嘯くあいつが、いなければ。
 少しでも大切なものがあれば、いつの間にかあいつの部屋の屑かごに入っていた。
 少しでも大切だと思えたひとは、気付けば傍からいなくなっていた。
 少しでも、少しでも。
 居心地の良いと思えたものさえ、あいつの手の平にあるものだと。何度も、何度も思い知って。
 許せないと、苦しいと、そればかり考えるようになって―――………

 そう思って、ずっとずっと、殺す機会をうかがっている内に、この子が生まれた。
 無意味な儀式を終えて、鈴はまだ眠っている。
 この子が強いられている儀式もまた、里の娯楽だ。見目が変わった子供が血を流す様を、哀れより愉快と思われる里のための、娯楽だ。
 蒼白な頬を撫でて、治癒のための術を紡ぎ続ける。唱えすぎて、慣れ過ぎて。子守唄でも歌っているような気持ちに、なる。
 最初は、利用するつもりだった。あの男を、この里を。徹底的に壊すために。その魔力を。けれど結局、そんなことを忘れるくらい、この子が愛しくて。
 愛しいから、傷つけられた。
 あいつは、いつだってそうなのだから。
 例えば、あいつの選んだ奥方。彼女は昔、唯一わたしに「やさしい人」だった、あの少女だ。同情と義務感からのそれは煩わしかったけれど、それでも。いわれない嫌悪よりは心地よく。嫌わずに、いられた。
 だからこそ妻に選んだと、あれがはっきりそう言った。
 …ああもう、何の因果だ。
 あの少女と、アレとの間に生まれた子に、情が湧くなど。二度と抱かぬと誓ったはずの感情を向ける羽目になるなんて。なんて。
 なんてアレ好みの茶番と思っても、この子を傷つけられた時、この子によって忘れさせられていた感情は、鮮やかに思い出されて。
 それこそが望みなのだろうと分かって、一層苦しい。
 掟の意義など信じてもいない癖に。
 誰かに咎を押し付けねば存続もままならぬ鬱屈とした里に、嫌気がさしているくせに。
「……許さない」
 あいつも、この子を傷つけるだけの里も、決して。
 許さないし、残しもしない。
 ずっとと思っているし、そろそろ思っているだけではだめだ。
 儀式を終えて、瞼を閉じて眠る彼女のを見つめる。白い顔を、じっと見る。
 この子といたくて、まだ頼りなく見えてつい引き延ばしてしまっていたけれど―――『儀式』の間隔はどんどん短くなっている。それだけ、この里に鬱屈がたまっているのだろう。ならば、潮時だ。次に大きな『悪いこと』があれば、きっとこの子は殺される。

「…ごめんなさいね、鈴様」
 あなたをこんな形でしか、守れなくて。
 あと何度触れられるか分からない頬にそっと触れながら、少しだけ笑う。
 おかしかったのではない、悲しかったのでも、嬉しかったのでもなく。ただ、凪いだ心地になった。
「…ごめんなさいね」
 それでも、あなたは。あなただけは、どうか。
 最後まで、わたしが守るから。
「……おやすみなさい」
 その眠りが、時に予知夢めいたものでうなされるものだと知っている。目には映らぬなにかを読み取り、苦しむことがあることも。人の強い感情に引きずられ、ふりまわされることも。
 それでも、今、この時は。
 少しでも穏やかに、眠ってくれていたら、いい。

 ――――この里からも多くの死者を出すことになる地震が起きたのは、その次の夜だった。



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