なにやら立て込んでいるらしい成冶からの電話を受けた後も、俺は普段通りに喫茶店を切り盛りしていた。
喫茶店『みなと』―――港。海から帰った人々がそうであるように、ふと立ち寄り、安堵してくれる場所になれば、と。そんな風にして、父が名を決め、病に倒れるまで切り盛りし続けた喫茶店。
それは、周囲がどれだけごたつこうと、休むことは相応しくないように思う。…けれど。
『俺は殺しあいをさせるためにお前を育てたわけじゃない!』
相応しくないと言ったら、男手一つでガキ育ててくれた父を置いて軍属を決めた俺なのかもしれないけれど。
「……」
きゅ、と磨き終えたカップを棚へしまう。…なに辛気臭いこと考えているんだか。
なんとなしに時計を見れば、既に閉店間近。…窓から伺った空も、もう暗い。
カウンターの奥からクローズの看板を持って、ドアを開ける。そうして。
「…もう閉店、ですか?」
店の前で気まずげに呟く、茶髪の少女とかちあった。
「君…」
そこにいたのは、昨夜会った少女二人。―――神宮舞華と、須堂鈴だった。
なんで、と思ったが、そういえば教えた。お礼言うなら喫茶『みなと』をよろしく、とか。
「…本当にわざわざ礼を言いに来たのか」
「だって、助けてくれましたからね」
言って、屈託なく笑う舞華。
思わず笑い返して、クローズの看板を店内に置く。
「なら、ちょっと営業延長しますか」
特にこの後の用事なんてないし、追い返すのも気が引ける。
改めて扉を開ける俺に、舞華はにっこりと笑い、店内へ足を踏み入れた。
「本当はもう少し早く来ようかと思ってましたけど。ちょっと上実木街離れてまして」
「元から入ってた依頼が一件があったからな。片づけたりどたばたしたたら、三日たってた」
今、カウンター席へ腰かける二人は、退治屋としてコンビを組んでいるそうだ。…どうりで魔物にも血にもひるまない。
そういえば、聞いたこともある気がする。やたら若くて、しかも女。なのに、ひたすら強いと言われる二人組の話は。退治屋免許は一応15から取得できるが、それで即座に身を立てる若者は中々希少だから。まぁ…本業じゃないから、それ以上は記憶にないけど。
「忙しいんなら、無理しなくてもよかったのにな」
苦笑しつつ、2人分のコーヒーを、湯で温めたカップへと注ぐ。
それを見ながら、明るい娘は不思議そうな顔をした。
「…あんなに強いのに、喫茶店で働いてるって、本当だったんですね」
「はは、だから助けた礼がしたいんならじゃんじゃん通ってくれ」
「それは味次第だと思うが」
ぽそり、と言ったのは鈴。舞華も頷いて同意する。…正直な奴ら。
口には出さず、ことり、とカップを置く。
二人が手を伸ばした。
伸ばして、カップを傾けて。そうして、第一声は。
「あ、やっぱりケーキもつけてください」
それは甘いものでもつけないと飲めないって意味か。
そしてその横で悲しげに首を振るなよ鈴は。まずいならそう言えよ。言っとくけどこれよりまずいコーヒー出す店たまにあるからな。
「…承りました」
静かに言う俺は、どうにか営業スマイルを浮かべていられたよ思う。
「…ところで、拓登さん。拓登さんは、あれについて、どう思います?」
ケーキをあらかたたいらげた舞華は、どこかうきうきしたようにそう言った。
「……あれ、ねぇ」
「あれ、ですよ」
あれ、とは。例の連続殺人事件。
それは…昨日新たな被害者を、生みだした。
やはりアレを召喚だか作成したものがいると考えられて…俺とこの子の遭遇したそれは、あくまで多くいる一匹でしかなかったわけだ。
溜息をついて、舞華を見つめる。…この口ぶりだと、あれだよなぁ。
「ねぇ、あれ、私達で解決しちゃいません? 結局賞金もつきましたし、ね。羽付き犬がそこそこのお金に化けます」
「…舞華」
俺の予想を裏切らない提案をたしなめるように言ったのは、彼女の相棒。
その顔が渋いのは、今度こそ俺の淹れたコーヒーの所為ではないはずだ。
けれど、年若い退治屋は相棒へふ、と息をついてみせた。
「だって、いつまでたっても解決しないものっ。それに、狙われたんだから。しかえししなきゃ。受けた恨みは3乗返しが我が神宮家の家訓よ!」
「そうか、立派な家訓だな…」
感心したように言う鈴。嫌みかと思ったけど本気で感心してるっぽいんだけど、こいつ。
いや、それ、自信満々に言ってるけど立派じゃない。危険思想だ。親もこういう感じなのか、この娘は。
「しかし…危ないぞ。あれは強い。あれを使役する術師は、当然強い」
仕方なく、俺も口を出す。
舞華は分かっています、と頷いた。
「だからこう、3人でやりましょ?」
「…俺は嫌だ。この通り、本業は喫茶店なもんでな。
確かに、金は欲しいけどな。そういうやんちゃは無しだ」
軽く答えると、ばん、とテーブルがたたかれる。ぐいと身を乗り出してきた舞華は、睨むかのようにこちらを見た。
「そうじゃなくて、もっと、こう、正義の心で!」
言い募る彼女の瞳は、どこまでも真摯。どこか、郷愁の念すら湧く表情。
似ている。
似ているものを、昔、見ていた。
一瞬、息が詰まる。それは、まるで、過去の職業に触れられた時のように。
「……悪いな。俺はもう、そんなもののために働けないんだ」
その瞳は、例えば周囲にあった。
その瞳は、例えば鏡の向こうにも、あった。
けれど、それは……脆いものだ。
「…同業の先輩として言っておいてやる。舞華。そういうつもりで魔物を狩ると、待っているのは早死だ。
こういうのは、個人の手に負えることじゃない。諦めろ」
淡々と言う俺に、舞華の表情が歪んだ。悔しげに、ではなく…まるで、泣き笑いのように。
「…分かってます」
けれど、返った声は、案外静かだった。
「…けど、私は、どうしても。…許せませんから」
それは、静かだからこそ不穏な、暗い声。
許せない。
暗い声は、きっと、襲われたことに対してではない。魔物を狩る人間には、珍しくない。もっと深い―――恨みがあるのだろう。
「…舞華」
そう、名を呼んで、一体なにを続けようとしたのか、俺はよく分からない。なにより、続ける前にがたり、と乱暴に椅子が引かれる音が響いた。
「す、鈴?」
「…なにか、聞こえた」
暗さではなく驚きを滲ませて己を呼ぶ相棒に、彼女はひどく張り詰めた口調でそう言った。
「は?」
その、尋常とは言えない様に、思わず声を上げて、耳を澄ます。
人通りも建物もまばらな道に立った店の周囲は、当然静か。妙な音は聞こえない。―――けれど。
ちり、と肌の焼けるような感覚を―――殺気とでも言うべきなのかを、感じた気が、した。
「お前ら立て! こっから―――」
今すぐ出るぞ、と。そう言おうとしたのと。
築12年の屋根がぶち破られる音が響いたのは、ほぼ同時だった。
唸り声だ、と最初は思った。
ひどく不穏な唸り声は、私にしか聞こえなかったらしい。けれど、驚きはないし、間違っているとは思わなかった。…人には見えぬものを見るのも、聞くべきではない声を聞くのも、珍しくないから。
だから、声のことを告げるなり顔をこわばらせた拓登に、意識するまでもなく呪文が口をついていた。
ぎりぎり3人を囲める程度の防御用結界が生まれるのと、屋根が壊れたのはほぼ同時。
不可視の壁の向こうで、ぱらりぱらりと屋根が落ちていく。
そして、上がった土煙にうろたえる暇もなく、なにかがこちらに飛び交ってきた。
「鈴っ!」
急ごしらえの脆い結界が破られるのと、相棒が槍を構えて私の前に立つのも、また同時。
ぎぃん、と、爪と穂先とがこすれる音が聞こえた、次の刹那に、爪の持ち主は崩れ落ちる。
突き出された槍に、その目を突かれて。
舞華は魔力を宿した槍をぶん振るい、血を払う。そのままの勢いで床を蹴り、次の獲物へと駆ける。
次の…何匹もいる、人が合成した思わしき、犬の魔物へと。唸り声を上げて、私達をかこんだそれは、先日相まみえたものに良く似ている。
「こいつら、なんで…!」
私と背中合わせに苦い口調で呟く拓登も、既に刀を抜き、その刀身を赤く濡らしている。
確かに、なぜ…今までとは違い、個人の家を襲う…?
「なんで、こないだ新調したテーブルクロスとかそういう新しいものばかり狙って荒らす…!」
声はどこまでも悲痛だった。…それはそうか。ここはそもそも彼の家であり店なのだから。
私とはわりと違う疑問に怒りを燃やしたらしい彼は、だん、と一歩踏み出す。
背中で魔物の悲鳴を聞きながら、私も唱えた術で手近な魔物の頭を飛ばす。
そして、剣を抜いて駈け出した。
「―――……これ、で最後、よね」
ぶん、と槍を振るい、舞華は呟く。
そして、服へ跳ねた血痕に、悲しそうな眼差しを向けた。
「ああ……、一匹、生け捕りにしたけどな」
相も変わらず静かな口調で言う鈴は、それを氷の塊を軽く拳で叩く。例の犬もどきを閉じ込めた、氷の塊を。
俺はと言えば、ああ、成冶が喜ぶかな、なんて、思う余裕もない。
「…しかし…なぜここを狙った?」
呟く鈴の目線が、俺に向けられる。心当たりを訪ねるように。けれど。
「………知るか。ここは親父の代からとても清く正しい喫茶店だよ」
答える声は、我ながら全力で投げやりだ。…しかし、投げやりにもなろうというものだ。
ちらり、と店内を見回す。深い、どこまでも深い溜息が洩れた。
魔物の血に濡れた壁。清掃費。考えたくない。
ぶちぬかれた屋根。修理費。どうか目をそらさせてください。
「…………アンド、俺の涙。ぷらいすれす」
もれたのは、我ながらわけのわからぬ言葉だった。
自然に肩が落ちる。吐き気に似たものがこみ上げるのは、決して辺りに漂う血の匂いに対してではない。
「…えっと、拓登さん」
「んだよ」
「…ものすごく落ち込む気持ちは分かりますけど、悔やんでも仕方ないですし…、優秀な大工さん、紹介しますよ?」
「そういう問題じゃ、ないんだよ…」
彼女の気遣いは、少々的を外している。魔物に襲われた喫茶店に、誰が来たがるんだ、っていうな…
知らず肩が落ちていく。ずるずると。
なんでこんなことに…あれか? 軍退役したつーのに未練がましく退治屋してたツケか。いやけれど稼ぎは足りないし。料理も母親蒸発してからは父親任せだったし。俺他に稼げることなんて知らないし。ああせめて成冶のようにアヤシゲナ道具作って売れていたのなら…!
「…拓登」
ぼーっと壊れた天井からぼーっと夜空を見つめる俺に、鈴はぽん、と肩をたたいた。
「きっとそのうち、皆忘れる。古い言葉で、人のうわさは75日と言うだろう」
75日、わりと致命傷だよ。
言い返す気力もなく、ただ月を眺める。半分ほどかけた月は、それでもとても綺麗だった。
現実逃避を始める俺にも、鈴は整然とした口調を崩さなかった。
「こんな目立たないところにある喫茶店、そもそも注目集めないだろう?」
優しい瞳で言い放たれる、痛すぎる事実。
本気でにじんできた涙は、恐らく穢れのないものだった。