彼女とすごす時は、嘘のように穏やかにすぎていった。
 大きくて小さな屋敷で、ふたりぼっち。
 それを憂う発想すら与えられなかった赤子は、それでも健やかに健やかに成長して。
 私を見る度、嬉しそうに笑う。
 胸のどこかに痛みを呼ぶ、無邪気な笑顔。
 なにが痛いのかから目を逸らすうち、その日は、来た。

「藍っ!」
「あら、今日は元気ですね」
 いつもわたしがここを開けた時は、寂しそうにしていているのに。
 これが成長かしらと思わず微笑ましい気持ちになっていると、とんと抱きつかれる。…やっぱり成長はしていないかしら。
「私ね、目に見える友達ができた!」
 もう少し離れるように育てた方がいいかしら。でもこちらの方が好都合なのかしら。
 そんな悩みも一気に凍るような、衝撃。
 その時の気持ちを、一体どう呼べばいいのか。
 嬉しそうに笑う子供に、真実など告げられなかった。

12 years ago

「友達ができたの」
 ぐるぐると鍋をかきまわしながら、その声を聞いていた。
 昨夜ここを空けなければならなかったので、作り置きしていった汁物。根菜を入れて、味噌で少し濃い目に味付けをして、そちらの方が食べやすいかと思って。ああ少し煮詰まっているわね、酒でもいれておこうかしら。そんなどうでもいいことを考えて、気をそらせそうとして。できなくて。
 頭がずきずきと痛んで、もれかけた溜息を押し殺す。
「あのね、タケシっていうんだって」
「…そう、ですか」
 その子供は恐らく、否、確実に。
 ここのいわれを知らないまま迷い込み、彼女と口を聞いたのだろう。
 全てを知って、友達になってくれたら、なんて。考えるだけで馬鹿らしい。
 わたしは今日もアレに頭を下げて、この子を儀式に使わぬように頼みこんだばかり。忌み子という馬鹿な風習は、なにもかわっちゃいないのだ。馬鹿な風習、下らぬ言い伝え。それを子供の方が真に受けることは、わたし自信が知っている。この里のものではない父親を持ったばかりに、無条件に蔑まれた記憶を以って、知っている。
 でも。
「すっごく嬉しくてね、またねっていってくれてね、また来るって!」
 その目をきらきらと輝かせるこの子供に、どうしてそんなことが言えよう。
 あなたが受け入れられることなどありえません、傷つく前にどうか止めてしまいなさい。などと。
 ……ああ、でも。
 この子がそうして傷つくことは、わたしの目的にかなっていることじゃ、ないのかしら。
 この子が傷ついて、そこをわたしが慰めればいいんじゃない。わたしだけは味方ですと、そんな風に言って。そうしてこの子が『外』を、『里』を恨めば。わたしの目的が―――この里を壊すことが、きっとできるはずなのに。この娘の力は、特異な才は、それを可能とすると確信したのに。
 それなのに――――なぜそれを憂う?
「藍?」
 不思議そうな声に、笑って椀を差し出す。誤魔化すために。
 疑うこともなく湯気のでるお椀を受け取った子供は、礼儀正しく「いただきます」と口にする。
 そうしてはふはふと箸を進めながらも、その友達とやらのことを、繰り返し話した。
 …たったそれだけの、ほんの少し会話を交わす程度が、どれだけ嬉しかったのか。示すように。
「…鈴様」
 けれど、口を聞いただけで、その子供はひどく罰せられることになる。意味も用もなく忌み子と言葉をかわすこともまた、罪となるから。その罪により鬼籍に入ったこととなる人間こそが、わたしだ。そして、そんな子供より酷く、この子は罰せられることになる。真面目な民をたぶらかしたと、訳の分らぬ理由で、きっと。
 だから、早く。
 ことが露見する前に、早く……
「…それは大変、良いことです。……でも、あちらにも都合というものがありますから。ある日これなくなってしまうかもしれません。それでも、大丈夫ですか?」
「……そうなの?」
 この子供が傷つくことを本当に憂うのなら、早く止めさせた方が。いいのに。
 わたしの口は真実を避けて、笑顔と共に嘘を吐く。
「…外の人間は、とても…忙しいんです。それであなたが寂しがると、わたしも辛い」
 そっか、と彼女は頷いた。寂しそうな顔を隠すこともなく、小さく溜息をついた。けれど、すぐに花咲くように微笑む。
「忙しいは、仕方ないんだよね」
 忙しいから、どうしてもここを空けなければいけません。それはいつもわたしがこの子に言って聞かせる言葉。嫌だ嫌だと言っていたこの子が、しかたないんだねというようになったのはいつだっただろう。
「大丈夫、我慢できるよ。私、藍も待ってるもんね?」
 そうやって、安心させるように笑うようになったのは、一体。
「…良い子です」
 反射のように頭を撫ぜながら、わたしは呟く。慰めるために、宥めるために。そうして伸ばした手は、いつだってこの子供のためではない。
「私、藍が好きだから。いくらでも待てる」
 向けられる笑顔は、きっとそんなことを夢にも思っていなくて。
 ずきと、どこかが痛んだ気がした。

 ―――本当は、そんなことも関係なく。早く、早く。
 一刻も早く、そんなことはやめさせなければならなかったのだと思う。

 彼女がはしゃぎにはしゃいだその日から、わずか5日後。
 地面に倒れる彼女を見ることになったから。

「…鈴様!」 
 叫んで、かけよる。
 少しここをあけただけで、こんな。
 地面をぬらす血の源は、背中から肩を斬りつけられたと思わしき、傷。
 ごく浅いものと確かめても、指先が凍えていく。
 こんなちっぽけな子供の体から、そんな血が流れたら。
 体を凍えさせるのは、このまま目をあけなかったら、という恐怖。
 そう、失うことへの恐怖だと。
 いやでも、気づいてしまう。
「………名をつけていたのか」
 その声の主が来たことに気が回らぬくらいに、動揺しているのだと。
 これ以上なく、思い知らされる。
 腕の中の重みを、放り出すことなどできないと。
 ゆるり、と顔を上げる。白い顔を見ているのが辛くて、そうする。
「………どうして、ここに、…いるの」
「理由は気づいているだろう」
 ひどくつまらなそうな顔で、それは言った。
 つまらなそうに、血でぬれた刀を、ひっさげて。
 理由なんて、知っているわよ。痛いくらいに。
 柄に大仰な装飾のほどこされた反りのない直刀は、儀式に使うもの。
 きっと件のタケシとやらの行動がとがめられ、こいつは儀式を行いにきた。わたしがそれを止めるように打診しにいっている間に。
 いつもいるはずの部屋にいないことに不安を覚えて、戻って来た結果が―――これだ。
 ぐっとこぶしを握る。そのまま殴りつけたところで、こいつは困りもしないけれど……
「……どうして」
 治癒の術をほどこして、ぽつりと疑問がもれる。
「そういう掟だと、忘れるほどぼけたか」
「…どう、して」
 馬鹿みたいに繰り返す。繰り返した言葉は疑問である以上に、憤り。
「あんたはその気になればそんなもの、いくらでも曲げられるのに! 今までそうしてきたように、曲げられる! なのに…っ、っなぜ!」
 なにもかもあきらめたはずなのに、いまさら。ひどく、憤った。
「曲げる必要を感じなかっただけだ」
 眉のひとつも動かさずに言い切る顔は、いつもと何一つ変わらない。
 昔から何一つ変わらない、薄情な。
 喉が震える。洩れた声は、なんだか嗚咽に似ていた。
「………あんたの子供よ」
 しっかりとした鼻梁と、薄い唇と。切れ長な目は、この子と似ていて。滑らかな髪に触れる度、苦しく思い出した。かつてこの男に錯覚していた、あの想いを。
「親で子で、それがなんだ。『だから情があるなどと思わない』…かつてお前がそう言っただろう」
「…実際、見ても?」
「見て声を聞き、なにかを思えと?」
 いっそ嫌そうな顔をしていれば、まだ。まだ、良かった。
 ただ心から退屈そうに、なんてことないように。目の前の男は己の娘の血に濡れた刃を下げている。
「あんた、どこまで……っ」
 ああ、違う。
 思い出していたのは、あの錯覚じゃ、なくて。
 たぶんまだ、夢を見ていた。
 わたしがだめでも、こいつは。
 あの雪の日、殺されそうになったわたしに伸ばされた手は、せめて、娘くらいには。
 やさしいんじゃ、ないかと。
「……この子があんたになにしたのよ。なにをしたっていうのよ……」
 背中から切られているのは、きっと。逃げ回った所為だ。
 目じりが赤いのは、泣いていた所為だ。
 気丈な子だ、同じくらい、泣き虫な子だ。だからきっと。必死で逃げ回ったのだろう。
 逃げても逃げても、この子はこの屋敷から出れないように呪が施されているけれど。
 その呪を施したのは…わたし、だけど。
「なんでこんな子供まで…」
「…子供だからなんだ」
「あんなあほな掟、従う必要、感じてないくせに…っ」
「必要は感じていないがな…」
 うっとうしそうに長い髪をかきあげて、そいつは息をついた。

「お前が嘆くだろう」

 声が、喉元で凍った。
 うっとうしそうに、億劫そうに。当然のことを言うように。
 そいつは、続ける。
 何を言われたのか理解したくないと思ったのは、生涯で二度目。
 一度目もまた、こいつの言葉で。二度目の言葉も、同じように紡がれて。
「なつくともなつかれるとも思っていなかったがな。なついてなつかせたなら、それも面白いと思った。暇つぶしにはなると。
 なあ、藍。お前も飽きないな。二度も繰り返して満足か。ぶらさげられた好意にすがって、取り上げられる」
 鬱陶しそう覇気のなかった顔に、ほんの少し色がともる。
 こちらを蔑む浅ましい色が、僅かに上がった口の端に宿ってる。
 凍えていた指先が、火でもともったように熱くなる。焼けそうに、痛む。
「……いつもあんたのやることだった。あんたの、することだった」
「そうか、なによりだ」
 ぶん、と軽くふった刀身から、ねばついた血が流れ落ちる。
 そうして銀を取り戻した刃の行き先は、わたしの喉元。
「お前は私のものなのだから」
 呼吸の度に浅く裂かれる喉を感じながら、わたしはそいつを見る。
 母をなくした雪の日、森へと追い出されそうになったわたしに、名と仕事を与えた男。母からもらった名前すら奪って、好き勝手にこちらをふりまわした男。
 わたしと、腕の中の子供と。もっと多くの生死与奪を握りながら薄く哂う、傲慢な男。
「…これからは、くれぐれもわたしの居ぬ間に儀式を行わぬようお願い申しあげます」
「…ああ、それがオキテだからな」
「ええ。その所為で御身になにかあろうものなら…―――、」
 決まり文句をつむぎかけて、笑う。哂う。
 おかしくてしかたがなくて、わらって。突きつけられた刃を握りこむ。
 滴る血は赤い。汚れたとなじられたこの血も、呪われたと謳われるあの子の血も。この血の気の薄い男と、同じ色。
 その薄い笑みを浮かべる白い顔が赤く黒く汚れる様を、わたしはずっと、ずっと。
「……そんな所為であんたになにかあったら困るのよ。
 あんたを殺すのはわたしなんだから」
 ずっとずっと、狂いそうなほど。望んでいる。一度目に声を奪われた、あの時から。
「…その言葉を聞いて何年たったろうな」
 低い笑声を無視して、力づくでその刃をどかす。立ち上がる。
 血で濡れた腕の中に、気を失った子供を抱きしめたまま。
「できるものなら、勝手にしろ」
 楽しそうな声に、振り向いたりしない。
 ただ黙ってに歩を進めて、腕の中の子供の頬に触れる。
 治癒の術を施したその体は、白くとも確かにぬくもりをとりもどしていた。



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こっから怒涛の救いがログアウトな展開です。まあ、今もわりとそうか…
2011/10/06