壊れた屋根を直すには、3日の時間と、この間の稼ぎがさっぱり消えるほどの金額を要した。
 入ってよかった住宅保険とか言いつつ、既に綺麗に治った屋根を見ても、どうしても溜息が洩れる。
 壁に点々とついた血は、既に黒く固まっていた。

「それで…わたしのところに」
「現実を直視してるのが、つらくてな…」
 差し出されたカップを受け取り、口元へ運ぶ。白いカップから漂うのは、何度嗅いでも慣れることのできないハーブの香り。それに感じるのは、安堵なのか違和感なのか、実のところよくわからない。
 ただ、自分では決して買わないそれに、小さく嘆息する。
 そう、ここは俺の家ではなく…上実木街の片隅―――って言っても、俺の家とは反対側の、片隅。似ているのは寂れ具合くらいの片隅にある、集合住宅の一室。
 さっぱりと片付いた古びた家の中で、俺にカップを差し出した家主は僅かに首をかしげる。
 肩口の辺りで乱雑に切られた銀の髪が、さらりと揺れた。
「見ないと綺麗になるわけでもないでしょう?」
「……まーな」
 もっともな言葉を返されて、俺はもう笑うしかない。全然楽しくないのに、くつくつと笑いがこみ上げる。
 明らかにおかしい俺を、傍らの女は人形のごとく整った顔をぴくりとも動かさずに見つめていた。
 …なんかつっこめ、とは言わない。どっか無気力でかなり無反応で基本無表情で。それがこの女だ。この、本城祐絵という女だ。
「…けど、突然悪かったな」
「さっきも言ったけど、何を謝るの。カギだって預けているのだから、勝手に入ってても驚かない」
「そうだけど、な…」
 曖昧にそう言ったきり、沈黙が落ちる。
 話しかければきちんと答えるけれど、こいつは口数が多い方ではないし、俺も、そう喋る方ではない。
 だからそれは珍しいことではないけれど―――なんだか、今日はやけに身にしみた。
 別に喜んで欲しいわけではないが。久々に会ったのになんかないのか、と言いたい気もした。
 けれど、それを言っても答えは一つだろう。『久々に会ったらかしこまらなきゃいけないの?』だ。
 不思議そうな、けれど朴訥とした表情まで細かに想像できて、軽くへこむ。なぜへこむかと聞かれれば、…それも答えは一つだ。
 こいつは、俺に惚れてなどいないけれど。
 俺は、こいつに惚れているから。
 恋人という形におさまっているけれど。
 こいつにとっては、かつての職場の相棒で。体の良い男よけで。俺の行為は贖罪ということに、なっているから。
 そのきっかけは、今でもよく覚えている。思いだすまでもないくらいに、覚えている。
 ―――昔、警軍の対魔部隊にいた頃。二人で組んだ仕事中に、怪我を負って、退役するのだと言うこいつに、俺は言ったのだ。
『…責任とらなきゃなぁ。女にそんな傷作らせた、さ』
 守れなかった、口惜しかった…そんなことは言えなくて。軽い口調で冗談を言った。
 薄っぺらいそれはただの軽口―――だった、のに。
『とってくれるの?』
 返ってきたのは、静かな言葉。泣きたいくらいいつも通りの、その声色。
『なら、付き合って』
 何も言えずにいると、言葉は続いた。揶揄も嘘もなく真摯に。
『あなたがわたしの男になれば、言い寄ってくる男を断るよい口実だから』
 それは、終わりで。
 それが、始まりだった。
 ―――あの時。違うのだと口にして。好きだと告げることだけの男気は、俺になく。今も…ないままに、『恋人のまねごと』を続けている。
 何も変わらずに。ただ、頭をがんがんとたたかれるような感覚を感じながら。
「…祐絵」
「なに?」
 何も言えないままでも、名を呼べば、答える声と、眼差しが手に入る。
 俺をじっと見る、青い瞳。夏の日差しを受けて艶めく長い睫毛に縁取られたそれは、常に何の感情も伺えない。
 好きだ、と。
 言ってみようかと、少しだけ思った。けど。
「…俺さぁ、やっぱ巻き込まれてるんだと思うか?」
「あなたの話を聞いている限りでは、巻き込まれている可能性があるのは、拓登ではなくその神宮という子と須堂という子だと思うけど」
 想いと異なる言葉にも、祐絵はさらりと答えた。
「だって、二度も襲われたのだし―――その犬が件の連続殺人の犯人だというのは、もう断定されているのでしょう? なら、狙われているのは年若い女だと言うじゃない」
「…だよなぁ」
「そもそも目的が分からないから、でかい男に趣旨変えした可能性もあるけど…あなた、この3日間、なにもなかったんでしょう?」
「その通りだけど…趣旨がえとか言うなよ。なんか気色悪い」
「そう」
 頷いて、またその唇は閉じられる。白いカップが傾けられて、隠される。
 その様をぼんやりと見ながら、巻き込まれているかもしれない彼女達を思い出す。
 一度目は偶然かもしれないけれど。二度目は狙われていたのかもしれないから、と。
 彼女達は今、再び上実木街を離れている。
 離れている3日の間にも、犬は一匹出現し―――…被害を出さぬままに狩られたらしいけれど。…そんなことより。
「大人しく逃げるなんて、できるかね、あのガキ」
 口の中だけで呟いた言葉は、誰に届くともなく消えた。


 ぼんやりと空を見上げる。
 近年急に森に住まい、生態系を壊してしまうという魔物を狩った後でも、空は青いし、風は熱かった。
 …統都の外の空は、なんとなく広い気がする。建物がない所為だと思うが、広くて、少しだけ不安になるのは。たぶん、生まれ故郷を思い出すからだ。広くて狭いそこを思い出して、そこで失った人を思いだすから。濃い色の空の瞳と、広い大地に似た髪を持つその人を思い出すからだ。それに、今、不安な気持ちなのは、あの日から続く、あの夢が…
 嫌な方向に暴走する思考を止めるように、空から目をそらす。
 目が合った舞華が、不自然なまでににっこりと笑った。
「ねー鈴ー」
 皆まで言わせず、否定が口を突いて出た。
「嫌だ」
 ぴし、と言ってやれば、舞華は口をつぐむ。不満げな顔で。
 けれど、それはしばしの間。相棒はこちらを半ば睨むように見つめた。
「…なんでそんなにアレに関わることだけは嫌がるの。今してることだって、十分危ないことでしょう?」
「…舞華」
「狙われてる『かも』で逃げるようなマネするのも、嫌だし。やっぱり元凶探してしばいて突き出して…っていきたいんだけど、私」
 その熱っぽい言葉は、ここ数日で何度か聞いたもの。
 …上実木街から3日引き離してみたけれど、今日で撤収して帰宅。…その間にも被害(未遂)は出たから、やはり無差別で偶然か、と思うこともできる。…心にもないことだが。
 自分でも信じていないことを言っても、誰かを説得できるわけもない。だから、まだ言いだすとは思っていた。
 …もう、ごまかさないで、はっきりと言わなければ。
「…私が止めているのは、危ないから、だけ、じゃない」
 不満げな顔をする舞華に、私は努めて静かに続ける。…大事なことは、もう少し必死に言ってもいいのよ、と。そんな風に言ったのは、こいつだった気がするけど。性分だから仕方ない。
「拓登が言っていただろう? これは個人の解決すべき問題じゃない。
 後ろにいるのは、魔物じゃなくて人間だろうからな」
 ぴくり、と舞華の表情が変わる。
 やるせなそうな、悲しそうな―――どうしよもなく、頼りない顔だと思う。…それでいいのだ。
 退治屋に、魔物を、賞金のかかったお尋ねモノを狩る権限はあれど、人を裁く権限は与えられていない。それは退治屋に誤った万能感を与えないため以上に、個人で背負える責任の重さを配慮しているのだと、私は思っている。
 …でも、こいつにとって、そんなことは関係ないのだ。背負うとか背負わないとか…そういう問題では、ないのだ。
「……考えてなかったわ」
 それはそうだろう。
 彼女の世界で憎むべきものは、魔物だけになってしまったことを知っている。
 その理由も、知ってしまっている。その危うさも、知っているつもりだ。
「…そっか、なら止められて当然だわ。…分かったわよ」
「…そうか」
 頷きながら、思いだす。相棒が危いと思う理由を。
 初めて会った時が、そうだった。
 その足首を半ばまでを食いちぎられかけていた少女は。
 それでも槍を手放すことはなく、闘志を込めて敵を見据えていた。
 それを苛烈と呼ぶべきか、狂気と呼ぶべきなのか。私は知らない。
 ただ、それを身の内に収めておくに、彼女があまりに無力だったことを知っている。
 商業を勉強する学校に通いながらも鍛え続けたという槍術の技術そのものは素晴らしかった―――けど、実戦慣れしていない彼女は、ある意味素人より危かった。…だから。
 傷を癒し、一緒に来ないかと告げたのは、ただ単純に心配だったからだ。
 その時は、ただ、それだけ。
 けれど今は、眩しいと思う。
 憎しみを抱いてなお前を見るその眼差しが。立ち止まることなく先を目指す姿勢が。
 だから、せめて、その先が明るいものであるように、守りたいと思った。
 その思いは、彼女のそれとは違い、ひどく利己的で。欺瞞に満ちて。過去の傷を慰撫するためのものだけれど。
 彼女を守ろうと思うのは、もう、彼女のためだけではない。彼女を守ることで、遠い昔に失った人を思っている。
 私が『須堂』鈴になる前に。やれ忌み子だと閉じ込められていた頃に、自分の所為で消えてしまった…かけがいのない人の代わりに、せめて彼女だけは、と―――夢を見ている。
 …舞華は相棒で、彼女は私の世話役で。性格も年齢もまるで似ていないけれど…どこか、似ているから。私が無理に重ねているだけかもしれないけれど、どこか、似ているから。
 ……こうして私は、いつでも過去のことばかり見ている。  だから、この相棒が眩しいのだと、そう思う。
「…なんでかしらね。同じ人間なのに」
 ぽつり、と感情のこもらない声に、思考に沈んだ意識が揺り戻される。
 なんとなく空を見つめていた眼差しを、彼女へと戻す。
「なんでかしら」
「…分からないよ」
 否、分かってはいけないのだ。
「…帰るぞ。バスがなくなる」
「そーね」
 魔術を使った、無差別な殺害。性別の囲いさえあれど―――なにが憎いのか気に入らないのか分からないような、その手口。
 そんな悪意など、分かってはいけない。
 分かってしまったら、きっと。
「…ともかく、無茶をしてくれるな」
 きっと、私は、同じことをするだろうから。
 言えない言葉は、やけに優しい言葉に化ける。胸に巣食う不安がそうさせた。
 ちらりと頭をかすめたのは、あの魔物に遭遇した日から続く夢。誰かの嘆きと。白いリボンと。連日夢に現れるそれの意味を、私は考えない。考えたく、なかった。


 一時に比べれば楽…というか、通常のそれに近づいた業務を終え、オレは帰路に就こうとしていた。と、後ろからがし、と肩を掴まれた。
 誰か、などと、確かめるまでもない。何んとなくわかる。経験上。
「なー。相崎ー。お前、この間キレーな顔のねーちゃんと会ってたよな? あの美人とどういう関係?」
 キレーな顔のねーちゃん。…綺麗な顔の女。そして、こいつに見られてそうなところで会った女。…鈴か?
「知人以上友人以下。」
 振り向かぬままに言い切る。が、谷川はめげなかった。
「じゃ、一緒にいた可愛い顔の方は?」
「天敵。」
「なんだよその取り付く島もねー言い草」
 つまらなそうに言う谷川に、オレは本心からの思いやりで忠告してやることにした。
 不本意ながらなにかと付き合いのある中で、舞華にナンパをしかけた不幸な男の末路なんぞ思い出しつつ。
「お前女好きなのはいいけど、茶色い髪の方やめとけよ…ぶん殴られるぞ、下手なこと言うと。いや…黒髪の方を弄んだりすんのはもっと止めた方がいいと思うけどな。それで別れたら茶髪の方に闇打ちされるから」
「…お前がその茶髪のかわいー方が嫌いなことはよく分かったよ」
「実は黒髪の方もそんなに好きじゃない」
 いつまでたっても肩に置かれた手を払って、壁にもたれる。
 …こいつも女の話するためだけに話しかけてくるほど、暇ではない、…だろう。
 黙って先を促すオレに、谷川は苦笑のような顔をした。
「…にしても、無駄だったんだってな」
 なにが、とも、誰が、とも聞かない。市勢はともかく、魔術師の間で話題をさらっているのは、例の犬の合成魔物と、その作成と制御とを行っているであろう術者である。
「らしいな。警軍の管轄だから詳しくは知らないが。なにかをする間もなく死んだそうだよ」
「合成魔物にはありがちだよなー…なんか薬差さないと勝手に死ぬ、って」
「まぁ、自我があってもそれエサに制御できるしな…」
 彼の言うとおり…魔力で持って複数の生き物…時には魔物を無理やりに一つの合成魔物に作り替え、使役することには、薬の投与を伴うことが一般的。それが、完成してからも続くことも、なんら不思議ではない。
「…今回のは、それを短めに調節してたんだろうけど」
「捕まった時のために? 下手なことばれないように?」
「だろうね」
 それを生かしていては、どこに帰ろうとするか、調べられてしまうから。…事実調べようとした矢先息絶えていたのだから、鈴の機転も役に立たなかったわけだ。
 そういえば、谷川に目撃されたであろうその日、そのことについて申し訳ななそーに誤ってきた彼女は、今、相棒と旅の空だと言ったか。…それとも、そろそろ帰ってきているか。…オレには関係ないから、どうでもいいか。
 …そんなことより、日々の仕事や急な雑務どこまでも面倒だ。
 思い、なんとなく窓から空を眺める。と、谷川もそれに続き、呟いた。
「…また、夜が来るなぁ」
「そろそろ、明けて欲しいもんなんだけど、ね」
 呟きを返すオレに、悪友はまったくだ、と頷いた。

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