夢魔がテオフィルの部屋に居付いてから、数十日が過ぎ―――
まぶしかった太陽は、ずいぶんと褪せた。凍える季節となった。
寮の隙間から吹き込む冷たい風にローブの前をしっかりと抑えつつ、テオフィルは自室へと歩く。
4
「おかえりなさい。
ほら見なさい今日はドレスよ! 正統派の『美しい格好』よ! 惚れ直しなさい!」
「作りが甘い。色が下品。惚れ直すも何も、惚れてない」
「この野郎」
ドアを開けると、時にワンピース姿で、時におかしな姿で、おかしなモンスターが出迎える。
そんな日々にもすっかりと慣れてしまった、と。
苦い心地でドアをしめるテオフィルは、はあ、とため息をついた。
ふわふわと広がり、足首まで覆い隠すスカート。逆に乳房が半分ほど露わな胸元。きらきらと赤い衣装は、確かにその夢魔によく似合う。
似合うことを認めつつ、少年は思う。
―――似合ったからなんだ。これはモンスターだというのに。
「あなた本当落ちないわね。こんなに難航したのは初めてよ」
「…さっさとやれるやつにいけばいいだろ。何度も言わせるな」
「あなたこそ何度も言わせないでよ。わたし、あなたがいいの。これはいわば愛よ」
「食物として?」
「食物としてよ!」
テオフィルのベッドに腰掛けて、足をぶらぶらと動かす少女は、こくん、と首を傾げ、にこりと笑う。
何の裏もなさそうな、朗らかで健やかな表情。
相変わらず、人を殺め夜を支配するといわれるモンスターには、とても見えない表情。
己の知識が間違っているのだろうかという苦悩に、彼は何度もため息をついた。
「おかえりなさい。テオフィル。
ご飯にする? わたしにする? お風呂にする? わたしにする? そしてわたしにする?」
清楚なエプロン姿で出迎えられたテオフィルは、扉をしめつつこめかみを抑える。
白いそこがズキズキと痛む。目の前の少女といると、いつものことだ。
「うるさい寝かせろ」
「一緒に寝ましょうよ」
「黙れ色魔」
するりとしなだれかかる腕を払って、テオフィルはつぶやく。精いっぱいの毒をこめて。
「ちょっと! わたしは夢魔だって言ってるでしょう!?」
「同じだろう」
「違うわよ! プライドの問題なの! あなたもっとわたしのプライドを大事にしなさいよ!」
「知るか。そんなもの」
「〜〜〜〜! ほんと可愛くないわねあなたって人は!」
「なら出てけ」
お決まりの文句を口にする少年に、少女は膨れる。
膨れて、再び彼へとしなだれかかった。
「おかえりなさい。テオ。今日はちょっと遅かったわね」
「…お前。なんだテオって」
問いかけに、夢魔は笑う。
よく笑う彼女が、ことさら嬉し気に。
「あなたの愛称。ニックネーム。愛してるからの愛称よ」
「なにを得意げに。馬鹿が。なれなれしい」
「やぁね。照れちゃって」
「誰が照れるか。馬鹿」
嬉し気にかけより、抱き付いてくる少女を避けて、彼は本棚へと急ぐ。
避けられてもなお嬉し気にかけよる少女は、照れちゃって、と囁いた。
「おかえりなさい……ちょっとテオあなた……なんなのこれ……」
「…なんなのってなんだ。何を見ているお前は」
帰るなり床にうなだれる夢魔に、彼は眉をしかめる。
彼女はがばりと顔を上げ、怒りのこもった声と共にある本をばしりとたたく。
「わたしというものがありながら! 他の女の裸が描いてあるものを! こんなに!」
「裸? ……よく見たらお前それ医学書じゃないか。たたくな。高価なモノを」
「医学書? そんなの関係ないわ! 裸よ裸! なによもう! 興味あったんじゃない!
これなんて! これなんてこんな、内臓まで出して!」
「…お前、腹開かれて腸出てる絵にいやらしさを感じるのか。幅広いな、性の嗜好」
「こんな…! こんなありのままの姿を…!
そうかあなたこれが好みなのね! さあ開きなさい! そのくらいでわたし死なないから!」
「嫌に決まってるだろ。馬鹿」
「なによバカ! テオの馬鹿! 開けばいいじゃない! それで欲情するなら三枚におろせばいいじゃない!」
本をたたくことをやめた夢魔は、どんどんと地団太を踏む。
響くのは、少女が暴れているにしては軽い音。けれど不審な音であることには変わらない。彼はきついことさら口調で言う。
「やめろ。女つれこんでるのがバレた懲罰だ。…本当に、お前のその熱意は…なんなんだ」
「だからいつもいってるでしょ! わたしは! あなたを落とさないとプライドがボロボロよ!」
「…ご苦労なことだ」
「同情するなら愛をちょうだい!」
「やらん」
言われるままに地団太を止め、彼にしか聞こえぬ声を張り上げる彼女に。彼はどこまでも冷たく返す。
冷たいまなざしに、感情豊かなモンスターは今日も大きく膨れた。
「おかえりなさいテオー。ねえわたし今日思ったんだけど。
このラデッシュってね。エロくない?」
「今日は料理本か。なんたってまたそんなものを見ているんだ」
テオフィルの定位置である本棚脇の椅子を乗っ取って、得意げに夢魔は言う。
大きく胸を張る表紙に、大きく開いた襟元から乳房が見える。
目の毒かつ見慣れた光景に、彼は何も言わない。
「あなたがわたしのひもじいのわかってくれないのは、お腹が減っているのかしら。って思って。作ろうと思ったの。
でも考えてみたらわたし、料理なんてできないわ」
「できても食わないよ」
「あなたも絶対できないでしょうに、なんでこんなの持ってるの」
「それと2冊セットになっているものが欲しかったからだ」
答えたテオフィルはベッドに腰を降ろす。
スプリングがギシリときしむ音より大きく、楽し気な笑い声が響いた。
「あら案外貧乏ちいことするのね。あなた、お貴族様でしょ」
「…ほうっておけ」
「じゃあ放って、話戻すけど。エロイわよねラデッシュ。ほらこの白い方。特に」
「知らん」
挿絵を指さしつつの言葉に、疲れた顔の少年は一言だけ返す。
彼の笑顔や楽し気な顔など見たことがない夢魔は、気にせずに続ける。
「こう、この艶めかしいライン…いいわね……女の子のおしりから脚にかけてのラインみたいで」
「…お前、女もいけるのか」
「うん。男が好きだけど。女の子って甘いじゃない。おやつみたいな感じだわ」
「…甘いのか?」
「あら興味出た? 珍しいわね? でも、その気持ちは大事なものよ。試す? ここで試すぅ?」
「お前は女の子なんて綺麗なもんじゃないだろう。化けモノが」
「失礼ね。こんな極上の美女を袖にするなんて。おバカさん」
彼女と入れ違いに本棚の前に陣取るテオフィルの背中を眺めながら、夢魔は得意げに笑った。
「おかえりなさい。…あら今夜は随分と顔色が悪いこと」
「…うるさい」
言葉だけはいつも通りだが、テオフィルの顔色はいつもより蒼い。
驚いた顔の彼女に返る声も、ずいぶんと力ない。
気のせいか髪もしおれて、ぐったりとしている。
だが彼は迷わず歩を進めて、本棚脇の机にどさりと本を落とす。その本の山の一部を崩して、数ページめくったかと思うと、筆を取り出し、インクに浸す。
「書きものをするの?」
「……僕の評価に関わるものだ。黙ってみてろ」
がさついた神に何事か書きつける彼に、夢魔はそう、と呟いた。
しばし響くのは、ペンのこすれる音と、紙がめくられる音。
そして、鬼気迫った顔をしたテオフィルの唇から漏れる舌打ちだけ。
「…大変ねぇ。癒しが欲しくない?」
何度目かの舌打ちを受けて、彼女はにこりと笑う。
甘く、とろけるような笑顔を横目に、彼はハッと鼻を鳴らす。
「にやにやと気持ち悪い。失せろ」
つれないというより冷たい言葉はいつも通り。
面倒そうな表情も、見慣れたもの。
けれどもなにやら衰弱した様子すら見せる獲物に、夢魔はそれ以上の言葉をかけない。
そっと立ち上がって背を向けて、それでも声だけをおくる。
「…黙ってあげるけど。失せないわ。
わたしはずっと失せないわよ。あなたを食べるまで」
「……勝手にしろ」
疲れ果てた声は、いつもよりほんの少し枯れている。
その声に、夢魔は少しだけ眉を下げた。
「おかえりなさい。
ねぇ、テオ。見て。今日は星が明るいわ」
「…お前、そんなことがうれしいのか?」
今日も進級のための論文の資料を抱え込んだテオフィルは眉を顰める。
小さな窓から星を眺めたまま、夢魔はわかってないわね、と唇を尖らせた。
「夢魔の女の子なのよ。わたしは。美しいものは大好きだわ」
「くだらん。星はただ星だろう」
机の上のランプに灯をともせば、部屋の中はほのかに明るい。
その光をちらと一瞥して、少女はつぶやく。
「きらきらしてて綺麗だわ。宝石みたい」
幸せそうな呟きに、彼は何も言わない。
黙って紙の束を取り出し、己の理論を確かめる。より説得力のある文言を、出来のいい頭で考え続ける。
「ここはしみったれた学園で、おいしいのがいっぱいいることくらいしか良いことのない学園だけど……空も綺麗ね」
「…そういうものか」
けれど、響く長閑な声。
もはやモンスターであることが信じがたいように柔らかな声に、彼は思わず顔を上げた。
そうすると、彼を見つめていた彼女と視線が出会う。
薄い青と、濃い青。少しずつ色味の違う青は、何を言うでもなく、自然と同じ星を見つめる。
「寒いと空気が澄んで、余計に綺麗なのね。テオもこうして、ゆっくり見たらいいわ」
「……そんなものを見ても腹は膨れない」
「やだ。わたしをいつもいやしいっていうくせに、あなたも食いしん坊なんじゃない」
少年が眺める星は、ただ明るい。
ただ美しいだけの夢魔を、鮮やかに彩る。
作り物のまがいもの。人を惑わし、食らうためだけの姿かたち。
―――そんなものにも自然の光は平等に降り注ぐのか。
なぜか奇妙に凪いだ心地で、彼は少し笑った。
2015/10/04