「…磨智」
扉をノックして、呼びかける。
どうぞの声と共に開けると、なにやら縫物をしていた彼女は顔を上げる。
笑顔で。
「なあに?」
作り笑顔を向けられるのは空しいのだと、なんだか久々に思い出していた。
むすんでひらいて
「お茶でもするの? なら、下行って準備して付き合うけど。今待っててくれない?」
「持ってきた」
ひょいと持ち上げて示したトレーの上には、氷の浮いたお茶入りの瓶。二つのグラス。
「あら珍しい。じゃ、先下で飲んでて。すぐ行くから」
「…嫌だ」
きっぱりと言い切ってみた。それでも笑顔は変わらなかった。
唇はあくまで楽しそうな笑顔のまま、目がじとりと坐っわたけれど。
「なんで。私、今この部分だけ終わらせておきたいんだよね」
「…じゃ、そのままでいいから。聞いてくれ」
返答は帰ってこなかった。
視線も布に向いて、黙りこまれたまま。
けれど、こういう風に言ってしまえば。磨智は聞いてくれると、知っているのだと思う。
「……謝りに、きたわけじゃ、ないんだ」
「…へぇ」
低い声が返ってくる。けど、振り向かない。まだ、振り向かない。…好都合、かもしれない。
顔を見て、こういうこと話をすることが。どうにも落ち着かないから。
「ただ、聞きたくて」
それでも、言いづらい。何が言いづらいって…あまりに勝手な言い分だから。
「お前…なんでへらへらしてんだよ。怒られて当然のことしたじゃねーか。俺」
磨智は振り向かない。今度は、声も帰ってこなかった。
しんと静まる部屋の外は、遠くで誰かの声が聞こえてくる。いつも通りの町の声が、ざわざわと聞えて。
いつもはその一部である彼女は、ただ沈黙を守ってて。
やがて――――はあと息をついた。
「…へらへら、かあ」
呟く声は冷たい…に違いないと思ったのだが。
妙に明るくて、悟らされる。
怒ってない。ただ…無理をさせてる。
「にこにこと愛想よくしてたつもり、だけど。酷い評価だねえ」
振り向いた磨智は、やっぱり、無理をしているとしか思えない顔だった。
なんで、こんな時に。
無理をするんだ。
「…怒らないよ。今更。
君が私のスキンシップを嫌がるのはあー。今始まったことじゃないしー?」
「…で、いつも怒るじゃねーか」
「うん、だって。
私はくっつきたいのに、ねえ?」
腰かけて椅子から立ちあがって、一歩進んで。磨智は続ける。腕一本ほどの距離を残したまま。
「ねえ、逆に聞くよ?
君、私が好きなんだよね?」
「……お……おう」
必死の想いで逃げたくなる足を留める。ただ、距離を詰めることはできない。
「でもくっつかれると照れ臭い?」
「……ハイ」
思わず頷く。と、声の調子が低くなる。
「ねえ、なんで?」
「なんでって、おま…」
そんなこと聞かれても。言うより早く、言葉が続く。ひどく、淡々と。
「もしかしたら私は魅力がないのかな。
だからくっつかれると鬱陶しいのかもしれない」
自分の目が見開かれるのが分かる。
…鬱陶しい?
誰が、誰を。
「そう思って、不安だから。
私、いつも頑張ってた」
俺が、お前を?
「…違う」
自然と 伸びた手が、磨智の手を捉える。
白くてふっくらとした、少しだけ冷たい手。
触れるだけで熱くなってしまうから、いつも冷たく感じる手。
鬱陶しい、なんて。そんなこと、思ったこともない。
好きだと認められてからは、一度も。
「…分かってるって。分かってるから―――…だから。だから、頑張ったんだよ」
握りしめられた手を見ながら、磨智は少しだけ笑った。
柔らかく、自然に。
ふっと唇がゆるむ。ああ、やっぱり。こっちの方が―――可愛い。
「さあむらむらしろーくらいの気持ちで、にっこにっこと尽くしてたんだけど? 最近」
…可愛いと思っていたのに。なにその言い方。
むらむらってお前。他に言い方ないのか。
「…なんで…」
そうか、だから最近愛想がよかったのか。
なんで、いっきにそうなるんだ。
正反対の思いは、口を軽くした。
「なんでそうなるんだよ…はっきり言えばいいじゃねーか…」
空気が凍ったのと、失言だと気付くのは。切ないことにほぼ同時だった。
「はっきり態度に示しても全っ然嬉しそうにしないからじゃない………」
そっと囁かれた静かさは、一瞬。響くのは、わりと景気のいい音。
握っていない手はべしべし俺を叩いてくる。手加減なしだなオイ!
「毎回毎回悲鳴あげられて傷ついてないとでも思ってたわけ!? そりゃ楽しんでたのも認めるけど! それだけなわけないじゃない! こっちだって勇気ふり絞ってる!」
なおもべしべしと叩かれる。ちょっと反論もできない。でも逃げてはいけない気がする。それに。
「なのに…」
それに、無理して笑っているよりはよほど良い。
「なのに、毎回謝るらないでよ! 怒ってる私の心が狭いみたいじゃない!」
「今回謝ってね―じゃん…」
「謝ってるようなものでしょ!? すぐに謝って1人で気持ち良く納得しないでよ! このヘタレ!」
仕上げのようにべちりと叩かれた。
叩かれたと言うより突き飛ばされた。
倒れこまなかったのは意地で、すぐに言い返そうと、した。
「…私、魅力ないの?」
けれど、俺を突き飛ばした恰好のまま、磨智が俯くから。
「色々してみたら改めて色気ないって思ったとか…くっつかれても、迷惑とか……?」
小さい肩が、微かに揺れていたから。
言うべき言葉を見失う。
「君は…私が、どういう意味で好きなの」
顔を上げない磨智の胸元で、いつか贈ったリングがゆらゆらと揺れる。
いつか、一緒に。どこまでだって。
そんな風に約束して、傍にいた。
傍にいて、それだけでも充分すぎて。
口に出すのも、態度に出すのも照れ臭くて、怖くて。
「俺は」
ずっと逃げているうちに、こいつは何度も勇気を振り絞ってくれていて。
答えたくなかったわけじゃなくて。どう答えればいいのか分からなくなるって。
もう一度。手を伸ばして、重ねる。今度は、どうしよもなく熱かった。
「俺は、好きだ。お前が」
磨智は俯いたまま何も言わない。相槌を打つことも答えることもなく。静かだけど。
「笑ってる顔が好きだ。別に笑ってなくても好きだ。やかましくて何考えてるかわかんね―お前が、好きだ」
一息で告げる声も、思ったより静かに響いた。
心臓はこんなにもやかましくなっているのに、不思議だと思う。
身体はこんなにも自由にならないのに、不思議だと思う。
「…くっつかれんのも嫌じゃない。…全然、嫌じゃ、ない」
嫌なのは、怖いのは。
ごちゃごちゃと乱れる気持ちで、決してこいつのことではない。
笑った顔が好きで、さわがしいとこが好きで。怒った顔も悪くなくて。
でも、泣いてる顔は嫌いだから。
たまに抱き返して、たまにこちらから触れると。少しだけこわばる身体が、泣き顔をつれてくるんじゃないかと。
怖くて、怖くて、仕方ないから。
それでも。
「嫌じゃない。絶対、嫌ではない」
重ねた手に力をこめる。どうすれば、全部伝えられるのか、分からないまま。
「………なら」
分からなくて、迷って。何度も、傷つけて。…行き詰って。
「信じさせるようなことしてよ、もうちょっと」
どうやったら、伝えることが出来るだろうか。
「…それって」
大事だから、大切だから。
口にしても、手を繋いでみても、うまくなんて伝わらないのに。
「……とりあえず触っていい?」
けれど、とりあえずの思いを告げてみた。すると、抱き付かれる。
…さすがに声とかは、あげなかった。
「…メー君」
「おう」
気まずい間を挟んで、名を呼ばれた。
「君は…すっごっくめんどさい」
「…そうか」
顔を上げないままぐりぐりと頭を押し付けてくる磨智の声は、心の底から呆れた風で。
「物分かりも悪い。気もきかない。乙女の恥じらいも分かってない……触ったでしょ…色々触ったでしょすでに…!」
でもやっぱりなにをなじられているか、いまいち分からない。
それでも今、そんなことを言ってはいけないのだろうと黙っていると、深い息をつかれた。
「君を嫌いになれるならとっくの昔になってるよ。
アホなこと考えてないで、もう少ししゃっきりしてよ。もう…、もうっ。なんでもかんでも聞こうとしない! 考える!」
「…考えたらこうなったんだが」
正直に答える。ばしっと叩かれた。…たいして痛くなかった。
「…ああ…本っ当面倒くさい…」
呟きと共に、重ねた手が握り返される。
「でも、言ってあげる」
感謝しなさいと胸を張って、磨智は顔を上げた。
「…いつでも触っていーよ」
こちらを見上げる顔は、ほんの少し苦笑していて。真っ赤だけど。別に、嫌そうではない。
耳元でどくどくと音がする。体中の血が顔の辺りに集中してる気がする。
目眩に似た感覚を目を閉じてやり過ごし、手を引いて、口を寄せた。
そうして触れた唇は、柔らかい。
柔らかくて頼りなくて、やっぱりどこか怖いと。
ちらりとよぎった言葉は、熱に溶けた。