仮面を片手に


 ―――人生をうまく生きている

 彼にはその自覚があった。
 人生はうまくいっている。
 仕事は順調に進み、次の昇進は彼だと噂とされている。最近はあてもあり、新居としてマンションを購入した。デザイナーの手も入ったそれは、30の半ばの持ち家にしてはなかなかのものだ。
 そして、なにより。先日正式な婚約を結んだ、美しい女がいる。
 若い頃に遊んだ頃は、可愛らしく従順でこそと信じて疑わなかったが。いざ一人を選ぶとなると、それでは少しもの足りない。
 行き着いたのは、鋭利な頭脳とプライドを持つ女。
 仕事が、自分を高めることがなにより大好き。男との婚姻には打算も多い―――そんな女。
 中々激しい気性だが、傍に並べておくなら最高品。
 その選択を後悔などしていないが。
 こうして目の前にすると、可愛い女もなかなかそそられる。今彼の目の前に立つ女はとびきり可愛らしい。

 新しくここに派遣された、期間限定の社員。ストレートの黒髪をアップにまとめ、メガネをかけた女。その縁に乗るうっすらとした桃色が、なによりレンズの奥の目が、大きく愛らしい。
 しゃんと背を伸ばす姿と、少し濃すぎるほどの頬紅が、いかにも緊張を表しているようで、また可愛い。遊ぶなら少し隙があるくらいの方が―――考えかけて、男はかぶりをふる。
 悪い癖だ。そろそろ火遊びは卒業しなければいけないと言うのに。

木城麻貴菜(きじょうまきな)と申します。よろしくお願いします」
 彼の目線などまったく気にせず風に、女はきびきびとそう言って、頭を下げる。
大能登貴夫(おのときお)です。こちらこそよろしくお願いします」
 人好きすると評される笑顔と共に、登貴夫。
 どこか強張った、緊張の滲む笑顔を浮かべていた麻貴菜は―――なにかに安堵するかのように、少しだけ眉を下げた。


 可愛らしい女は、中々どうしてやり手だった。
 指示したことを的確にこなし、明いた時間は雑務をきびきびと。少し仕事を覚える度に、指示なく動けるところは動く。にこにこと笑って動きまわる姿は、契約期間が過ぎればどこぞやに行くということが惜しくなるほど。
 そう、惜しくなったからこそ。
 人事の担当者は、既に契約期間を延ばすように打算したと聞いている。
 けれど悲しい顔で首を振られて、説得してくれと登貴夫が頼まれたのが、昨日。
『お前はそういうの得意だろう、引きとめてくれ。有能だし、…個人的に口説きたい』
 悪びれることもせずにそう言ってきた同期は、社内で飲み会を企画した。
 そうなれば、あとは登貴夫のすることは一つ。
 頃合いを見て、彼女をその会合から連れだすことだった。


 市街の中心にある、喧騒があちらこちらから聞こえる居酒屋。
 その一室の片隅に陣取り、出された料理にゆっくりと箸を伸ばす麻貴菜に話しかける機会を見つけるのは、そう難しいことではなかった。
「楽しんでる?」
「ええ」
 飲みかけのグラスと麦酒の瓶を持って笑いかける一時的な上司に、麻貴菜はにこりと微笑んだ。愛想良く、心地よいと評されるような。自然な笑みだ。
 同じような笑みを返しながら、登貴夫はぽつぽつと辺り障りのない会話を交わしながら、くいとグラスを傾ける。半分ほど注がれていた黄金色の液体。そのすべてを胃の中に片付けた頃、彼は改めて口を開く。
「ところで、島山から聞いたんだけど、木城さん。ここに残る話、考えてくれないのかい?」
「ええ、勿体ないお話ですけど…今はまだ、お断りしています」
 空になった登貴夫のグラスに、新しい酒を継ぎ直しながら、麻貴菜はそっと目を伏せた。長い睫毛はぴくりともふるえず、彫り込んだように整った唇だけが申し訳なさそうに曲がった。
「へえ。いや? この会社」
「いいえ。どこでも。…私、一か所に留まるのが、勿体ない気がするんです。もっともっと、色んなものを見てみたいから…」
 からかうような問いかけに、若い女は生真面目な顔で答える。とんでもないと言わんばかりに首を振ってから、うきうきとした口調で夢を語る。
 どこか陶然とした印象すら感じる蒼い瞳に、登貴夫は内心は笑みをこぼす。―――これは中々、大きな口を叩く女だ。
「木城さんは、案外野心家だったりするのかな」
「ええ、実は。だって、どうせなら。心から自分にあったと思う場所を見つけて、のし上がりたいもの」
 からかうような言葉に、麻貴菜はほんのりと頬を染める。
 今日も濃すぎるフシのある頬紅とは違う、自然な赤さ。そうしてみると白い美貌にはあどけない印象が加わる。
 だというのに、薄いレンズの奥にはぎらぎらとした輝きがある。若い、というよりは。飢えているかのような。何かを狙う眼差しは、真っ直ぐに登貴夫を射すくめる。
 目を逸らさぬままに、彼女はぐいと自分のグラスを傾ける。殆ど口のつけられていなかった麦酒は、赤く彩られた唇の間、またたく間に消えていった。
「…いける口だね」
「意外ですか?」
 にこりと微笑む顔は、少しだけ悪戯っぽい。
 つい先ほどの言葉も含めるようなその問いに、登貴夫はゆるく笑った。社交辞令ではなく、純粋な愉快さで。低く喉を鳴らした。
「いや、そうだね。野心家な女性はお酒くらい余裕でたしなめそうだから。なにも驚かないよ」
 彼は笑いながら、空いたグラスに代わりを注ぐ。先ほどの彼女がそうしたように。
 途端に恐縮したように身をすくめる姿に、また笑みを一つこぼし、すっと手を伸ばす。
「驚かないけど、面白いな。ここはもうお開きになるけど…もう少し、飲み直さない?」
 麻貴菜は答えず、軽く手と手を重ねてくる男の指に嵌ったリングを、とんと叩く。
 すらりと長い薬指を飾る、銀色の輝き。彼の未来の証。
「…いいんですか?」
「そういう意味じゃないからね。もう少し、部下の話を聞きたいだけ」
 言葉の割に、響きは甘い。婚約指輪をつつく女の指先を、からかうように握り返す。
 女は注がれた眼差しを真っ直ぐに見つめ返して―――ふ、と笑った。
「……嬉しい」
 女は酒で濡れた唇を、ちらりと舌で拭った。


「大能さんって、いかにも『できる男』って感じで。もっと近づきがたいって思ってました」
 行きつけの小料理屋で出された酒に口をつけつつ、麻貴菜は笑う。社内で見せるより幾分と柔らかい、ふわふわとした口調で。楽しげに喋る。
「悪いね。実際はとんだお調子者で、ね」
 だから登貴夫の口調も軽い。グラスを口元に運ぶ仕草も、そう。
 つい先ほどまでとは違う、上等な発砲ワイン。空気の弾ける様と口の中に広がる香りが、この上なく心地よい。
 その口当たりに浮かされたように、彼女の言葉も軽やかだ。
  「いいえ…楽しいです、とても。こんなにいいお酒、飲んだのも初めてで……本当は、あたし、ここで働いてい…」
 軽やかに、歌のように紡がれていた声が、露骨にひきつる。口元を押さえるようなマネはしないものの、顔にははっきりと書いてある。言い過ぎだ、と。
 ―――さて、踏み込むべきか。ほうっておくべきか。
 うまく立ちまわって恩を売れれば優秀な人材、下手をすれば厄介事をしょい込むだけ。だが、
「うちの会社に、残れない理由でも?」
 彼は神妙な声でそう問いかける。
 みるみるうちに顔をこわばらせ、今にも震えだしそうな様が、それでも顔を逸らすことも知らぬ女が、ひどくそそるものに思えたから。
 優しげな顔で、気遣わしげに。彼女の言葉を待つ。
 僅かに唇をかんだ麻貴菜は、はあと一つ息をつく。そうして、やけに華やかな顔で笑った。
「……どうせ三か月の付き合いですもの、言ってしまおうかしら……」
 言いながら、女はぐいとグラスを傾けた。
 華奢なグラスを扱うにはいささか乱暴な仕草でそうした後、驚くほど優しい手つきでテーブルへと戻す。
 そうして登貴夫をじっと見つめる瞳には、なにか激情を押し殺すように見えた。
「私の家は…あの、あまり良くなくて…逃げるようにでてきたんです…」
 わずかな反応を少しでも見逃さないとでも言うように、その眼差しはじっと彼の顔から離れない。
「…ありきたりな話です。金にだらしない父は、借金を残して出て行った。残された兄は、ふらふらと仕事をしないまま…。私の稼ぎが、あてにされる」
 吐き捨てるように、否、それよりもっと平坦に、淡々と。幸福とは言えない人生を、彼女は僅かな笑みを刷いて語る。
 くい、再度口元に持ちあげられたグラスの中、僅かに黄金色の透明な液体が揺れて、襟から僅かに覗いた白い喉元が上下する。
「だから、一カ所になんて、駄目です。居場所を知られるわけにはいかない。
 ………だらしない身内で、お恥ずかしい………」
 度の強い酒の全てを飲みほして、女は僅かに目を伏せた。
 作り物めいた笑みで顔を硬直させる麻貴菜に、登貴夫はふっと柔らかく笑いかける。
「木城さん」
 名前を呼ぶ声と共に、空になったグラスに新たな酒が注がれる。
「そういうことなら、そうだね。引きとめるわけにはいかないかもしれない。
 でもね、ここにいる間、私達は君を全力で守るよ」
 柔らかな、静かな声に、麻貴菜ははっと目を見開く。信じられないものを見るように。
「大能さん…」
「相談があったら、いつでも聞こう。今のところは、君の上司だ」
 男の声は柔らかい。ほんの僅かに肩をたたく指先も、柔らかい。
 柔らかく、表面だけをなぞるものだと。
 気付かぬように、女は微笑んだ。
「ありがとう…ございます」
「うん、上司だから、当然だよ」
 その後、つれづれと会話を交わし。小さな店から人が消えていくのに合わせ、二人も店を出た。

 登貴夫はタクシー代を握らせて、何度の頭を下げる女を見送る。
 ―――まったく、悪い癖だ。
 もっと頭を下げさせたくなってきたじゃ、ないか。



   麻貴菜がタクシーから降りたのは、人気のない暗い道だ。安アパートと同じようなホテルが並ぶ、くたびれた通り。彼女が今努める一流の会社が並ぶ通りとは、比べるべくもないような場所。
 きれかけた街灯がちらちらと瞬きを繰り返す道を、麻貴菜は疲れた足取りで進む。したたかに飲んだ酒が、ようやく回って来たように。
 けれど、白い指先に酔いの気配はない。素早く動き、手に握った携帯用電話にいくつかの数字を打ち込む。そっと耳元に機体を持ち上げて、彼女は口を開いた。
「…ああ、あたし」
「うん、うまく言ってる。誘われなくとも、そのうち誘うし。その時は改めて連絡する。だからよろしく」
「なにいつまでぐだぐだ悩んでんの。いいって。…いいって、あたしが、言ってる。なにあんたそんなに大事な友達のお願いがきけないわけぇ?」
「……はいはい。そうね。ごめん。確かに言い方卑怯か…あんたの嫌いなこと頼んでるだもんね。…でも、あんたじゃなきゃ頼めないわ」
「だって、あんたのこと、信頼してるもの」
「………うん、うん……ああ……じゃ、おやすみ」
 沈黙した携帯式電話をしまいながら、女が笑う。声に出さぬまま、楽しげに。
 爪先にごく淡い薄紅を施した指先は、ぎらぎらとした眼差しを隠すように、そっと眼鏡を直した。