意識を取り戻した子供は、わたしの顔を見るなりに泣き出した。
 火がついたように泣き喚く、だったら。どれだけ良かっただろう。
 声を殺して肩を震わせその子は、すべてを悟った顔をしていた。

12 years ago −2

 どこかぼうっとしたような、なにかが抜けおちたような、精細の欠けた表情。
 それが涙でぬれている光景は、むごく心が痛む。
 全てを悟り、絶望した顔など。子供らしくない。…それに、なんだか、この子の母親を見ているようで、余計に。あの奥方と同じようにこの子まで正気を失うのだろうかと、思ってしまう。
「…鈴様。痛むところはありませんか?」
 傷口ではなく、頬を撫ぜながら問いかける。笑顔を作れていた自信はある。
 けれど、力のない表情は変わらない。もう、そんなことではどうにもならないくらい、この子は傷ついていた。
「…藍」
 わたしの服の袖を力いっぱい握り締めて、彼女は言う。
 袖をつかんで、俯いて。直接触れようとはしない。
 いつもならすぐに、抱きついてくるくせに。
 その態度が全てを物語っているような気がして、息をつく。気付かれぬように、そっと。
「藍…」
 しゃくりあげながら、うわごとのように言葉を繰り返す彼女の背中をなで続ける。もう痕も残していないけれど、あの刀傷のあった辺りは避けながら。
「あ、い…」
 何度も何度も繰り返せば、苦しげな呼吸が、少しだけ落ち着いた。
 顔を上げたその顔の、二つの目はしとどにぬれている。
「…私は、駄目なの?」
 同じくぬれた唇が、震えながら言葉をつむぐ。
「いちゃ、だめ…?」
 がくがくと震える手を押し包む。
 それでも、怯えたまなざしは変わらない。こんなにもそばにいたのに、変えられない。もう、ごまかすこともできないから―――変わらないのだ。
「…ごめんなさい」
 こわばる指先をあたためながら、うつむく。まっすぐな目をみていられなくて、そうした。
 そうして―――洩れた言葉は、まるで懺悔。
「怖かったですね、ごめんなさい。…ごめんなさい。守れなくて」
 私はあなたを守りたかったのに、そんな自分にすら認めることもなく。
 迷い続けた結果、あなたを傷つけた。
 ごめんなさいね、こうなることを避けれないと知っていたのに。後手に回った。辛いことを少しでも先にと、ありえない夢を見続けた。
「…鈴様」
 だからもう、無理な嘘はつかない。
 顔を上げて、息を吸う。あなたを守るための真実を贈る。
「あなたは、他とは違います。
 でも、違うだけ。何も悪くないんです」
 包みこんだ手の平の震えは変わらない。ただ、俯きがちだった眼差しが、上を向く。こちらをじっと見つめてくる。
「でも」
「悪くないんです、鈴様。なにも」
 ただ真実を告げながら、必死に言い聞かせる。
 負けないで、こんなところの、こんなくだらぬ言い伝えなどに。
 負けてしまえば、そこから弱ってしまうから。せめて胸をはり背を伸ばすしか、生きる術はないから。
 わたしがそうしてきたように。それをできなかったわたしの母が儚くなったように。それしか、ないのだ。
「…あなたの見ているものは、外の人間には見えません」
 そう、確かに。この子は他とは違う。
 それに気付かされたのは、この子が言葉がはっきりしていた頃とほぼ同時。
 わたししか交流のないはずのこの子は、わたしの教え得ぬことを、知り得ぬことを知っていた。
 時には、呪に関する知識。時には、美しい光景のこと。時には、この里の巡っている歴史さえ。なにより、その身に流れる魔力の扱い。常人ならある程度の修練を、用途によっては呪文を通して行うはずの扱いを、教えてもいないのにやってのけた。ごく簡単な術めいたものなら、呪すら紡がず行ったことすらある。
 それを教えたのは、『目に見えないけど、友達』だと。そう言って、この子は笑った。当たり前のような、無邪気な笑顔だった。
「彼らはそれが怖いから、あなたが悪いことにした。
 もうずっと昔、あなたが生まれる前から。あなたのような人が生まれるたび…そうして、迫害してきました」
 ―――赤い目を持つ子は、呪われた忌み子。
 そんなもの、迷信だと思っていた。なんの根拠もない、言いがかり。この狭い里で必要とされたスケープゴート。
 でも。
「間違っていると、思っている者もいます。けど、この場所で、その人数はあまりに少ない…」
 どうやら、それなりの根拠があったらしいと。納得せざるを得ない、異能。
 時には目に見えぬ魔物すら見て、怯えて泣くこの子は。夢ですら化け物に脅かされるというこの子は、きっと。
 その才に振り回されずにはいられないのだと知った。
 重い心地は口に出さぬまま、手の平を握りしめ続ける。少しでも落ち着くように。
 体温を失くしたそれに、ほんの少し熱がうつる頃、その子はぽつりと口を開いた。
「…いちゃだめ、っていわれた」
 予想と違わぬ言葉に、小さな手を握る手に力を込める。
 ―――もしもその力が、赤い目を持つ子に代々発現していたというのなら。
 最初に閉じ込められたと言う『忌み子』は、本当にその力を恐れられていたのかもしれない。けれど。
「だめだから、口を利くの、だめだから。タケシ、怒られて。私も、怒られて…」
 …馬鹿な、ことを。
 今ここで震える子供に、なにを恐れる要素があるのか。こんなにも頼りない子供の、何を恐れると言うのか。
「だめ、って。言った人が、…怖くて」
 誰かを害する発想すらないまま泣く子供の、どこを。
 なにより、こんな子供を、どうして。…どうして、あれは。ほうっておいてくれないの。
「鈴様…」
 ―――もう大丈夫ですから。また来ても、あなたは守りますから。
 続けようとした言葉が、遮られる。ひたむきな眼差しは言葉を封じる。
「藍も、怒られるんじゃないのか?」
 ひたむきな眼差しにあるのは、ただこちらを案ずるような。
「私といると、だめなんだろう?」
 駄目ならばそう言ってくれと、そう訴えるような言葉。
 ―――駄目だ、だからいなくなる。
 わたしがそう言ったら、傷つくくせに。あんなにも泣き虫なのに。こちらを心から案じてくる。
 今、袖を離すこともできないくせに、そんな―――…
「だめじゃありませんよ」
 抱きしめて、告げる。そうして頬に頬を寄せて、続ける。この子が泣いている時に、いつでもそうしたように。
「鈴様。わたしの大事な、お姫様」
 触れた場所から伝わる、あたたかくやわらかい、子供のぬくもり。
 今のわたしにある、唯一のぬくもり。
「わたしはあなたを守るためにいるんです」
 最初は、本当に利用するつもりだった。
 才があるのならそれを利用し、この里を。あの男を。壊してしまおうと。
 思っていたのに、触れる度に心が揺れた。
 この子があんまりに、わたしを信じるから。あまりに素直な子供は、悪意にまみれた献身と愛情の区別もつかなかったから。
 そうして無条件で慕われて、もう。もう、利用なんて、忘れかけてて。
「…藍が?」
 身を離して、ええ、と手を握る。
 作るでなく笑顔が浮かぶことなど、随分となかった。自然に出た表情なのだから、この子にくらい、優しくあればいい。
「あなたはわたしが守ります。なにに代えても守ります。だからあなたはなにも心配しなくてもよい。…間違っているのはあちらです。いつか、必ず。あなたにも、あちらにも、それが分かりますから」
 わたしは優しくないけど、優しいと信じてくれていたらいい。この子を守る手段すら、きっといつかこの子を傷つけるだろうけれど。
 そうしたら、わたしはこの子を守れる。…そうしていつか…きっと。この子を本当に優しい誰かに託すことだって、できる時が来るかもしれない。
「だから、どうか、寂しくなることを言わないで」
 全ての過ちを、悪意を。私が受け持てるうちは、守りますから。
「あなたがいなくなったら、私はどうやって生きればいいのか分かりません」
 赤い目が大きく見開かれて、また泣きだしそうに潤む。
 けれど彼女は唇をかんで、とすんと抱きついてきた。
「藍」
 名を呼ばれる。幼い、けれどどこか深さを増したような声で。
「藍、あのね」
 頼るようなすがるような―――でも、幸せそうな声で。
「私も、藍がいれば、いいよ」
 震えの消えた声と共に、身を寄せられる。
 小さな手が背中に回る感覚に、小さく笑う。
「…鈴様」
 哀れな娘であり、哀れなのに。
 何を恨むことなく、他人の心配ばかりする娘。
 怖かったろうに、わたしにすがることをやめない子供。
 哀れだけど、それだけではなく。だからこそ、あなただけは。
「あなたは…あなたのことだけは、わたしが。絶対に守ります」
 例えその結果がどんな末路を呼ぼうとも。
 あなた、だけは。
「わたしが守りますから…」
 だから、どうか。と。
 その続きは、まだ。胸の中だけに秘めた。



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義親子いうにはあまりに危く、ひどく閉鎖的な関係だから。藍はこの時点で鈴をどうにかして逃がそうと考え始めました。それからはもう執念です。
2011/10/07