二人の密会は、一度だけでは終わらなかった。
二度、三度。
「木城さん、もう少し色落とした方が似合いそうだね」
「そう、ですか?」
頬に触れられながらの言葉に、麻貴菜は首をかしげる。かわいらしく、どこか確信的な笑顔を添えて。
「うん、色もすごく白いし。下手な化粧なんていらないんじゃないかな。プライベートでは」
「…ふふ、あなたがそういうなら、少し薄くしますね。プライベートでは」
笑う声は、互いに甘さを帯びて響く。
徐々に親密さを増しながら、それが起こったのは4度めのこと。
―――少し、深入りがすぎるかもしれない。
内心で冷や汗をかきながらも、登喜夫は愉快だった。
一度目の密会から、今日で10日。女も、少しばかり色めいたまなざしを見せることも増えた。
3ヵ月後は正式に結納という時期に、よろしくない。
それでも余裕があるのは、いざとなればきれいに切り捨てられる自信があるから。今までそうしてきたように、片付けられると信じているから。
「大能さん? どうかしました?」
傍らを歩く麻貴菜は、笑みを浮かべて黙りこむ登喜夫をそっと見上げる。どこか楽しげな、あでやかな顔で。彼の切り返しを期待するような顔で。
手を触れることも体を寄せることもせず、ただ眼差しだけで何かを語るそのさまが、奇妙に気に入ってしまったのだ。彼女が会社からいなくなるまでの期間、そばにおいておきたい程度には。
「木城さんは、会うたびに飲む量が増えているな、って考えてた」
「だって、楽しいんですもの。楽しいお酒は、ついつい増える…おかしいかしら」
弾むように歩く女は、赤い頬を笑みにとろけさせる。少しだけ薄くなった化粧の下、その赤は余計に鮮やかに映える。
「いや、光栄だね、楽しんでもらえて」
「やだ、私はお酒が飲めれば、どこでも楽し」
明るく続けていた女の声が、凍る。
大きな瞳をこぼれるほど開いて、目の前をじっと見つめる。
尋常ならざるその目線の先を、登喜夫もたどる。そうして二人の目線を受け止めたのは、背の高い男。背が高く、瞳の色も伺えないサングラスをかけたその男は、ぞろりと長いコートを着ている。全身黒尽くめの姿は、いうなれば―――ひどく物騒で、堅気に見えない。
「…マキナ、だな」
男は低い声でつぶやく。存外若い声―――だが、それだけで。女の細い肩が、びくりと震えた。
「突然消えたと思ったら、ずいぶんといいところにもぐりこんで…」
一歩。男が踏み出す度、麻貴菜は後ずさる。彼女にぎゅっと腕を掴まれた登貴夫も、それを振り払うわけにもいかずに同じように動く。
じりじりと離れようとする二人に、黒衣の男は鼻を鳴らし、最初よりより低い声で笑った。
「逃げられると思ってたのか」
嘲笑と共に、男はさらに踏み出す。俯いた女を視線だけでそこに縛る。
「てめぇの立場、分かってねぇなぁ…
散々色々してやった恩も忘れて、違う男に乗り換えるたぁ…は、相変わらず要領のいいことで」
違う男。
その響きに、麻貴菜はハッとしたように顔を上げる。けれど、それより早く、男の目線が変わる。緊張で立ちすくむ、登貴夫の方に。
「…オイ優男。てめぇどんな女か、知ってんのか」
言葉と共に、男は拳を振り上げる。それが見えていながら、登貴夫は生唾を飲み込むだけ。知らず、ぐっと目をつぶる。
そして。
「―――危なっ」
悲鳴じみた女の声に続いて、薄い肉と固く握った拳とがぶつかる、鈍い音。痛みを呼ぶこと必須な音。
しかし、鈍く重い音の元が自分ではないと悟った登貴夫は、はっと目を見開く。
「木城さ…」
殴られ、頬を押さえているのは。うつむいて黒髪で顔を隠した女。彼をかばうように立った、麻貴菜。
ふるふると肩を震わせながらも決してどかない構えを崩さない彼女に、黒衣の男は露骨に舌打ちして、登貴夫を睨む。
「…女にかばわれんじゃねぇよ」
低く、地をはうような声。
サングラス越しでも痛いほど感じる、きつい目線。
あるいは登貴夫にそれを向けられた経験があれば、こう評していただろう。
身を射るような、鋭い殺気。
「…止めて、ください」
声を失う男の服の端を握って、呟いたのは麻貴菜。
目尻に微かに涙を浮かべた女は、張られた頬を隠すこともなく、告げる。
「帰って…くだ…さい…」
弱々しい声は、今にも消えそうに震える。
それでも目線はそらされることなく暴漢を見つめ―――先に顔を逸らしたのは、黒衣の男。
「しらけたから帰る。…が。忘れるんじゃねえぞ。てめぇの立場」
「…………はい」
蚊の鳴くように答えて、麻貴菜は俯く。
震える手に引かれながら、登貴夫もまた小走りの彼女に続いた。
「…家に、おいてくれませんか。今日、一晩、だけ」
ふるふると震える声に、登貴夫は答えない。
あの男に会う前なら、おいたかもしれない。一度だけくらいなら。
袖のボタンすらきっちりと止めたその下の肌の白さに興味はあるが、恐ろしいものを呼びよせてまで味わいたいものではない。
「…家に、帰れません」
その沈黙をどう解釈したか、彼女は続ける。
「なにもしません。あの人も、来ません。…あの人が歩いて行った方角、私の家がある方だもの…っ!」
震える声に、とうとう嗚咽が混じる。
「もしかして、さっきの…」
「ちが…」
君を探していると言う家族か。その問いすら皆まで聞かず、麻貴菜は首をふる。激しく否定して、そうして後悔するような顔をした。
涙でぬれた蒼い瞳が、登貴夫を射抜く。
一歩引いた時は、遅い。
「嫌わないで、大能さんは…私の憧れです…」
やわらかな熱に抱きとめられて、男は言葉を失う。
「私、駄目なんです。いつも変な男に騙される。あの人は、家族じゃない。その時の人…」
ぎゅうと押し付けられてくる、いささか薄い乳房の感触。
けれど火傷するように熱い熱は、男から抵抗の意思を奪っていく。
「騙されて、しぼれるだけしぼられて…もう、嫌で…」
逃げてきたのに、嗚咽の合間の訴えは、彼になんの感慨も抱かせない。しかし、人通りが少ないとはいえ、誰が通るともしれない道で、こんなことをしているところを見られるわけにはいかない。社内の人間に見られれば、待っているのは緩慢な破滅だ。
「今までのこと、全部、全部忘れます! 忘れますから! 誰にも言わない! だからお願い…! このことも言わないで…一晩だけ…帰りたくない……!」
泣きじゃくる女を抱き返すことはしない。できるわけがない。しかし。
「…わかった。うちにおいで。休みなさい」
放り出すことも、どうやら封じ込められたようだった。
登貴夫の家―――夜景の麗しい一室に気の抜けたように座りこんでいた麻貴菜は、やがて口を開いた。
「ごめん、なさい」
「いや、いいよ」
「…でも、ごめんなさい。これを、最後にします」
再び泣きだしそうな女に、登貴夫は何も言わない。黙って曖昧に笑い、女を見つめる。
厄介な身の上とは聞いていたが―――あれは明らかに堅気ではない。
―――ああいう男に貢いでいた女なわけか、この子は。そしてそれは、今も立ち切れてはいない。
値踏みする内心が聞こえたように、彼女は小さく笑う。自嘲の笑みで。けれどすくと立った姿は、背を伸ばした凛としたもの。
「あの、頭冷やします。…ごめんなさい。お水…もらっても…いいですか…」
おずおずと、遠慮がちに、というよりは怯えたような言葉に、登貴夫は刹那迷う。人に自分の家を触られるのは好かない。好かないが―――今この女の提案を断り、心を乱れさせるのはよくないと直感する。
最後まで『優しい上司』の仮面をはずさずにいなければ、下手をすればこの女の『次の男』だ。事情を知った今、それはあまりにいただけない。
「うん、…冷蔵庫にお茶が入っているよ。飲みなさい」
「…はい」
ぱたぱたと台所にかけていく女を見ながら、登貴夫が思うことはただ一つ。
さて、どうやってこの女を切ろう。引き際は、身にしみているといいのだけれど―――
男の目は、女の去った後をじっと見つめる。
その瞳にあるのは、ただ純粋な計算と保身だけだった。
―――その夜。
カシャ、
シャッター音が響く。
カシャ、
カシャ、
寝息すら静かな深い眠りに落ちた登貴夫は、その音に気付かない。
カシャ、
カシャ、
カシャ、
飲んでくださいと請われるまま共に飲み干した茶に、何を入れられていたかにも、浮かんだ笑みにも、気付かないまま。彼は平穏な眠りに沈んだ。
妙にすっきりとした頭を振って、朝目覚めた時、木城麻貴菜の姿はなかった。
出社してみても、出勤していないということだった。
理由は―――恐らく、昨日の件なのだろう。
『ごめんなさい、さようなら。今までありがとう。』
短い手紙が、朝彼女の代わりに残っていたから。
無断欠勤は、それから三日続き―――正式に辞めたと聞いた。彼女の席には、やがて別の女が座るのだろう。
その様を、登貴夫は無感動に眺める。
そう、無感動に。少し遊んだ女が消えたことも、その行き先も、彼には興味などない。興味があるのは―――己の栄光のみだ。
小さく安堵の息をつきながら、やがて日常に帰って行った。
―――日常に、帰ったつもりでいた。
しかし、不運にまみれた女が消えてから四日後、婚約者に呼び出された。
必要最低限以上は彼とかかわる必要がないと公言してはばからない女だ。おそらく用事があるのだろう。ごく当たり前にたどり着いた結論を胸に、彼は高層住宅の一室の扉をたたく。
機能性よりデザイン性を重視したような、美しい白い部屋には、同じように美しい女がいた。
いつものように、どこか皮肉げな笑みを浮かべて、彼を眺める。
いつものように、いつも以上に―――その表情が冷たい事に気づいた登喜夫は、内心で首をかしげた。
「話、あるんだよね? 中、入れてくれない?」
「大丈夫よ、すぐに終わるから。 ああでも…そうね、少し中に入ってくれてもいいわ。でも、扉は閉めないで」
「なんだい、そんな怖い顔をして」
「…白々しい、怖いのはどっちよ」
ばらりとばらまかれた写真に、登貴夫は大きく目を見張る。
映り込んだものは、彼の部屋。眠る彼に親しげに寄りそう女。そして。
「…これ。見覚え、あるわよね」
彼に寄りそっていたの女と同じ女のものと思わしき、何重にも縄かなにかでこすられたような跡の残る手首。あらわになった肩に真っ直ぐに走る薄い傷。赤くはれた、白い頬。
これではまるで―――
「『大能さんと付き合っていました。でも遊びでした。むごいこともされたけど、好きだった。どうしよもないから、私はいなくなります』」
これではまるで、その女と付き合っていたようだ。しかも、暴力でもふるっていたようだ。
内心の言葉を形にしたような声に、彼は蒼ざめる。
「…そんな手紙が来たのよ、私の元に。
貴方だって言うのよ、その相手は」
「な…!」
そんなことはない。そんな事実はありえない。けれど、今彼女が握りしめる写真は、そう断ずるにふさわしい物品だ。
「木城麻貴菜って言うのよね。今日の新聞の隅に、乗ってたわよ、若い女の焼身自殺」
そんなものは見てもいなかった。彼女の死など、初耳だ。
「ちがう、その女は…!」
―――それに違う、それは。それは、その女では。いや、俺は、こんなところで…!
「事実はどうでもいい」
混乱する男に、女は冷ややかだった。
「これはあなたの部屋だし、この指はあなたのよね。指輪、同じだもの。写真の時間は深夜―――これで、私が怒る理由は十分。婚約破棄の動機としても十分」
「これは、誰かが俺を陥れるために…!」
「陥れられるスキがあるような人間に興味はない」
切り捨てる声には、迷いも躊躇いもない。あるのはただ―――嫌悪と怒り、冷たさばかり。
「私の親にもまったく同じものと手紙が来ていてね、満場一致。―――だけど、このままですむなんて思わないで…」
次に会う時は法廷よ。
女は凄味を孕んで鮮やかに笑い、脱力したように肩を落とす男を軽く押す。
ふらりと傾ぎ、部屋の外へと出る彼の前、重厚な扉はばたんとしまった。
―――なぜだ。
自分はどうしてこんな目にあっている。
痛む胸を押さえながら、登貴夫は俯く。ふらふらと、歩む。
もし仮に。その原因があの女だというのならば。
いつ、どうやって。
この女の住所を知った?
あまつさえ、彼女の両親の住処を、どうやって。
これではまるで、本当に。最初から―――…
ぎりと歯を食いしばると、口の中に血の味が広がる。苦いそれを飲みほしても、状況は何も変わらない。
と、携帯式電話が振動する。取り出したその液晶画面に表示されるのは、連絡が会社からのものだと言うこと。
小さな機体を持つ手が、ぶるぶると震え、じっとりと湿った汗で濡れる。
会社から知らされることは、今聞かされた内容と同じ責めのように予感した――――……
高級な住宅やマンションが立ち並ぶの町の一角。しゃれたサングラスをかけた女が歩いている。
ラフなシャツとジーンズを纏い、つかつかと歩く女。
女は肩を落とした男とすれ違い、その顔色をちらりと伺う。
真っ青な顔で虚ろな目をした男を一瞬だけ眺め―――女は、嗤った。
そして、彼の姿が完璧に見えなくなってから。肩に下げていた小さなカバンから、黒くそっけない携帯式電話を取り出す。
「…兄貴。終わった。今から帰る。足の手配お願い。…え? ああうん…そっか、ありがたい。じゃ、落ち合えばいいのね。うん…うん。ああ。大丈夫。じゃ」
つかつかとヒールを鳴らして、軽い口調でそう言って、女は携帯式電話の通話を切る。
黒い髪は肩を少し過ぎ、きままに揺れる。首元をなぞるその感覚を煩わしいと言いたげに髪をかきむしりながら、小さく溜息をつく。
しかし、溜息をつきながらも、その表情は晴れやか。
穏やかな心を反映するかのように、足音すら消して、彼女は歩き続ける。否。音も静かなその歩き方こそが、彼女本来の歩き方。静かな足取りで閑静な通りを抜け、どんどんと、人どおりの激しい町の中を進む。
彼女が迷わず歩み寄るのは、その猥雑な人並みの中でも目立つ鮮やかな紅の髪と、高い背丈の男。
「紅也」
高い木の下、人待ち顔で時計を眺めていた男、古凪紅也はその声に顔を上げ、翡翠色の瞳を柔らかに細める。笑みのように、眩しいものでもみたかのように。ゆっくりと。
「おかえり、明乃」
「まだ帰ってはいないけど…ただいま」
矯正をかけた黒い髪をおろして、眼鏡の代わりのように身に着けていたサングラスをはずして。
木城麻貴菜と名乗っていた女は、親しげな口調でそう答えた。