例のごとく初級の呪文を唱えて、魔力の光を生み出して、刀の切っ先へ宿させる。
 ぼんやりと明るくなったそこは、やはり、血で汚れていた。
 もはや何を言う気にもならず、ただ歩を進める。
 細長い通路は、やがて広く開けた場所へとたどりついた。
「…道、別れてますね…」
「まぁ、この場合、血の跡が続いてる方が正解だと思うけどな」
「…そうですけど。…なんか、ヤな感じ」
 じりりと眉を寄せて、舞華が言う。
 なんかってなんだ、なんかって。
 訊こうとして開きかけた口が、ぴたりと固まる。
 俺は改めて刀を構える。舞華もまた構えると共に、指先に宿していた魔力の明りをぽいと放った。
 開けたそこが明るく照らされると同時に、奥の通路から、それが現れる。
 暗い獣毛に覆われた、がっしりとした生物。犬に似た、その生き物。その数……10匹以上。まだ出てくるかもしれないのが、怖い。
「…ホントに出てくるんだもんなぁ」
「あら。…本当じゃないと思ってるのに、付き合ってくれてたんですか」
 背中合わせに軽口を交わしあう。その間にも、包囲網はじりじりと狭まる。
「実はお前の勘違いなのを願ってたんだよなぁ。で、一緒に謝ってやろうと思ってたよ。謝るとか成冶で慣れてるし、まぁいいか、と」
「あの成冶さんに勘違いとかしてた時代があったて話はものすっごく心惹かれるんで、じっくり聞いてみたいですけど。そんな場合じゃ、ないんじゃないですか」
「じゃ、今度聞かせてやるよ」
「拓登さんのマズいコーヒー飲みながら?」
「…アレがマズイと思う内は子供だ」
「…じゃ、美味しく思えるまで、…ちょくちょく行きますよ」
 言って、どちらとも苦笑し合う。同時に、俺達はそれぞれの得物を振るった。


 果たしてどれくらい飛んだのだろう。術を行使しっぱなしでは、身体に疲労がたまる。正直しんどい。
「…ここだ」
 言って、鈴が降り立ったのは、怪しすぎる洞窟の前だった。
 鬱蒼とした森は、いかにも魔物の好みそうな場所。だけれど、その岩肌に開いた穴は…不自然に綺麗。ついでに、崩れないように補強までした印象がある。
 さらに極めつけと言うか、駄目押しというか…、ともかく胸糞悪いことに、食い散らかされた人のパーツに見えるものが、血で湿った地面の上に落ちている。
「…こんな怪しいところ、自分で乗り込まないで、通報するだけで十分だと思うんだけどね…」
「…そういうところにつっこんでいっちゃうのが、舞華だからなぁ」
 しみじみとした口調で言いながら、彼女もまたそこに足を踏み入れる。
 オレとしては、もう、笑うしかない。なんだっけな、こういうのは。毒を食わえば皿まで? …ただのやけくそだよな、それって。
「人のこと、言えるの?」
「言えないよ。…マトモでいたいからな」
 悲しい眼をした鈴は、それでも笑う。オレは、さすがに笑えない。
 けれど、黙って彼女を見送ることもまた、できなかった。

 浅く切れた腕から垂れた血が、手のひらまで伝う感覚に舌打ちが漏れた。…手袋ないと、滑りそうで怖い。けれど、気にしていることもできない。他にも、細かな傷はいくつもあるから。
 特に痛いのは脇腹。爪で薙がれたそこが、ちりちりと痛い。…ああ、やっぱり、防具無しだと、こういう細かいのが、きついわね。
 他人事のように思うけれど、痛みは引かない。けれど、血が滴るほどの深さでは、ない。こんだけ動いても平気なのだから、爪に毒が仕込まれているというわけでも、ない。
 だから、平気だ。まだ―――平気、だ。
 それでも、こんな時は、いつも。
 続けそうになった弱音を、無理やりに打ち消す。背の高い彼女を探すのではなく、目の前の敵を睨む。向かってきた爪を捌いて、風をまとわせて強化した足でその胴に蹴りをいれる。それ自体が魔力を宿していると見える身体は、ただ衝撃に飛ばされるだけ。
 それでも、体勢を立て直される前に、目でも耳でも突いてやればよい。
 ぐ、と足に力を込める。槍を構えて、その瞬間。
 蹴り倒した犬もどきの頭が、音もなく綺麗に消えた。
 え、と息が漏れる。
 だって、倒れた魔物の向こうにいるのは。
「……お前に無茶をするな、と言うのは……無理だったんだよな」
 細身の剣を構えた相棒だから。
 呆れた顔をして、それでも優しく笑う彼女は、ちゃき、とその切っ先を残る犬へと向けた。
「もう止めないよ。無茶してもいい。…一緒に無茶してやるよ」
 じわり、と目の前がかすむ。
 あまりにやるせなくて。それなのに嬉しくて。嬉しいことが、余計に申し訳なくて。
 ほっぺが濡れているのは、お腹が痛いからだ、と、そう思い込むことにした。

 4匹目の犬を切り倒した時、背後から肩を薙がれた。
 身をよじりよけたともりだったが、遅かったか。
 軽鎧に阻まれたものの、それは確かに肩を割いた。
 …よりにもよって肩かよ。首狙われてたんだろうけど。きついな。
 それでも、振り向き、5匹目と対峙した。そして。
 5匹目は、俺がなにをするまでもなく、炎に包まれた。
「…なにしてんのさ、兄貴」
 灰と化した魔物を一瞥することもなく冷ややかに言ったのは、俺の弟だった。
 そして、その傍らにいるのは、舞華の相棒。…二人で来たのか?
「おまえら、なんで」
「それはオレの台詞だよ。明らかに。…舞華ちゃんはともかく、あんたがいると思わなかったよ、おにーさま」
 魔物の間をぬって走る弟が、オレの傍らに並ぶ。そうして、すぐに背中を合わせた。顔が、すれ違う。
「おにーさま止めろ。…お前だって、なんであの子についてきてるんだ」
「…なんでだろうねぇ。
 まぁ、美人を守るのは男の甲斐性って奴だから…じゃない?」
「似合わないことしてるな」
「…あんたは似合いすぎて笑えるよ」
 呟いた弟の声は、明るい。からりと晴れた空のように。
 けど、それが作り物なことくらい、俺は分かる。…顔が見えなくとも、俺は17年、こいつの兄をやっているのだから。その理由だって、分からないはずがない。…まったく、人のこと言えないのか、俺も。
「…馬鹿、だな。俺は」
 弟に心配されているのでは、世話がない。
 くつりと笑う俺。成冶は笑わなかった。
「そうだね…あんたは、昔から…馬鹿だ」
「その分お前が賢くなった。世の中うまくできてるよな」
「…オレはあんたのオマケじゃないけど。その説には賛成だよ。馬鹿な兄貴にも類まれなる剣の腕という取り柄がある」
 弟がふっと息をつく。一歩踏み出し、背中が離れる。
「けど1人じゃキツイだろ? 祐絵さんじゃなくて悪いけど、援護しますよ?」
「……頼むよ」
 一言余計だよ、とつっこむことはせずに、改めて地を蹴る。
 胸に湧いた感情は、兄としては不本意甚だしいが、間違いなく安堵だった。


 男は焦っていた。
 絶え間なく身体を襲う痛みは、せっかく解放した犬が次々仕留められていることを意味していたから。
 過ぎた痛みは、血を流さずとも体力を削り取っている。
 ああ、と男は嘆息する。
 ああ、こんな痛みでもまだ、死ねないのなら。
 俺は、やはり人ではなくなってしまったのか、と。
 痛みで少しだけ正気に戻った心は、すぐに消える。滾々と、湧き出て、昏々と深まる憎悪に邪魔をされて。
 けれど。
 俺は、一体。
 なにがそんなに憎かったのだろう。
 痩せた頬に、一筋の水滴が伝った。


 魔物の最後の一匹を切り倒すと、溜息に似た言葉が漏れた。
「…何匹いたんだよ…」
 気が抜けると同時に、肩の痛みを思い出す。顔をしかめていると、弟に逆の肩を叩かれた。
「座って」
「…ああ」
 言われるままに岩肌に腰を下ろす。…視界が低くなると、ちょっと嫌なもの(死骸とかその切断部とか)がもろに見えるけど、仕方ない。
 弟の呪文を唱える声に耳を澄ませながら、そっと呟いた。
「…死ぬかと思った」
「いや、死んでてもおかしくないはずなんだけどねー…あんたも、舞華ちゃんも」
「…私は助けに来てもらったんだから、言い返しませんけど。あなたおにーさんにはもうちょっと優しい言葉かけたらどうなのよ」
「優しく治癒魔術かけてるでしょ。…あ、単純だからそういうふかーい優しさは分からないか、君は」
「分からないんじゃありません! ただもっと、…あんたやることごちゃごちゃ細かくてむかつくのよ!」
「…そうか、細かいのはむかつくのか…」
「ちょ、なに落ち込んでるのよ! 鈴は案外変なとこ大雑把よ!?」
 慌てて言う舞華に、俺は何度目と知れない溜息がもれた。
 舞華の言いようから予想してたけど、どうして仲悪いんだ、こいつら…じゃなくて。そんなことより。
「…こんな漫才してる場合じゃ、ねぇだろ」
「そーだねー」
 成冶がぐるりと魔物の死体を見回す。その瞳には、嫌悪ではなく思考の色。
「…これ、かなり自律的な行動出来るようになってるけど。それでも人の作ったモノ。作成して…育てて、解放した人間、いるはずだよ」
「この奥に?」
「さぁね。オレだったらこいつらで時間稼いでる間にダッシュで逃げるね。これ、あんたらを歓迎するために急きょ出された、って感じだし。どっかの誰かの分かりやすい尾行はバレバレだったんでしょ?」
「分かりやす…!」
 なにやら反論しかけた舞華が悔しげに言葉を飲み込む。そんな場合ではないとわかってはいるようだ。
「けど、この奥にコレを作った道具とか残ってたら…すっげえ助かるな。そういうものって、犯人の追跡の手掛かりになるんだよね」
 言い切って、成冶はオレの肩へ添えていた手を離す。そこに、もう痛みはない。
「…じゃあ、やっぱ行くか」
 立ち上がり、ぐっと肩に触れてみる。
 綺麗に傷の癒えた感覚に、ふ、と苦笑が漏れた。
「…ホント、立派になったなぁ、成冶」
 聞こえないはずもなかった言葉を、弟は綺麗に無視した。
 …こういうところは、まだ子供、だなぁ。

「…ところで、成冶」
「なに?」
 控えめに訪ねる鈴に、オレは振り返らず返す。
 前を行く舞華と兄も、振り返らない。
「なにもなかったら、どうするんだ」
「…どーもこーもないんじゃない? その時はあの死体だけが収穫。…にしても、あんなに合成魔物作る金、どっから出てきたんだろうねぇ」
 金銭被害の出ていない犯罪のわりに、やることが豪勢だ。そのうち資金切れ起して収まるかもしれないとかも言われていたんだけど。
「…ああいうの作るのって、そんなにお金、かかるの?」
「素材にもよるけど……儀式に使う道具も薬もタダじゃないからねぇ……ある程度身体が安定するまで、羊水代わりにつけとく場所の必要だし…金ないとできないよ」
「…ふぅん…」
 訊いた割に気のない相槌を打った彼女が、ぴたりと足を止める。
 オレ達の目の前に、先ほどの場所と同じように開けた場所があった。
 そして。
 あの合成魔物がまるまる入りそうな、大量のガラスの筒に囲まれて、黒いコートを着た男が、浅い呼吸を繰り返していた。

 頬が濡れた気がして、拭う。どうやらそれが涙らしいと気付き、男は可笑しくなった。
 おかしくなった…狂気に侵された自分を、可笑しいと、思った。そうして、気付く。
 ―――ああ、そうか。
 俺は、きっと。
 その意識は、少しずつ冴えていく。

 自分は行きたかったのだ、妹のところへ。
 けれど、憎悪がそれを鈍らせ。未練と後悔に浸るうちに、あの影が現れた。
 あの影の誘惑に負けた自分は…恐らく、魔物を操っていたのではなく、魔物になにかを食われていた。食われて、なにか、人ではないものに、なった。
 だから、妹と同じところにはいけないだろう、けど。
 終わりたかった。
 影に与えられたそれは……悪夢でしか、なかったのだから。

 思った瞬間、目の前に、あの少女がいるのが見えた。
 妹と同じ色の髪が、淀んだ明りに照らされる。どこか幼さを残す顔も、妹と同じ年頃で。ひどく、妹に、似ていると。だから、その手で終われたなら、と。
 ああ、違う。妹に似ているわけでは、ない。俺が、妹のことしか考えてないから。だから。そう見えるだけ。
 千切れていく思考。ずきずきと痛む身体。動けずにいるうちに、す、と槍を突きつけられた。
 喉元へ突きつけられた刃は、苦痛に喘ぐ度、浅く皮膚を傷つける。
 その感覚に、ふ、と微笑む。
 瞬間、男の意識は、融解した。

 ガラスケースの一つにもたれ、無抵抗にこちらを見ていた男は、舞華に穂先を突きつけられてなお、抵抗を見せなかった。
 …こういうの、見たことある。
 自分の魔力の上限を無視した魔術を使い……精神としか言えないどこかが、壊れた人間だ。
 ならば、この場合。その魔術とは……
 湧き上がる嫌な予感に顔を引きつらせるオレに構わず、槍の柄で強かに顎を殴られた男はぐったりと弛緩している。
「…弱いわ」
 ぽつり、と舞華が呟く。
 ひどく暗い眼をしたその姿を、鈴が痛ましげに見つめていた。
「弱いわ……!」
 なのに、なぜ、多くの人が死ぬことになったのだろう。
 声なき悲鳴が聞こえた気がして、そっと目をそらす。
 そらした先…男の腕に、なにか、薄汚れた布のようなものを見つけた。
 腕にくくられたボロきれとしか思えないそれを、鈴もまたやけに悲痛な顔で見つめていた。
 ふ、と彼女の話を思い出す。
 それは、元は白かったのかもしれない。
 白いリボンだったのかも…知れない。
「……でも、終わったな」
 それでも、彼女はそれを言わなかった。こくりと頷く舞華を眺めながら、思う。…彼女のことだから、相棒には全部話していそうだけど。あの夢のことは何も言っていないのかもしれない。
 ならば、その沈黙を破ろうとは思わない。
 それが舞華のためになるかなど知らないけど―――…全てを知らない方が、幸せだということは、あるのだから。
「終わった、ね」
 オレは呟き、意識を失った男の腕に、魔力で強化した縄を巻きつける。
 胸に宿った疑念を、今は追求しない。
 今は、ただ。
 すべてが終わったのだと、思っていたかった。

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