ああ、これは夢だ。そう思う。
 2人分の棺の前で、小さな子供が泣いている。
 私は、その子供の名を知っている。その子供がその先どうなるかも、知っている。ここにいつまでもいたら風邪をひいてしまうから、と叔母に手を引かれて、やっぱり泣きながら部屋に戻るのだ。そうして、叔母夫婦の元で育つことになる。
 だって、その棺の中身は、子供の両親だから。
 だって、その棺の中身は、私の大切な母さんと父さんだから。殆ど原型も止めていないけど、私の、大切な。
 泣き声が遠くなる。それが声が枯れるまで続くことを私は知っているけど。
 それでもふつり、と夢が途切れる。そうして。
 ―――目を明けて飛び込んで来たのは、見慣れた白い天井だった。
 その色に、上実木街の家へと帰ってきていたことを思い出す。ぱちぱちと瞬きをする度、明るい緑のカーテンから差し込む日差しが目覚めろと急かして来る。
 欠伸を噛み殺してベッドから降りる。扉で仕切られた台所へ歩いていけば、背中から腰までを覆う綺麗な黒髪が目に入った。
「…鈴、はよ」
 もごもごと呟くと、一瞬間が開いて、同居人が振り返る。
「おはよう」
 ほんのかすかに笑う鈴の瞳は、常の藍色ではなく、薔薇を思わせる深い赤をしている。…それを初めて見たのはいつだっただろう。半分寝ぼけた頭では、思い出せない。
 綺麗な色だなぁ、と思うけれど、彼女はそれが嫌いだ。魔術で常に色を誤魔化すくらいに。おしゃれや変装用のそれを、そんな風に必死に使う人は珍しいのだろうなと思うけれど、何も言えない。
 私がどれだけ納得できなくとも、生まれ持ったその色が故郷での幽閉の日々に繋がったというのだから…、私は何も言えない。なにか、楽になれる言葉を言えたらとは思うけど。
「…なにぼーっとしてるんだ。朝飯作るぞ」
「んー…そーねー…」
 不思議そうに言う彼女は、優しくて強くてついでに美人な私の相棒だ。一緒に暮らし始めて二年近く。いつまでも叔母夫婦の家にいるのが申し訳ないのだと駄々をこねて転がり込んできた私を、彼女は相棒だと言ってくれる。荒事に素人同然…もしかしたらそれよりタチ悪かったかもしれない私を、根気強く鍛えてくれる彼女は、むしろ師匠とかそういうものな気もするけど。なんにしろ、大事な人であることには違いない。
 けれど、彼女へ言葉にし切れていない思いは、案外多いかもしれないのだと。
 そんな風に思ってしまう理由は、きっと、例の犬もどきのことで気が滅入っているせいなのだろう。

 朝食と朝の鍛錬を終えて、私はぼんやりと内職の手を止めた。退治屋一本で食っていくのは難しいというより、それが出来なくなった時危いからと諭されたゆえの造花づくり。…正直、なにかあった時も、これ一本で食っていくのも難しいと思う。
 それでも、と言う鈴の意見が最もだと思うから、とりあえずやっておくけど。
「……」
 ぼうっと天井を見つめる。喋る相手がいないと退屈だ。
 いつもなら喋る相手になり得る鈴は、ただいま自家に帰省中。
 実家、と言っても。同じ上実木街に住んでいるのだけど、彼女のご両親は。
 繁華街へその店を構える、魔術道具屋『須堂』家主である彼女のお父さんの姓がそのまま使われているそこは、魔術師達には有名な店。
 まぁ、私みたいな魔術オンチにとって意味不明な道具を生産して作ってるお家のおじさんで、ついでにものすっごく無愛想だけど、なんだかんだで娘を心配しているらしい彼に、鈴が呼ばれたのだ。血の繋がりがない養い親でも、あの親子は仲がいいから。…鈴の話だと、心配してるのはお父さんではなくお母さんで、アナタも一緒に呼んでくれなきゃ離婚するわっとかなんとかもめてたらしいけど。まぁ、それだって仲がいいからこその戯れだ。…生きているから、できることだ。
 卑屈な方向に沈みかけた思考を無理やりに切り上げる。
 …ああもう、こんなこと考えるくらいなら、鈴に誘われた通りにくっついていけばよかった。たまには親子水入らずにしてあげなきゃ、とか考えなきゃよかった。
「…お昼でも、作ろ」
 努めて明るく呟いてみた。
 無音の部屋の中に吸い込まれて、一層空しくなった。

 昼食を終え、しばらく内職に勤しんだ私は、街を歩いていた。
 どうしても、もやもやとしたものが晴れない。…鈴の作るむやみに美味しい料理に慣れてしまった所為なのか、1人で食べてる所為なのか…分からないけど、どうしても、じっとしてられなかった。
 1人歩くそこは、平穏そのもの。例の事件で物騒と言われていても…昼間はナリを潜めているから、大して変わっていない。精々、紺色の制服を着た警軍隊員がちらちらといる程度。
 平和だなぁー…と思うのに、心のどこかがじりじりと焼ける。
 初めてあの犬に会った時から、耳鳴りが止まらない。
 狙われているのならいいのに。
 一度逃がした獲物にご執心とでもいうのなら―――追っていけるのに。
「……なんで、駄目、なのよ」
 呟いた声は、我ながら淀んでいる。夏の暑さと正反対に湿っぽい。
 心の中にどろどろとしたものが暴れる。
 なんで。どうして。奪うのだ―――と。
 小さく頭を振って、気分を変えようとする。…駄目だ、帰ろう。このままだと探しに行きかねない。
 あんなのを野放しにするのは嫌―――だけど、鈴の言葉が、耳から離れない。
 ―――犯人は人間……か。
 どうして…と、思うけど。そんな気持ちは…確かに分からない方が、いいのだろう。分かってしまったら、きっととても悲しい。悔しい。そんなのはきっと、寂しい。
 けど、なんで―――性懲りもなく考えかけた時。
 ぞくり、と。
 背になにかが走った。
 いつかの夜を思わす感覚に、思わず振り向く。と、慌てたように翻る黒いコートを見た。狭い路地へ駆けていく、背の高い、黒いコート姿の誰か。
 明らかに、こちらを見ていたと示すような動作。
 ―――あれは。
 もしかしたら。
 自然と足が動き、我に返る。
 甦るのは、実に珍しい…彼女のお願い。
『とにかく、無茶だけは、してくれるな』
 いつだって無愛想な彼女は、その時、泣きそうだった。
 握りしめた手が、己の手の平を傷つける。からからに乾いた喉は、痛みさえ訴えた。…けど。
「―――………鈴」
 ごめんなさい、と。
 私は呟いて。

「―――舞華ちゃん」
 ぽん、と肩をたたくと、少女はびくり、と身体を震わせた。ふらふらと路地へ踏み込もうとしていた足が、止まる。
 こちらに振り向いた鳶色の瞳には、どことなく生気がない。…言うならば、彼女にしては気合が足りない。
「せ、いじさん? なんで、こんなとこいるの?」
 不自然なくらいにうろたえた様をからかい倒したい気持ちをぐっと堪え、オレは声を低く保つ。
「それはオレの台詞だよ。こんな街中でなに殺気立ってるの?」
「え?」
「なにか、見たの?」
 問うと、舞華はぐっと息を詰まらせた。それは、どんな言葉より雄弁な肯定だ。
「なにを見たの?」
「…違うの。ごめんなさい」
 僅かに間をおいて返った言葉は、つきものが落ちたかのようにあっさりとしたもの。
「…ごめんなさい、変に、神経張り詰めてて…普通の人だったのに、変な人に見えて」
 静かに言う言葉に、自嘲するような笑声が混じる。
 …嘘、だろう、けど。これ以上問い詰めるのも躊躇うような頼りない風情だ。人走らせといてそれはないだろうと言いたくとも、みつけたオレが勝手に走っただけだし。
「…じゃあ、いいよ」
 そのまま何事もなかったのなら、それ以上のことなどないのだから。
 思いつつ、手を離す。
 背後から聞こえていたオレを追う足音も途切れる。
「…鈴? もう帰って来たの?」
槙太(しんた)さんが忙しそうで、邪魔するのは気がとがめたからな。
 帰ろうとしたら、成冶に会って。一緒に飯でも、と」
 槙太さん、とは彼女の養父の名前で。彼がいつも忙しいのも本当。だが。
 奇跡のように早めに切りあがった仕事の後、偶然出会った彼女に拉致されたオレは知っている。嘘だ。
 実際は、例の犬を追いたくて追いたくて仕方ない相棒が心配で心配で仕方ない彼女は、養父母に頭下げつつ帰路を急いでいたのだ。魔術道具屋須堂を訪ねて、つい彼女が頭を下げる様子が面白くて眺めていたら気付かれて。あれよあれよという間に一緒に歩いていたのだから間違いない。
 …まぁ、言わないでおいてやろう。言っても得があるわけでもないし。…それに。
「…ふぅん」
 苦笑する舞華は、そんなこと、ちゃんと分かっているように見えるし。
 …その調子で彼女の気苦労察してやれよ。…いや、この二人がどうなっても関係ないけど。知り合いが変なことに巻き込まれて死ぬのはやっぱり、こう、なぁ…
 努めて自然な仕草で額に手を添える。ずきりと痛んだ気がするそこを、そっともみほぐした。
「…で、どこ行くの? それとも帰って作る? とりあえず私、あんまりお金持ってないわよ」
「金は持ってないのに槍は持つの? 君?」
「そ、それは、…物騒ですから」
 そらされる顔に、一筋の汗。…正直者だ。すごく。馬鹿正直だ、ものすごく。
 オレ以上にそう思っているのであろう鈴は、はぁ、と息をついた。
「その辺ふらついて、適当に入ろう。…帰ってきてから、まともなもの買ってないから主食作るような材料がない」
「それもそうなのよねえ…お昼に買い足しとけばよかったわ」
 悔しげに言う舞華に、続いていた嫌な頭痛は収まる。…うん、どうなっても関係ないんだよね、この二人と、たいして関係があるわけじゃ、ないし。
「じゃ、適当に」
「お前の適当は本当に適当だから駄目だ。…適当っていうか、ジャンクフードばっかりじゃないか…」
「手厳しいね」
 歩きながら、そっと空を見上げる。
 薄く夕陽の色に染まった空に、僅かに夜が迫っていた。

 3人で適当に入ることになったのは、お値段が手ごろな家族向けの食事処。食べ放題のサラダとスープが嬉しい場所だ。
 注文した煮込みハンバーグセットをあらかた片づけた私は、ぼんやりと先ほどのことを思い返す。
 ―――驚いたし、焦った。
 あの時呼びとめられなければ、追ってしまっていたのだろうか。追っていたら…どうなっていたのだろう。
 …駄目。
 もしかしたら、と考えかけて慌てて止める。それを振り払うために、眼下のやりとりに集中する。
「お前トースト一枚で夕飯終わらす奴がいるか。そんなんだから棒のように細いんだ」
「いや、そんな母親みたいなこと言われても困る…食べる時はちゃんと食べてるよ」
「もっとこう、肉とか野菜とかを食えよ。1:3の割合で」
「あの、鈴ちゃん、全力でよそわないで。それ君のだし…」
 げんなりとでも評せそうな顔で、鈴から寄せられたサラダと揚げたお肉を見つめる成冶さんを見てるのはちょっと楽しい。
 いつも上から目線と言うか笑顔が嘘くさいというか存在がうさんくさいというかこんなんと仲良い鈴の神経疑うと言うか…ともかく、嫌いな人の困った顔はそれなりに胸がスッとするものだ。
 これが深刻に困ってるならともかく、アホらしい理由だから余計に笑える。
 そーよあんた男のくせに細すぎなのよ。むかつくくらい細いのよこのモヤシ。もっと肥え太ればいい。
 我ながら嫌な思いが顔に表れていたのか、成冶さんが軽くこちらを睨んだ。けどすぐにどん、と置かれたサラダの山に隠れた。ああ素晴らしいサラダバー。食べ放題って素晴らしい。
「…鈴ちゃん」
「食え」
「いや、その」
「食え」
「…………。分かったよ」
 諦めたようにサラダへドレッシングかける彼を見ながら、私はハンバーグの最後の一切れを口に放り込んで、スープのおかわりを補給しに行くことにした。

 そうして店内を歩いていると、ふと、みつけてしまった。
 先ほどみつけた、怪しげな黒コート。
 怪しげだと思う理由は、簡単。目が、あったから。嫌に冷たい眼が、こちらを確かに見ていたから。
 黒コートは、なんの感情も伺えない顔のまま、会計へと歩く。すれ違った一瞬、奇妙な香りをかいだ気がした。
 胸の奥で、心臓がやかましく鳴る。
 アレは、逃してはいけないと。血と獣の匂いがしたと。
 本能とでも言うべきものが訴えてくる。
 アレを追え、と。
 …でも、勘違いかも、しれない。それに…!
 ―――分かってる。
 両親と仲良く話してくることもできないくらい、鈴が私を心配してくれてること。それでもそれを表に出さないために、むやみに他の人に絡んでごまかそうとする。…誤魔化すなんて、キャラじゃないのにね。
 …分かるのよ、そのくらい。あなたを楽にできる方法は分からなくとも、私は。あんたの相棒なんだから。
 あんたがどれだけ優しくて、その優しさを私に向けてくれているか…分かってる。
 ―――でも。
 ごめんなさい、と。
 今度は、口にすることすらできなかった。


「はい、おしまい」
 血で汚れた店内の清掃をしてくれないか、と持ちかけた俺に、作業を終えた祐絵はそういった。
 祐絵の仕事の一つ。魔術師としての薬作成と販売。その中には、血を落とす薬なんかも、混じっているから。…いや、決して知り合いであることを利用して安くすまそうとしたわけじゃない。出すものは出してる。
「おう、ありがと。
 …でも、匂いはどうにもならんか?」
「ハーブの匂いは嫌い?」
「なんかスースーするじゃねぇか…鼻が」
「そこがいいと思うけど。…まぁ、喫茶店にはやはりコーヒの香りであるべきなのかもしれないわね。
 けど、血の匂いよりはマシだと思ってもらうしかないわ」
「まーな」
 苦笑しながら、窓を見つめる。外はもうとっぷりと日が暮れている。
 …また、夜が来たな。…祐絵のこと、家まで送るかな。こいつ、今もその辺の警軍隊員よりよっぽど強いけど。それでも、昔ほどじゃないし。女だし。…いや、…大事な女、だし。
 今日も、アレはどこかに出るかもしれないのだ。
 …いや、そんなこと…考えても、仕方ない。仕方ないはずだけど。
 軽く頭を振りながら、準備中の看板をしまうために外へ出る。…明日は、開店中の看板が出せるだろう。思うと、少しだけ気が楽になる。
 僅かに清々しい思いで、空を見上げる。
 と。
 まるでいつかの夜のように、空を舞う白いワンピースを見つけた。
「舞華…?」
 呟く間に、彼女は目の前を通りすぎる。
「舞華、オイ…!」
 今度は、大きく声を上げる。
 それでも一瞥すらよこさないのは、決して風が邪魔をしてだけではない。俺の姿は見えている…はずなのだから。
 一心不乱というか、他の何者も目に入っていないような、その姿。
 ぞくり、と嫌な予感が背中を伝った。
 いつの間にか伸ばしていた手が、間抜けに宙をさまよう。
 あいつは…なにを、追っていた…?
 立ちつくし、拳を握る。そんな俺に、背中から声がかかる。
「どうしたの?」
「いや、知り合いが…いて」
 なにか様子が変で、と続けるのを躊躇う。
 それを言ったら、俺はきっと彼女を追わずにはいられなくなる。
 …そんな必要はないのに。ないはずなのに。
「拓登」
「あ…、なんだ?」
「顔、変よ」
「変、か?」
「とても」
 無理やりに笑いながら答えても、祐絵は笑わなかった。…当たり前だ、そういう女、なのだから。
 どこまでもいつも通りな女は続けた。なんでもないことのように。
「わたしが仕事を止めると言った時のような顔よ」
 違う、と言おうとして、喉の奥になにかが詰まる。苦しい。誤魔化すように店内に入っても、喉のつっかえはとれない。
 それは。
 守りたいものを守れなくて、後悔していた。あの時と。同じだと言うのか、今が。
「…………俺、は」
 もう、そんな思いをするのに疲れたから。警軍を止めたのに。
 耐えられなくて止めたはずなのに、なぜ、今。
 なぜ―――さして縁のないあの少女が心配だと思うのだろう。
 ぐ、と拳を握りながら、カウンターの中にまで歩く。そこに立てかけてある刀を見つめる。
 刀を見つめている、と気付いた時、急に可笑しくなった。
「…どーしよも、ねぇな」
 自然と柄へ伸びた手に、苦笑が漏れる。祐絵は何も言わず、静かに首を傾げた。

 なにかを守れる気で、剣の腕だけを磨いた。
 なにかを守れると信じて、警軍に入った。
 漠然とした「なにか」には、いつしか全てという名前がついた。

 全てを守る気で、警軍にいた。
 全てどころか、惚れた女1人守れずに。父の死に目にすら会えずに。
 そんな自分に愛想がつきて―――もう、止めようと。思い上がらないのだと、決めたのに。
 決めたのに…同じことを、繰り返すのだから。

 ふ、と笑みが漏れる。何様だ、俺は。
 胸によぎるのは、間違いなく自己嫌悪。けれども…
「…祐絵」
「なに?」
「俺ちょっと、これから出てくるから。悪いけどさっきコーヒー飲んだ時のカップ、洗っててくれね?」
「いいわよ」
「頼む。後は好きにしてくれ。たぶん今日中には帰って来ないから」
「分かったわ」
 理由を聞くこともなく、あっさりと頷く祐絵。
 挙動不審であるはずの俺に、なんの追及もよこさないその態度は、信頼なのか興味がない証なのか。考えると悲しくなりそうだけれど、今は少しだけ安堵する。
 どんな時も「らしい」女に、どうしよもないほど安堵を覚える。
「じゃ、いってくる」
 刀と、その隣の防具一式をしまった袋をかついで、俺は玄関へつま先を向ける。
「いってらっしゃい。気をつけて」
 静かな声に振り向くと、祐絵は笑った。
 ふわり、とどこまでも柔らかく―――どこまでも、穏やかに。
 荒れていた心が、しんと静まる。…思い出す。
 見逃してしまいそうなほど微かなその表情は―――俺がこいつに惚れた理由の全て。
「…ん」
 頷いて、今度こそ踵を返す。
 俺は、お前がいるだけで。どうしよもないくらい……―――
 いつまでも言えないまま胸に留まる言葉を、いつか告げられたら良い。
 思い、それでも夜へと駆けだした。

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