副業を終えた日は、いつも予定より早く目が覚める。
 なんでかね、と思うまでもない。
 無意識に刀へ伸びた手に苦笑する。…ベッド脇に常備したそれは、未だしっくりと手になじんだ。
 今更戻れない。
 それは、どちらに?
 笑いながらカーテンを開ける。初夏の眩しい日差しが、目に痛い気がした。

 ―――とはいえ。そんな感傷はどうでもよいことだ。
 気にせずにカウンターに立ってしまえば、それなりに気持ちが落ち着く。落ち着いて一日の仕事をほぼ終えて、今は夕暮れだ。
 ぐるりと見渡すのは、コーヒーの匂いのしみついた、薄暗い店内。3つしかないボックス席に、店内にも関わらず帽子を外さない1人の男。むっつりと黒い液体を飲むその顔は、なにが楽しくてこんなところに来てるのか謎だ。いや、常連だけど。
 それに、彼だって、こんな微妙に寂れた場所で喫茶店してる店主に謎扱いされたかぁないだろう。…いや、こんなところで店構えたのは、父だが。
 諸々の思いに、少しだけ苦笑する。
 すると、それにかぶさるようにドアが開いた。カランコロン、とドアベルの音。
 入ってきたのは、茶色いジャケットを羽織った男。男は、柔和な印象の黒い瞳をさらに穏やかに細め、軽く手を挙げた。
 カウンター席へ腰かけた男に、俺も頬笑みを返す。
「葛木さん」
 静かに呼んだ名前は、店内に流れる音楽へまぎれる。
「珍しいですね。仕事いいんですか?」
「今日は非番…だから、久々に君のあまり美味しくないコーヒーでも飲もうかと思いまして」
 葛木さん―――葛木孝祐(かつらぎこうすけ)は、俺が警軍にいたころの知人。…彼は軍医なのだ。しかし。
「あまり美味しくないとはあんまりですね」
「そうですか? なら素直にまずいと言いなおします」
「素直にならねーでください」
「しかし、そうしないと相崎君の腕はいつまでも上がらないかと思いまして…」
「…いや、そうかもしれませんけど」
 そうかもしれないけれど、そんなしょげた顔で言わないでほしい。俺より10も上のその顔が、ひどく幼くっていうか、頼りなく見える。俺が責めているようだ。
「…まぁ、まずいって言いながら来てくれる葛木さんみたいなのは、正直ありがたいです」
「それは良い。鬱陶しく思われているかと思ってました」
「とんでもない。売り上げが伸びるなら俺はなんでもいいんで」
「…それは喜べない表現だねぇ」
 素直に言ったのに、葛木さんは嫌な顔をした。
 ふむ。…俺はわりと怪我の多い方で、彼とは顔を合わせることが多かった。そんな中、気安い仲となったが…この辺のさじ加減は難しい。気安いからこそ、かもしれないけど。
「…まぁ、その辺が相崎君の良いところだから、いいけど…」
 苦笑して言う葛木さん。
 それは馬鹿にされてるんだろうなあ、やっぱり。なんて思ううちに、帽子さんが立ち上がる。
 会計を済ませて彼を見送った後、葛城さんへ出すコーヒーを淹れる。豆をひいて、湯を注ぎ。その間にも、彼はぽつぽつと話を振ってきた。
 俺はそれに適当な相槌で答える。時に混じる馴染みの名前に反応しつつも、適当に。
 ぽつぽつと、雨のように続くその話の合間、彼はカップを傾けた。まずいという割には柔和な表情でそれを飲んで、ふぅ、と溜息をつく。
「…うん、やはりここは落ち着きますね」
「…相変わらず忙しいですか、あそこは」
「…うん、忙しいし―――気が滅入ることもあるしねぇ」
 はぁ、と溜息は深くなった。
 …なんとなく、事情を察する。…たぶんそれは、成冶と同じ理由。
 深夜、町を歩く女性のみを狙った犯行。自らの手ではなく、魔物を使った犯行。人類の敵たるそれを使役する術は、さして珍しくない。上級のものならともかく、下級のそれにあるのは自我ではなく破壊本能だけだから…なんて、かつての相棒が言っていたし、何人かそういうのを使役する知り合いも見ているが。正直ぞっとしない。てめぇの手を汚さない辺りが、どうしても、生理的に嫌悪を煽る。
「…あ、ごめん、こんな場でする話ではないね…いや、本当滅入っているようだ」
 そのことが顔に出ていたのか、彼がぱたぱたと手を振る。
 だから、俺もそれを追求しない。曖昧に笑い、やり過ごす。すると、葛城さんはなにかを考えるように目を伏せ、ぱっと笑った。
「ところで相崎君、君、これから予定ありますか?」
「や、店じまいした飯食いますけど…なんですか?」
「いや、ないならたまに食事でも、と思って」
「あぁ…」
 そうか、久々だなそういうの。思った瞬間、笑みが浮かんだ。
「そうっすね、今、臨時収入で懐ぬくいですから、ぜひ」
「そうか」
 言って、彼は静かに笑う。…彼は何時だって、静かに笑う。
 けれど、その影に疲労の色が見えたのは、きっと間違いではないだろう。

 愚痴と近状報告とを交えた食事は、残りは飲み物を残すのみとなっていた。
 膨れた腹を抑えつつ飲むコーヒーは、悲しいかな俺の淹れるものより数段うまい。
 密かに敗北感に浸る俺。葛木さんはくす、と笑い、同じようにカップを傾ける。
「…そういえば、最近、本城さんにはどうしてますか?」
 口に含んだコーヒーを吹き出しそうになった。…本城って、あいつか。あいつだよな。同じ姓を持つ共通の知り合いは他にいない。
 はぁ、と息をついて、にわかに上がった心拍を下げる。
「…どうもこうも、ないでしょう、なにしろあの本城、本城祐絵ですから。なんも変わらず忙しそうに無気力やってますよ」
 投げやりな気持ちでそう言えば、彼はくすくすと笑う。さっぱりと刈りこまれた赤い髪もやっぱり揺れる。笑いすぎ。
「忙しそうに無気力…というのは、すごく分かる表現だね。
 しかし、もうちょっとなんかないんですか。今は恋人でしょう?」
「…そうですけどねぇ」
 恋人、だけどなぁ、一応。…昨日からなんだ。この人も成冶もよったかって。
 一瞬、彼にもいたはずの恋人のことを追求して話を変えようかと思ったが、止める。返ってくるのは多分ノロケだ、この人の場合。
「…なんか変にからみますね。俺もあいつも、もう辞めた人間なんですよ?」
「だからこそ友人になれると思うんだけど…うん、でも気になるのは医者としてかもしれない。
 君達、怪我、多かったからねぇ…」
 ふふふ、と笑うその表情は、先ほどと違い、何とも言えない凄味がある。
 だから苦労させられたよねぇ、とでも言いたげな表情に、思わず姿勢をただした。
「……ま。ともかくあいつは今バイト三昧です。最後にあったのは7日…や、もう10日以上前ですねぇ」
「それは寂しいね…せっかく好きあったというのに」
 やけにしみじみとした言葉に、静かに苦笑する。
 好きあってはないんですよ、と、弱音を吐く代わりに、苦い液体を飲み干した。

 その後、互いに帰路についた。
 …物騒な世の中だが、まぁ、葛木さんは繁華街に通って寮まで行くし、送って行くのも若干間抜けだ。俺は素直に自宅兼職場を目指していた。
 ぽつぽつと街灯の姿の消えていく、暗く、さびしい道。実際、スリとかもたまにでる。けど、俺は男以前にこれでも退役軍人。…今も魔物を狩る退治屋。めったなことがあっても、切り抜けるられると思ってしまう。成冶辺りなら、そうやって油断してる人が一番危ないとか言いそうだが。
 てくてくと、道を歩く。空を仰げば、白く輝く月。…白、か。
「………」
 口の中だけで、小さく呟く。ゆえ、と。昨日からやたらと話題に上がるあいつは、白い色が似合う。白い女だ。…何物にも、染まらないまま、白い。
 空を見つめたまま、はぁ、と息をつく。その瞬間。
 びゅん、と空をかける人影と、それを追う異形を見た。
「……!?」
 ごしと目をこする。けれど、あれは幻ではない。どうみても、なにかに追われた人間と、魔物だった。
 ……どうしよう。
 軍の人間、では、なかった。真っ白なワンピースを着た隊員は、まずいない。
 迷い、足を動かそうとして。代わりに口を動かす。
 浮遊の術が発動し、ふわり、と身体が浮きあがる。いくつかの呪言を規則通りに並べてやればいい、初級中の初級の魔術。このくらいなら、魔術師ではない俺でも使える。
 あれが行った方は―――…思い、俺は身を動かした。

 そうして飛んでいる時間は、恐らく短かった。
 すぐに見つけたのは、1人の少女。夏っぽさ全開の白いワンピースの少女は…異形の魔物から身一つで逃げていた。
 やや長めの茶色の髪を振り乱し、明らかに人を傷つける目的を帯びた巨大な爪から身をかわす動作は、可愛らしいワンピースには少々不釣り合い。やけに慣れている。けれど、やはり軍属には見えないし…武器もなしに、いつまでもそれが続けられるわけがない。
 覚悟を決め、術を解く。代わりに唱えるのは、金属に強い力を纏わせる為の術。
 護身用の短刀を抜いて、二人の間へ割り込んだ。


 夜の町を1人で歩いているのは、買い物帰りに出会った友人をつい家まで送ってしまったから。いつもならそんなに気にしないけど、最近物騒だから、つい。
 そうしているうちにむしろ私が物騒な目にあってしまうのだから…世の中は理不尽だ。

 1人きりの帰り道。
 心配性な同居人は、もしかしたら心配しはじめちゃってるかもな…なんて思いつつ、路地を曲がり、そうして……悪寒を感じて、足を止めた。
 なに、と振り向くより先に、身体が動いた。
 横に飛んだ瞬間、今の今まで私がいたところを、鋭い爪が薙いだ。
 ぞくり、と。
 悪寒どころの話ではないものを感じた私は、とっさに浮遊の術を唱えていた。
 
 そうして逃げたやみくもに逃げた後、逃げ切れなくて地に降りた。けれど、護身用の警棒では、魔物相手にできることなど限られている。だって、木製だし。魔力で強化をかけたところで、私の技術では足りなかったらしい。2撃目を受けただけで、それはぼきりと折れてしまった。
 ああ、脆いっ。せめて相棒がいたならば木だろーがなんだろーが鉄に負けずに魔物の皮膚も切り裂くような強さにもできるだろうけど…私は魔術は下手だ。
 この神宮舞華、武器さえあればたかが犬一匹に後れをとることなどないというのに!
 苛立ち、焦りながらも、よけるしかできなかったその時、その人は現れた。
 背の高い金髪の男は、スキなく短刀を構え逃げろと言ってくる。私を背にかばったその人は、延々と爪を受け止めている。
 その身のこなしは、それなり以上の力量の戦士だと分かる。きちんと訓練を受けた人かもしれない。しがない退治屋の私なんて目でもないのかもしれない。…でも。
 爪と刀の触れ合う音が響く。
 落ち着いて観察した魔物は、やはり犬に似ている。けれど、犬はこんなにでかくないし、羽も生えていないし、口裂けていない。爪も地面を抉ったりしないし…血の匂いをまとうことも、ない。
 ―――そう、少し離れても分かる、真新しい、血の、匂い。
 ああ…やっぱり、逃げれない。逃げたくない。
 ぐるりと辺りを見回して、使えそうなものを探す。けど、街灯まだらな夜の道、適当なものなんて……
 あるはずがない、と。
 思った瞬間、魔物の苦痛の声が響き渡った。

 ―――やはり、なまっていたのだろうか。
 中々決定打を入れられないまま、犬もどきの爪を受け止め続ける。
 後ろの子がいつまでたっても逃げないのが気になるが、…意識の外へ出してしまおうとする。ここで俺が倒せば、問題などない。
 そうして、何度目か、刀で爪を受け止めた時。魔物の巨体が、ぐらり、と揺らいだ。耳に痛い絶叫とともに。
「な…!?」
 潰されぬように、とっさに身を引く。支えるものを失った巨体は、やはりそのまま倒れこんだ。
「…なにが」
 なんだか、と呟こうとして、気付く。倒れ伏したその背中に、大きな穴が開き、その中身を見せつけていた。
 …このような傷ができる理由を、俺は知っている。
「攻撃魔術…?」
 いつのまにか傍らに寄ってきた少女が、ぽつりとつぶやいた。
 思わず頷いて、傷口から顔を上げる。と、向こうからかけてくる影が一つ。薄青いシャツと黒いズボンの人物だった。
「鈴?」
「舞華!」
 少女の驚いたような呟きと、現れた人物の切羽詰まった呼びかけはほとんど重なった。
「お前、嫌に遅いと思ったら……なにしてるんだ。今度はなにに首つっこんだ」
 つかつかと歩き、舞華と呼んだ少女の手をとってそう言ったのも、また彼女とさして年の変わらぬであろう少女だ。 舞華とやらが茶色の髪を肩の下ほどまで伸ばしたのに対し、黒い髪を腰まで伸ばした彼女は、ぱっと見ただけでも整った顔をしていた。…ついでに、その顔が白く見えるのは、決して月明かりの所為ではないだろう。それだけ、心配していたのだと分かる。
「今度は、ってなによ。人をトラブルメーカーみたいにっ…、いえ、それより」
 不満げに言った言葉を切り、ちら、こちらを見つめる舞華嬢。
「助けてくれて、ありがとうございました。私1人じゃ、死んじゃってたかもしれません」
 す、と頭を下げる彼女に、鈴と呼ばれた少女も続く。
「事情は分からないが、本当に助かった」
 二人に頭を下げられて、思わず居ずまいを正す。
「いや、しとめたのそっちの…鈴、…さんだろ」
「確かにそうだが…別に助けがなくとも、貴方はそれをしとめていただろう」
 やけに生真面目な口調でそう言って、鈴はすっと俺を、そして、隣の魔物の死骸を見つめる。
「…警軍に連絡しなければな」
 その言葉に、反射的に呻きそうになる。
 退治屋免許を取得している俺は、帯刀していることも、魔物を倒すことも、まったく問題はない。やましいところは何もない。けれど。
「面倒だわ…」
 まさにそれだ。それが面倒なことを、俺はよく知っている。ひたすら現場で魔物狩りに勤しんでいたから、事件の調査・管理はまるで管轄が違ったが、そのくらい分かる。
「面倒で済ますな。確かに謝礼の一つも出ないのに事情聴取は嫌だ。
 けれど、こんな町中で魔物が出るのはおかしいだろう。もしかしたら…」
 静かに鈴は言う。藍色の瞳を、鋭く細めて。
「春から続いてる連続殺人の犯人かもしれないよな、そいつ」
 さらりと言った言葉に、俺は否定も肯定もしなかった。
 月が、血だまりを照らす。
 かつて散々見慣れたそれは、ひどく禍々しかった。

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