色とりどりの服と髪との人と人との合間を縫いながら、二人は並んで歩く。
 紅也の少し先を歩く女は、つい先日まで麻貴菜と名乗っていた女。少し濃すぎるほどの化粧を落とした今、あどけない印象すらある少女だ。明乃―――深丞明乃はぐいと背筋を伸ばして、長く息をついた。
「終わった終わった。清々する」
「…ホント、君のその清々しげな顔、久々に見た」
「ああ、たまに会っても疲れてたでしょー。だって鬱陶しいったらねぇよ、いちいち触ってくるし男のコロンとか気色悪い、とは限らないんだけどあれはつけすぎ。上司が逃げ出さない環境っていうのは、最高だったんだけどね……」
 けらけらと笑うその姿は、『木城麻貴菜』を名乗っていた時は間違っても見せなかった。歩き方一つ、視線のやり方一つ。程よくスキを出しながら、けれどたやすく手に入るようではなく。まったく面倒な仕事だったと、彼女は思う。
「しっかし、手ごたえないことで。もう少し付き合ってあげるつもりだったのに」
 手ごたえがない―――とは。無論、大能登貴夫のこと。
 彼女の依頼の標的だった、若き営業マン。その未来は、今頃きっちり閉ざされているだろう。それに至る全てのしかけを確認したからこそ、明乃は家路についている。
 社員を偽造して、近づいて、一服盛って眠らせて、破滅を呼ぶだけの証拠をそろえて。適当に用意した戸籍は鬼籍に入れた。警察にも裏から手をまわして―――なにより、そもそも戸籍は偽造だが、死体は『街』で調達したホンモノだ。戸籍の上では存在しなかった子供の焼死体が、木城麻貴菜を名乗っている。つまり、彼が女に手を出し、ついでに酷い扱いをし、死に追いやったと言う評価は、揺らぐものではない。さぞやこれから苦労することだろう。
 そうでないと、困るのだ。そうでなければ、より致命的な止めを用意するだけだ。
 それが明乃の、何でも屋『Averuncus』の目的だったのだから。
 冷笑を浮かべ歩いていく明乃。その背中を見、紅也は密かに眉を寄せた。涼しげな美貌を苦しげに歪めて、すぐに苦笑で覆う。いつものように。
「さっさと終わって、僕は心穏やかだけど」
「ああ、紅也、大嫌いだしね、あの手の人の好意を食い物にする下種」
「…まぁね」
 ―――それだけではないんだけど。
 心の中だけでそっと付け足して、紅也は溜息をついた。
「…明乃は好きだよねえ。あの手の下種を社会的に抹殺すること」
「…ちょっと、その言い方だとあたしすっごく性格悪いみたいじゃない。たまにしかしないし。死ぬよりマシでしょ」
「いや、あんなのが死のうが生きようがどうでもいいんだけど。あんなハニートラップまがいなことしなくてもいいでしょう。君が」
 まがいもなにも、そのものだと思う。最後までやっていないだけで。
 こっそり浮かんだ言葉を飲みこんで、明乃は苦笑する。彼の言わんとすることに苦く笑う。
「……ホント潔癖な男ね、あんたは」
「妹にんなことさせてけろっとしてる親友と何とも思わない友人を持った影響。僕が言わなきゃ誰も言わない」
「…そりゃそうね。でもあたしのやったことがハニートラップならあなたは名男優よね。ロクデナシのヒモの」
 どこか楽しげに言われて、紅也は露骨に眉を潜める。
「いや、まったくたいしたちんぴらぷっりだった、惚れ惚れする。あっちが本性よ、むしろ」
「あんまりな言いようだ…」
 確かにあの日、2人を襲った暴漢役は彼だ。
 彼だが――――似合うと言われると、実に複雑だ。
「笑いこらえるの大変だった、似合いすぎて」
「あ、やっぱりそれで震えていたわけか、君は…」
 不機嫌を隠さぬまま、歩を速めた紅也はちらりと横を向く。一瞥するのは、化粧などはたかずとも滑らかな頬。滑らかで、打撲の名残の消えた肌。
「…もう腫れてないね」
 心底安堵した口調の紅也に、明乃はぱちぱちと瞬く。そうして、罰が悪そうに顔をそらした。
「あたしが言いだしたことなんだから、何度も言わなくていい。気にすることない。…まったく…律儀な奴」
「何度でも言うね。仲間に手をあげるなんて、最低だ」
 さも当然と言うように返った言葉に、神妙な表情だった明乃は一変、大いに眉を寄せる。そして、呆れたように、
「…兄貴とかは? あんたばかすか叩いてるわよね?」
「あれは例外。りおのこととかはたいしてたたいてないでしょう」
「…それでもたいして、だし」
 自覚がないのねこのボンボンが。
 基本ポーカーフェイスの少女は、眼差しでそう語る。しんなりと冷めた目線を向けられ、紅也はまなじりを吊り上げる。
「なんですかその眼! 僕は君が諦めないから仕方なくやったんですよ! 大体…っ、大体、明乃は身勝手だ! どれだけ心配したと思ってるんだ!」
「はいはい道の真ん中で叫ばない」
 ぺちと軽く背中をはたかれ、声を荒くしていた男は唇を曲げる。
 彼女は基本的にポーカーフェイスで、彼もまた涼しげな笑顔の標準装備を心がけている。
 ―――けれど、そんなものはたやすくはげてしまう。
 この手にかかれば、たやすく。と。喉に詰まる言葉は、彼の唇をますます曲げた。
「あんたがそういうの嫌いのは知ってる。つき合わせたことは、本気で悪かった。…でもね、心配って何。これが連続婦女殺害犯、とかだったら。まるごしで密室に二人きりなんてマネしないわよ。
 でも相手はどっからどーみてもただの女にろくでないヒモ。 身辺調査をしても法に触れるような後ろ暗いネタなくて他に脅すネタもない、根っからの女好きのヒモ。なら女で身を崩すのがお似合い…むしろ本望じゃない?
 今回の評価は、正当なもの。あの男が一年前、受けるべきだった責め」
『私達の娘はあの男に殺された』
 二人の依頼人は、彼らと自分達とを繋いだ仲介人に涙ながらにそう訴えたと言う。
『娘は自殺でした。あの男に遊ばれて、貢がされて―――捨てられて…!』
 それなのにあの男はのうのうとしている。証拠がないだけで。証拠がないだけで、健気な女は顧みられることもない。
 だからあの男を殺してください、このままでは娘が不憫でならない――――そう告げられた彼女がとったのは、あの男の真実を表ざたにすること。
 人を殺めることに抵抗があったから―――とは少し違う。
 人を殺めたところで、あの両親の嘆きは晴れない。死んでしまった女が喜ぶわけでもない。ならば、わざわざ堅気に『人殺しの重荷』など背負わせなくてもいいのだ。少なくとも、明乃はそう考えている。
「ヒモだろうが弱そうだろうが女はべらかすことだけが能だろうが、関係ないよ」
 傍らを歩く紅也は、違う。実際に手を汚さなかろうが、実現しなかろうが。殺したい人間のいる人生が、真っ当な道であるものか。こんな回りくどいことをした理由は、他にある。
『まっとうに生きてる人間があたしらみたいなのに依頼しなきゃいけないのがまず不幸なのに、わざわざんな無意味な辛させおうことはない。ねえそう思わない紅也』
 そう言って彼女が協力を仰ぐから、彼は彼女に従った。依頼人の意向も、親友件上司の指令も、知ったことではない。
 彼女にそんなことをさせるくらいならば、あの男の細頸をはねてくる方がよほど抵抗がなかったけれど―――全ては。
「…そんな男の元、君が潜入捜査なんざやって」
 全ては、傍らを歩く女が望んだことだから。
 一度決めたことは簡単に覆さない女だ、泥をかぶっても背を曲げない女だ。
 だから、紅也は協力を請う彼女に頷いた。どれだけ苦くても。苦しくても。―――ロクデナシの男に身を寄せる姿に、焼けつく嫉妬を覚えても。苦痛の全てを飼いならして。
「そうして君になにかあったら僕は死ぬほど後悔する」
 全ては、惚れぬいた女が、少しでも満足げに笑えるように。
 ただそれだけで想い人の要求に従った紅也は、じっと目を伏せる。
「わかってるって。ホント…大袈裟な…」
 軽い口調で言いながらも、彼女は少しだけ眉を寄せる。あまりに彼が苦しそうで、そうした。
 互いが神妙な顔で黙ったのは、一瞬。
 すぐに紅也は穏やかな笑みを浮かべ、からかうように付け足す。
「…武行とかりおも、ものすごく後悔する。特に君の兄、親ばかだしねあれで」
「はいはい。ならあんたも常日頃無茶は止めな。話はそれから」
 同じような口調で返されて、彼は僅かに肩をすくめる。
「…そういうものですか?」
「そーゆーもんよ」
「話逸らしてるだけだと思うけど」
「さあ。どうでしょうね」
 明乃は再び歩を速め、一歩先を歩く。そのまま、あははと明るく声を上げ、くるりと振り向いて、憮然とした顔の友人ににっと笑いかける。
「なにはともあれ、帰りましょう。晩御飯くらい、久々に家で食べたい」
「…そうだね」
 帰ろう、と紅也も言って、歩みを進める。

 碧い海の向こうの、歪んだ故郷。
 それでも愛しいものの生きる地を想い、目の前をゆく背中を見―――紅也は、笑った。