一度勢いを失った太陽の光は、冬へと向かい、どんどんと冷え切っていく。
 早くなっていく夕暮れを背中に、テオフィルは寮の廊下を歩いていた。
 そして、思う。
 ―――あの化け物は、いったいいつから食べていないのだろう。
 そろそろ、消えるのかもしれない、と。
 自室のドアノブを握る少年は、そんな心地と共にドアを開ける。

 ―――彼の予想に反し、夢魔は今日もそこにいた。
 ベッドの上に腰かけて、ふらふらと足をばたつかせる。
 何度見ても子供じみた姿に、彼は今日も何も言わない。
「おかえりなさい。…今日もまた、たくさん本を抱えているのね。そんなに本が好きぃ?」
 けれど、少女はぱっと笑い、ついで首を傾げる。
 淡い赤色の唇がめぐるましく動いて、高い声で様々なことを話す。
 ―――そのことに、最初は苛立った。
 しばらくすると慣れて、もうどうでもよくなった。
 どうせ、放っておけばいつかは消える程度の害だと気付いた。だからどうでもよくなっていたが……
 最近は、また。苛立つ、と。
 胸のうちだけでそう言って、彼は黙って椅子を引く。
 机のわきには、大きな本棚。その横の椅子は、彼の指定席。
 そして、それに腰かける少年の肩は、このところすっかり夢魔の腕の指定席となっている。
「あなた、なにをお勉強してるの?」
 肩にもたれて問いかける少女。テオフィルはすぐさま意地悪い表情を作りあげた。
「お前みたいなのを消す手段だよ」
「……嫌な言い方ねぇ」
 心の底から嫌そうにそう言った少女は、しかし、彼から離れない。
 肩に触れる体は柔らかい。彼の頬へと擦り付けられる頬も同じ。
 とろけるように、人を惑わせるために柔らかい。人の形をとった、人とまるで違う生き物。最初の頃、彼女は透けていたのでは余計にモンスターらしいだろうとうそぶいていたが。こうして触れた方が、より一層違う生き物だ。そう、それは、まるで―――
 ―――極上の絹でも触っているようだ。
 決してこのモンスターにいえない言葉を思い浮かべて、テオフィルは書きかけの論文を見つめる。
 少し前から書き始めた、進級のための論文。
 その内容は、彼にしなだれかかるモンスターのような人外を殺める方――――ではない。
 それも入っているが、もっと、この一年の講義の内容全般に触れている。
 広く、浅く。美しく。
 彼の論文は、そんなものだった。

『君はとても優秀な生徒だ。これから、魔法使いとしてやっていくにあたり、どんな道でも望めるよ』
 テオフィルは経過を見守る教師の言葉を思い出す。
『ただ、そうだね。来年はひとつの道に決めた方がいいよ。その方が、少しは深みに至れるはずだ』
 少しは深みに、と。
 笑顔で告げられた言葉に、年若い少年の胸は抉られる。
 今は深くない。今はさして価値がないからこその言葉。
 そのことを、彼はよく自覚している。彼が何よりわかっている。
『ホントつまんねぇよな、こいつ』
 周囲に囁かれる言葉も、また。
 彼は、彼自身でよくわかっていた。
 紙を握る手に力がこもる。薄い紙はぐしゃりと歪んで、すぐさま破けそうになる。―――だが。
「ま、でも。あなたは人だもの。それは正しい行いね」
 だが耳元で響く声に、テオフィルの意識は引き上げられる。
 深く暗いところへと沈んで意識が現実感を取り戻し、肩に顔を預ける夢魔をちらりと見る。
「人はモンスターを殺したい。とってもまっとうな欲求だわ。
 あなたはこんな可愛いわたしがこれだけくっついてもピクリともたたない変態なんだから、そういうまっとうなところは大事にしなきゃね」
「…モンスターに色仕掛けされて喜ぶ方が異常だろうがよ」
「ふん。そこをどうにかするのが夢魔なんですぅ。ひっかからないテオは枯れ切ってますぅ。…だからわたしがいつかこう、元気にしてあげるからね!」
 うふふと嬉し気に笑い、ぎゅっと首を抱きしめられる。
 彼が強く腕をたたいても、少女は文句を言うだけで、離そうとはしない。
 離れようとしないが――――それでも、その腕はただの少女の力。
 こうして急所を抱きしめられても、へし折ってくるような気配はなく。ただじゃれつくような、長閑な仕草だ。
「…確かに僕は人だ」
「うん? そうね。うん。そうだけど、どうかしたの?」
「お前はモンスターだ。夢魔。サッキュバスだ」
「…何を今さら。本当にどうしたの? テオ」
「お前には…、人を殺したい本能とか、ないのか」
 嘲りを含まない、ひどく真面目な眼差し。
 自分を見る眼差しとしては実に珍しいそれに、夢魔はぱちぱちと瞬きを繰り返す。
 大きな瞳がすい、と細くなり、物思いへと沈む。
「んー。そっか。モンスターにはそういう気持ちがあるって思ってるのね、人間は」
 うん、と頷いた彼女は、それでもふるりと首をふる。
「確かに残酷な気持ちになることはあるわね。こいつ殺してやる、って感じ? でもそんなに頻繁じゃないわ」
「そんなことは…人同士だってあるだろう」
「うーん。そうかもしれないわね。
 でも、わたしはもしかしたら…他のモンスターより、人が好きなタチなんだと思うわ。美味しいものね。
 本当は精気ならなんでもいいから、人以外でもどうにかなるの。やらなくても新鮮な植物とかかじってると生きてくことくらいはできるのよね。今のわたしみたいに」
 でも、人が一番おいしいわ、と。
 輝く笑顔でそう締めくくるモンスターに、優秀な魔法使いの卵はひどく顔をしかめる。
「…お前はそればかりだ」
「ま、そうかもね。
 けど、そんなことより! ばかり、で思い出したわ。あなたこそ、ばかり、よ」
「僕にわかる言葉で喋れ」
 冷たい言葉で言う彼は、けれどもう彼女の腕をたたかない。
 じゃれつかれるまま、ぼんやりと壁を見つめている。
 どこか力ない様の獲物に、夢魔は怪訝な顔をした。
 その理由を問わんとし―――言葉が浮かばなかった彼女は、言いかけた文句を再開する。
「お前お前って味気ないわ。なんかないの、なんか」
「なにかって……お前、名前なんてあるのか」
 テオフィルが驚きの声を上げる。
 名前? と彼女も驚いた顔で繰り返し、すぐに笑った。
「そんなのないわよ。わたし、モンスターよ」
 無邪気に笑う彼女は続ける。手と手を組んで、うっとりと。
「ただぁ、ハニィとかぁ♡ スイートとかぁ♡ 呼べるでしょ?」
「馬鹿で十分だ。お前なんて」
 いつも通りの言葉に、夢魔は笑う。
 楽し気に笑い、論文の執筆へと戻った彼が眠るまで、きゃらきゃらと笑っていた。


 ―――そうして、ランプの灯が燃えつきる頃。
 疲れた顔の少年は、ぐったりとしたままベッドにもぐりこむ。
 少し曲がった背中に、からかうような――――誘惑のための言葉をいくつか吐いて、それでもつれなく無視された夢魔は、黙って彼の寝顔を見ている。
 元々白い顔はこのところ蒼白く、元々深かった眉間の皺が痛ましいほどに深い。
『…眠ってる時もこうなんだから。ホント、おバカさん』
 もっと明るく楽しく寝て、最初はちょっとした楽しい夢から自分に付き合ってくれたらいいのに。
 素直な欲求を口にせぬまま、彼女はそっと彼の額を撫でる。
 深く皺のよったそこを撫ぜて、ぼんやりと寝顔を見つめる。
 ―――本来なら。
 別に彼の合意などなくとも、精をすすることはできた。
 確かに実体化をしてしまうと、彼に力ではかなわないが―――それでも。
『わたしはつよーい夢魔なんだから…そのくらいできるのよ…?』
 彼女はそのくらいできるモンスターで、そのくらいできるからこそモンスター。
 それをしないのもまた、彼女のプライドだった。
 力づくで言うことを聞かせるなどつまらない。じっくりと、本当に落としてしまいたい。
 落として―――この刺々しく冷たい少年に、とろけるような熱を教えたい。
『…テオ』
 湧き上がる思いに、自然と彼の名前を呼んだ。
 意地の悪い、熱のない言葉しか紡がない唇を、そっと指でなぞる。
 この口に、情熱的なことを吐かせたい。自分を好かせてやりたい。認めさせたい。そのために―――そのために。
『知りたいわ…』
 あなたは、なにを考えてるの、と。
 寝顔までどこか苦悩しているような少年の眉間に、触れるだけの口づけを落とす。
 軽く淡い感覚に、彼が起きることはない。
 夢魔はそのことに安堵して―――…体のどこかが凍える気もした。
『……あなた、どんな夢見てるのかしら』
 小さく呟いた彼女は、ふと思いつく。
 最近の彼は疲れ果てている。だからきっと、寝ている間のあれこれに気づきにくいに違いない。
 うきうきとした思いつきに、彼女はそっとベッドにもぐりこむ。
 よっぽど覆いかぶさり、抱き付いてやろうかとも思ったが、やめた。
『今は許してあげるわ』
 楽し気に囁いて、するりと彼の隣に横たわる。そうして間近で横顔を眺めて、そっと目を閉じる。
 目を閉じても、彼女に睡魔は訪れない。
 けれど朝までそうしているつもりで―――そういていると、かりそめの身体にほんの少しの変化があった。
 彼女が気づく余地はないが、気まぐれな真似事により遠くなる意識は、人が眠る感覚によく似ている。
 休息を必要としない体でも、確かに。意識がどこかへと沈んでいく。
 少しずつ暗くなる視界、遠くなる意識。―――動かなくなっていく、身体。
『……っ?』
 ―――なんだか、とこかで。似たようなこと、あった気がする。
 少しずつ意識を失う彼女は、そんなことを思った。





 雨が降る。
 雨が降っている。
 冷たい雨。空の涙。濁った滴。
 雨が、降り続く。
 雨が、降り注ぐ。
 ―――力なく横たわる少女を、容赦なく冷やす。

 ハニーブロンドが泥にまみれて、健やかに日に焼けた足がひしゃげて。
 青い目が、灰色の空を見ている。

 否―――少女はもう、なにも見ていない。
 なにも見えては、いない。

 ただ、甘い印象に整った唇が僅かに動く。
 最後の力を振り絞ったように、かすかに。儚く。
「…………………に」
 小さなその呟きは、降り続ける雨の中で潰れる。

 雨にとろけたその呟きを知るのは、少女本人だけ。

 雨が降る。
 雨が降っている。
 すべてを洗い流すかのように。
 少女の残りわずかな命をさらっていくように。
 雨は、容赦なく降り続けていた。

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2015/10/04