スープを取りに行くと言った舞華は、いつまでたっても戻ってこなかった。
 ウェイトレスをつかまえて確かめれば、そのお客様は先に帰りましたとのこと。
 オレはともかく、彼女はうろたえるのだろう、と思ったのだけど。
「…やはり、か」
 言うなり、彼女はさっさと会計をすませた。次いで、小さく呪文を唱えた。
 魔術師とはいくつもの呪言を組み合わせ、自分だけの術を作ることができて一人前。
 だからこそ、オレには分かった。その術の意味が。
 彼女が使ったのは、位置探索の術。
 印象だけで述べるなら、特定の人物の持ち物―――舞華の場合なら、魔術道具と思わしき槍だろう―――の、魔力反応をたどるような。そんな術だ。
 辿って、その軌跡が見えているのか、彼女は夜の町を迷いなく走っていく。オレは湧き出る想いを止められない。
「…ストーカーっぽいよ、もはや」
「…言うな、私だってこんな術を使いたくなかった」
 さすがに笑みを捨てていうオレに、彼女は珍しく露骨に顔をしかめた。…自分が変って自覚はあるのか。
 しかし…
「…なんでそんなに舞華ちゃんを心配するの。あの子だって自分の行動に責任を持つべき年じゃない?」
「いつもならそうしてる! こんな術、4日目まで開発する気だってなかった!」
 走るのでは足りず、浮遊の術で空をかけながら、鈴は焦燥に満ちた声で叫んだ。
「けど―――っ」
 焦れたような声が、ぴたりと止まる。言いかけた何かを、躊躇う。…ふむ。ここまでしてまだ言いたくないことがあると。
「…オレ、君に振り回されてるよね。今だって、成り行きで舞華ちゃん探してさ。…せめて、理由、聞きたいな」
 冗談めかしたオレの言葉に、先ゆく彼女はびく、と肩を震わせた。…うーん、生真面目だ。オレが勝手についてきているとは、思えないのか。
「…このところ、夢を見るんだ」
 黙って先を促せば、鈴は静かに――風に邪魔をされるから、それなりの声量ではあるけれど―――静かに、続けた。
「誰かが死ぬ夢だ」
「それが、彼女だと?」
「違う。…違うんだ。長い髪を白いリボンでくくった子供が…魔物に襲われて、死ぬんだ」
 感じる違和感に、自分の眉が寄るのが分かる。
 それは、彼女がかつて仕事で見た光景だというのが関の山のはずだ。夢とは、記憶を整理するための事象という側面があるのだから。
 けれど、彼女の口ぶりは、まるで。
「それはとても悲しい。苦しくて、痛くて―――気が狂う」
 まるで、それを、誰かの気持ちのように、語る。
「…この夢が何を意味するか、私は知らない。
 ただ、この夢は、お前の兄に会った日から…いや、あの犬を仕留めてから見るようになった」
 それが聞きづらいのは、まとわりつく風の所為ではない。
 彼女の声が震え切っているせいだ。
「だから…あれの製作者の意思の残滓へあてられたのかもしれない、と、思った。
 信じないのなら、それでもいい。信じたところで、役には立たないさ。…女の子の顔も、製作者の顔も、まったく見えないんだからな。…けど、そういうことが、昔からあるんだ。私は」
 …信じるも、信じないも、なかった。…彼女の直感は、恐らく、真実だ。
 ―――須堂鈴。
 彼女が魔術師組合へ正式に魔術師として登録した時、「是非我らの研究所へ」と誘う声は、山とあったと聞く。当時12歳。…その時、既に彼女は優秀になると目された。
 勿論、それが学校を卒業した時なんてすごかったらしいけど―――結局彼女が選んだのは、街で魔物を狩る退治屋だった。
 それでもなお、たまに組合へ提供される彼女の研究成果は素晴らしい。組合へ勤めたがらないのは、実家を継ぐ予定があるのだろうと言われるほど。
 学校の先輩にそんなことを聞いたオレは、彼女に興味があった。稀代の才能と謳われるものを、見てみたかった。
 そもそもあの店に足を運んだ理由だって、それだ。課題で必要なことを聞きたかったことがあったのは本当だけれど、娘に話しかけられても嫌がらなかったのは、その所為。彼女は確かに噂通りの実力で―――その性格を知ったオレは、ずっとそれを努力ゆえのものだと思っていけれど。
「いつも…見えなくてもいいものばかり見える。普通なら聞こえないはずの声を聞く。
 …魔力の強い子に、たまにそういう症例があるだろう?」
 それだけではく、彼女は確かに『天才』と言ってもよいものを背負って生まれてきたのか。
 天から与えられたとしか思えない―――ごく稀に観測される神秘。知り得ぬなんらかの意思を、知識を知る。人にあらざるもの達の法則に近い位置に行きつく。それは、確かに、魔力がけた外れに強い子に、たまに観測されるのだ。…カタリではない、本物を見たのは、初めてだけど。
「…この町では、それはたまにある奇跡として扱われる。…私の故郷では、歓迎されなかった」
「…もういい」
 オレの声は無視される。痛々しい叫びが続く。
「だから私は…あいつを失うのが、怖いんだよ」
 ―――失ったら、きっと、夢の持ち主と同じになる。
 声なき声を聞いた気がして、自分の顔が歪むのが分かる。はぁ、と深く息をはいて――すぅ、と吸いなおす。
「鈴ちゃん」
 大きく、その名を呼ぶ。こちらを引きはなさんばかりだった速度が、少し緩んだ。
「君はまだ、マトモだよ。これからも…マトモだよ、きっと」
 告げると、見るからに強張っていた肩から力が抜ける。ほっとしたように。
「………ありがとう」
 その言葉は、風に紛れて聞こえない。ことにした。

 彼女の消えた方向へ術で飛ばせば、暗い空をふらふらと飛ぶ白いワンピースを見つけた。
 …まるで、夢遊病者だ。
「舞華っ!」
 嫌な感覚を振り払い、声を張り上げる。
 周囲にまとわりつく風に邪魔をされて聞こえないのか、それとも無視されているのか…ともかく、彼女は振り返らない。ふらふらと、空を歩く。
「このクソガキ―――や、神宮、舞華!」
 叫びながら、軽く体当たりをかけてやる。
 舞華は驚いたように目を瞠り、ぱちぱちと瞬いた。
「…拓登さん」
「拓登さん、じゃ、ねぇ。…お前、なにやってるんだ」
「なにって」
「お前、なに、追ってるんだ」
 ふ、と舞華が笑った。どこか楽しそうな表情。…今この状況には、少々不釣り合いな顔。
「……そーゆー言い方、成冶さんと、そっくりね」
 言いながら、彼女はふわり、と地面に降り立つ。
 追って隣に立つ俺を、静かな眼差しで見つめる。
「…変な感じする人を追っかけて、飛び出してきちゃいました」
「変な感じ、って…」
「だって、変な感じだったんですよ。まるで、拓登さんに会った日みたいな感覚」
「……それだけで、こんなとこに、1人で」
「馬鹿ですよねぇ。防具もなしに。武器はありますけど、なくても、きっと同じことしました。私」
 言いながら、彼女は静かに歩き、じっと前を見つめる。
 その先にあるのは、
「……洞窟、だな」
「そうですね…見ちゃったんです。ここに入ってたんですよ、その、人」
 天然の洞窟にしては、綺麗に開けた入口。なにより、奥の方にともる、魔力の灯。
 洞窟というより、岩肌に穴開けて補強したとでもいいたい印象。
 …勿論、ここが誰かモノ好きな世捨て人の隠れ家という可能性はある。けど。
「…ひどい匂い、ですね」
 血と、何か他の獣臭い匂いが少し離れたここにも充満するところに、まっとうな人間が暮らしているとは思えない。
 まだ乾ききらぬ血で地面を濡らしたそこが、真っ当な場所であるとは思えない。…誰かが連れ込まれたのか、なにかを食い散らかした跡かは知らないが。指に見える白いなにか転がっている辺り、被害者の生存率は多分低い。人口の赤で彩られた爪先が、嫌な赤黒さに塗りなおされている。
 ちら、と傍らを見る。舞華はじっと前を見たままだ。
「…拓登さん、私は。どうしても」
「許せない理由は、聞かない」
 皆まで言わせず、静かに呟く。キッ、と睨まれた。
「許せ、とも言わない。…そんな偉そうなこと言えねぇんだ、俺」
 そう、こんなことを言う資格など、俺にはどこにもない。けれど、でもよ、と言葉を継ぐ。
「お前が1人で無茶すると…心配な人間のことを忘れたらおしまいだよ」
「忘れてなんて―――!」
「忘れてるよ。ここに、1人できた時点で」
 上ずっていた声が途切れる。
 泣きそうな顔が、目の前にある。
 …本当に…正直なガキだ。長生きしないタイプだ。…いっそ、長生きしたくないタイプとでもいった方が、正しいのか。
 手を伸ばして、その頭をぐしゃぐしゃと撫ぜてみる。
 …本当は。ここで問答無用に当て身でも食らわせて、連れて帰った方がいい。怪しい洞窟がありましたよと警軍に教えてやれば、それで十分だ。けれど。
「…行こうか」
「…え?」
 きょとんとした顔で見つめられ、思わず苦笑が漏れる。
 …まぁ、したくないんだけどよ、こういうこと。
「…現行犯は指名手配犯とおんなじ扱いだからな」
「…拓登さん…」
 無駄に大きな瞳がこれ以上なく大きく見開かれる。
「お人よしですね」
 たぶん、お前みたいなのの相棒してる鈴には負けるよ。
 言う代わりに、ぐしゃぐしゃと髪を撫ぜて、そっと足を踏み出した。


 影の手をとった男は、望むままに、力を得た。
 けれど、その力には制約をつけられた。
 得物は女に限る、とそう命じられた。
 男は、別に構わなかった。既に彼の唯一の肉親を奪った魔物は打ち取られ、元より恨みは行き場をなくしていたから。
 最愛の妹と同じ年かっこうの命を摘むことに、躊躇いを覚えなかった。
 そうすれば、妹を守りきらなかった者達への復讐になると。そう、思ったから。
 最初は、望んだ通り、うろたえる警軍を見ることが出来た。妹を守りきらなかった彼らに痛手を負わせられた。影の指示に従えば、なぜか彼らの裏をかくことが出来た。影の提供した魔物は、男の言うこともよく聞いた。
 男は影に与えられた洞窟の中、1人その犬に命令を出し続けていればよかった。
 否、命令を与える、ではない。犬が得物を探す時、葬る時、男の意識は共にあった。
 犬の見たものを、男は見た。男はいつのまにか、そういうものになっていた。

 それに疑問を感じなくなった頃、犬は―――男は、1人の少女を見つけた。
 既に1人得物を食った後だったけれど、見つけた新しい得物を逃がすこともない、と。食い殺そうとした。
 けれど、少女は逃げた。
 逃げて、向かってきて、助けられた。そうして、逃げ切った。
 失敗をしたのは、初めてだった。
 犬が斬られれば己の身体も痛み。犬が討たれれば、自身にもなににも例えられぬ苦痛を味わうようになっていた。けれど―――それより衝撃的だったのは、逃げられたという事実。
 まるで妹と変わらぬ年頃の娘に、そんなことをされるとは思わなかった。

 行き場のない憎悪が、新しい矛先を見つけた。
 妹は強くなかったのに。妹は誰にも助けられぬまま、1人死んでいったのに。そう思うと、どうしよもなく少女が憎くなった。
 少女が憎いと思ったから、追ってみた。
 2度目のその時も、少女はとても強かった。その上、下手な警軍より腕の立つ人間が二人もついていた。
 腹立たしい、と思った。なにが腹正しいのか分からなくなるほど、強く。

 だから、少女の後をつけてみた。急に失敗し始めたことより、少女のことが気になったから。
 久々に見た明るい空は、なぜかひどく目に痛くて。なぜかぼんやりとしていると、少女に気付かれた。
 気付かれて、追われると思った。が、少女を止めた人間がいたから、そうはならなかった。
 その時点で、こんなわけのわからぬことは止めるべきだったのだと、男は分かっている。
 けれど、なぜか追ってしまった。追って、わざわざ姿を見せるようなマネをした。
 その結果、今度こそ追われた。今度こそ―――あの少女はここに来るのだろう。
 思い、男は魔力で強化したガラスに手を這わす。その唇が、にぃ、と弧を描いた。
 男の求めに応じ、ぴし、とガラスがひび割れる。
 それが割れた後に、むっとするような獣の匂いが広がり、その低い産声は、洞窟の中へこだました。

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