統都・西地区。さらにその片隅の、上実木(かみき)街にある、ある食堂の中で。
 ちくちくと、カウンターから店の店主の視線が突き刺さる。それは、俺の注文が「水」だったのが不満だったのかもしれないし、口論をしている所為かもしれない。
 それでも、どちらもしかたないことだ。金はないし、叫びでもしないと苛立ちは収まらない。それだけでなく、思わず手が出る。
「の、馬鹿!」
 ばん、と机をたたく音は、存外大きく響いた。けれど、すぐに喧騒にまぎれる程度。昼時の食堂は、ぼろいながらにはやっているらしい。そして、肝心の怒りの源は、涼しい顔で紅茶のカップを傾けている。
 なにを怒っているのと言わんばかりに小首を傾げた拍子に、伸びた赤い髪と派手なイヤリングが揺れる。女性的で端正な顔立ちにあるのは、冷静そのものの表情。まるで悪びれた風ではない。
 だからこそ、苛立ちは収まらない。じろりと睨んでみる。
「兄を燃やそうとする馬鹿がいるか!」
「燃やそうとしたわけじゃないよ。燃やそうとした場所に、たまたま兄貴がいただけ」
「だけ。じゃねえよ! 大体森ン中で火焔系魔術使うな! あっちゅーまにまかれて死ぬわ!」
「あー。大丈夫、あれ、炎な見た目してるだけで、実際は魔力の固まり。燃えない燃えない。あたったら死ぬけど」
「なおさら兄に向けんなそんなもんー!」
 ばん、と再び机をたたいてしまう。
 今度こそ、周囲からちらちらと目線を向けられるのが分かる。
 店の親父の目はそろそろ据わってきた。それでも。俺はやめられない。
「いいか、成冶」
 そう、名を呼んで。がしっと肩をつかむ。もろに嫌な顔をされても気にしない。
「お前もうすぐ17だろう。分別とか常識とか覚えてもいい頃だろう」
「兄貴…21にもなって、年齢で人間が成熟すると思うことが、むしろ幼稚なことだと思うんだけど、オレ」
「問題すり替えるな! いいか、ともかく―――」
 もう少し遠慮とか周囲への配慮をな、と続けようとした。
 けれど、途切れる。フォークを鼻先に突きつけられたせいだ。
「食事は静かに―――オレにそう教えたのはあんただったよね、にーさま」
「なにが、にーさまだ。っていうか鳥つっついてるだけは食事っていわねぇよ」
「うん。仕事後の軽食で夕食とか昼食じゃないし…、食わなくてもいいけどさ、入るだけ入って「水」だけはないと思うし、やっぱり、ねえ」
「…うるさい」
「こんな食堂で鳥一つ頼めないほど財政的に緊迫した兄貴に、父さんの遺した喫茶店が維持できるわけがない―――そう思って健気に副業持ってきたオレに、もう少し感謝してもいいんじゃないかなぁ」
 弟の言葉はある意味正しい。
 俺は確かに親父が亡くなって、その跡を継いだ。無理やりに。
 今まで関係ないコトしていたせいで、全然うまくいってないそれは、常にさびれていて。副業でもしないとやっていけない。
 そう、例えば、今のように。
 退治屋として、弟の(同僚の)依頼通り、森にすむ魔物捕まえてみたり。
「確かに、俺には金がない。こんなさびれた飯屋で鳥一つ頼めない…」
「兄貴、親父さん睨んでる。こんなさびれたはないだろう」
「そもそも弟に仕事恵まれてる時点で泣きそうだ…」
「いや、泣かれても困るよ。オレの方が収入安定してんの事実だし。気持ち悪いし」
「だが!」
 なにやら細かいこと言ってる成冶を無視して、俺は拳を握る。
「俺はお前の性根を叩きなおす使命がある! だってお前の器物損害は周りに周って実家の損害になるから!」
「そりゃ、学生時代は色々壊しまくって迷惑かけたな、と思ってるけど」
「けど?」
「ドンマイ」
「加害者がそれを言うなっ!」
 どん、と3度目の音が響く。
 けれど、それは俺の立てた音ではない。
 はっとして視線を動かす。
 そこに立つのは、広い額に青筋立てた店の主人。
 ―――俺と成冶がそこを追いだされたのは、言うまでもない。

「…ホント、兄貴は相変わらず…怒ると周り見ないよな」
「お前に言われたくない」
「どういう意味?」
「魔物見るとぶっとばそうとするじゃねえか、周りを見ずに」
「嫌だなあ、そんなことしないよ。オレが吹っ飛ばすのは、よけてくれそうなのとか、吹っ飛ばしても平気そうなのとか…むしろどうなってもいい奴とか」
「ちょっと待て俺どこだ」
「兄貴…そこは兄弟の阿吽の呼吸で、こう、ねぇ」
「分かるから言ってるんだ、お前どこまで兄を舐めて、ってなにてくてく歩いてるんだ! その頭についてる尻尾むしるぞ!」
「尻尾言うな。結んでる髪は取り外せないよ」
 溜息まじりにそう言って、成冶はぴたりと足を止める。
 それは、俺の言葉になにかを感じたわけではなく、そこに立つ人間に声をかけるため。
 裾や襟元に紋様を刺繍したぞろりと長いコートは、弟も所属する魔術師組合、その研究機関の代名詞。魔術をひたすら研究して、生活に役立てたり自分の自尊心を満たしたりする連中だ。…成冶は絶対自己満足の方だと思うが。それでも俺より堅実な道…っていうか優秀なのが泣けるところだ。
「依頼の品は気に召しましたか?」
 朗らか―――というほどではないが、明るめの声で成冶はコート姿に声をかける。
 そのまますたすたと歩いて、コートと値段の交渉をしている。
 そういうことは…昔から、弟の方がうまかったから、黙ってみている。
 にしても、品、か。
 魔物とはいえ、まだ生きてるもんに、ねえ。
 俺にとっては、それは生きている限り「敵」でしかなく。こいつらのように献体とは見えない。それを生かすことで利益を引き出そうなどとは毛頭思えないが。…魔術師の考えることは分からん。
「……貴」
 まぁ、魔術師以外の考えてることも、俺には分からないけど。
「兄貴」
 ―――…そういえば今日の夕飯なににするかな。米食いたいな。あと肉。でも料理面倒だな…
「兄貴!」
 ばしん、と肩を叩かれて我に返ると、呆れたように細められる紫の瞳がそこにあった。
「…成冶、なんだよ、いきなり」
「ぼーっとしてるからたたいたんだよ、もう…。値段の交渉は終わったよ」
 確かに、弟の言うとおり。
 ローブもいないし、脚を拘束されていた魔物もいない。
「兄貴…その若さで老化現象? 耳聞こえてますか、相崎拓登さん…? 魔物の1,2匹相手しただけでぼーっとするほど疲れるとか…」
「老化現象じゃねぇ。…喫茶店のマスターが、退治屋のまねごとしてんのがおかしいんだよ」
 もたれていた壁から離れて伸びをしながら空を見つめる。
 ぐき、と鳴る肩が少し悲しい。いや、老化現象違う。老化じゃない。
「喫茶店マスターねぇ」
「なんだその、薄気味わるい声」
 振り向き、弟を見る。成冶は一瞬嫌な顔をして、すぐににんまりと笑った。
「や、なんでもないよ…はい、報酬。オレやさしーから殆どあんたに譲るよ」
 言って、ぽんと袋を放られる。
 受け取ったそれの中身を伺えば、それなりの金額の紙幣がつまっていた。
 …今月はどうにかなるかね、いや、もう一回くらい副業かな。
 帳簿を思い浮かべていると、成冶がピッと指を上げる。
「じゃ、オレは帰るわ」
「と、待て。一晩くらい泊ってかねぇのか?」
 言葉通り、早々に歩きだす弟に、思わず声をかける。
 振り向いたその顔は、嫌な感じに微笑んでいた。
「あらやだ寂しいの? …とかからかってみたいとこだけど。マジな理由あるからやめとく」
「…お前、もしかして今忙しいのか?」
「組合は、兄貴が思ってるほど暇な機関じゃないよ」
「…それでも、なんか焦ってるだろ。
 イラついてる時ほどお前は大技に走りやすいんだよ」
 言ってやると、その表情が僅かに動く。不快げに。
「………ホント、あんたは、いつまでたっても兄貴面をやめないんだね」
「仕方ないだろう。兄は死ぬまで兄だ」
「……あっそう」
 苦笑交じりにそう言って、弟は長い前髪をぐしゃりとかきあげた。
「…ま。兄貴だからいいか、少し愚痴っても」
 先ほどの俺と同じように壁にもたれて、成冶は呟く。
「実は今ごたついててね。ほら、アレあるだろう? 春の始めから続いてる、人ぐちゃぐちゃに食い殺してく魔物出る事件」
「ああ…まだ犯人、見つかってないってな」
 その魔物が自然にわいて出たものではなく、魔術師の使役するものだと判明したのは、事件当初。
 それでも肝心の術師は見つからず、随分と不安がられている。
「アレ捜索、警軍からうちにも周ってきてるの。…魔術師が手掛かり探して、オレは用心棒」
「ふぅん」
 町の自衛機関である警軍と魔術師が集まり、研究に励む組合は独立した機関…だけど、そういう時合同で動くのは不思議でもない。軍の魔術師部門は、町でそういう捜索をすることに向いていない。…向いていないというより、暇がないとでも言うべき、か。
 けれど、組合に所属する魔術師の扱う事件にしては物騒なのも確か。
 魔術師はみんながみんな魔物に対抗できるわけじゃない。対抗しうる呪文を持っていても、体術からっきし、でもおかしくない。研究機関に所属しているのなら、むしろ自分で検体とってくるようなこいつの方が少数派だ。
 なんて思いながら相槌打っていると、弟が微笑む。少し、嫌な感じに。
「気になる? あんたが元いたところだろう。警軍」
 一瞬、息が詰まる。
 その理由は、よくわからない。
「…昔の話だろ」
「1年が、昔?」
「今更あのハードワークにゃついてけないからな」
「…ま、あんたがそういうならそれでよいさ」
 成冶は笑い、もたれていた壁から身を離す。
「…それより、兄貴も気をつけるよう言ったら? アレ、被害者全部うら若く美しい女なんだし」
「誰に…って客か? 客にそんなこといちいち警告する喫茶店があるか。そんな血なまぐさい話題だせねーっつーの。辛気臭さに拍車がかかる」
「…いや、じゃなくてさ。いるだろ、兄貴。心配してあげなきゃいけないようなうら若く美しい恋人」
 恋人、の一言に動きが止まる。
 ああ、そういえばいたな、恋人。一応恋人。そう思ってるのは俺だけだろうけど、一応。年齢はうら若いし見た目は問題なく美しい恋人。
「……馬鹿言うな。アレなら顔色一つ変えずに返り討ちにするぞ」
「けど、万が一ってこともあるんじゃないのぉー」
「…そりゃ、あるだろうけどなあ」
 その万が一が浮かばねぇよ、あいつには。
 などと言えずに、黙りこむ。
 その沈黙をどう受け取ったか、成冶は本当に楽しげに笑った。
「じゃ、そういうことで忙しいから帰るね。面倒だけど、お仕事だしぃ」
「…おう」
 ひらひらと手を振る弟を見送って、俺も歩く。弟とは、逆の方向。街灯も少ないさびしい方面だ。
 そのことに、感慨はない。弟と決定的に道が離れたことも、そう。けれど。
 歩くこの道にも、その魔物はいつか現れるかもしれない。
 無意識に伸びた手は、腰に下げた刀を握った。

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