その日、僕は一人山の上にいた。適当に飛んできたそこは、生き物のうごめく気配に満ち溢れているけれど―――知った顔に会うことはまずないだろう、そんな場所だ。
なんとなく家を出て、一人散歩に勤しむ。それは、もやもやとした気持ちを整理するためではない、僕の日課だった。
羽で風を読んで空を飛んで。そうして、誰もいないところで寛ぐ。そうしているのが好きだった。
こうして町を眺めていると、たまに思う。
―――この世界は。舞台のようだ。
きっと、台本はないけれど。練習はないからバラバラに動くし、一度きりでやり直しはきかないけれど。皆各々の役割に沿って動くのは同じだ。
役者は皆主役と言えるし、そうでないとも言える。そして、僕にとって、あの家での自分は到底主役とは思えないのだった。
アクターの憂鬱
あの家の中で必要とされてないとは言わないけれど、決して絶対の存在ではない。
そんなことに気づいたのはいつだろう。諦めたのはいつだろう。その原因は、なんだっただろう。
負けることが嫌いだった。けれど、勝負にすらならない彼を嫌悪しはじめたのはいつだろう。
もし気づかずにいれたなら。そう夢想するほどにこの身を縛るその事実に気づいたのは、きっと、主人と契約して間もない頃だ。
僕が初めに追従した人間のことはよく覚えていない。マスターと交流のあった人間なら覚えているから、そうでないことは確かだ。
顔も声も覚えていないけれど人物だけど、ナーズのオスを連れていたことは、今でもよく覚えている。
だから僕はいらないんだな。そんな風に思ったことも、覚えている。
それから龍屋へ行って、しばらく経って。マスターと初めて会った。
その第一声はよく覚えている。彼女の傍らの光龍が、どこか不機嫌な顔をしていたことも、よく覚えている。
「―――君、ドラテンに力をいれてないマスターでもいい?」
どういう意味でしょう、と問うた。彼女は困ったように笑った。
「そうは見えないけど、私戦闘系なの。だからドラテンより戦闘に体力使ってるの」
それでもいい? 念を押すマスターに頷いた。
なんでいちいちそんなことを訊くんだか。そんな風に思ったけど、その時点でそんなことを口にすることはなかった。
「そっか、嬉しい。ドラテンに力いれてないけど、今ちょっと忙しくてね。ひとり負担大きくなってる子がいて心配なんだぁ」
笑う彼女の傍で、光龍はさらに不機嫌そうな顔をした。
たぶん、マスターに戦力外通告を言い渡されたようで嫌だったのだろう。
今はそう思うけれど、同時に馬鹿馬鹿しいと思わずにはいられない。
マスターが彼を必要としない時なんて、僕の見た限りでは一秒すら存在しなかったから。
初めて会った時から、マスターの印象は変わらない。
くだらないことで笑って騒いで、くだらないことで悲しげに沈んで、戦闘を挑んでは性懲りもなく負けてきて、定期的に本を大量に買い込んでは埃くさいと緋那さんに怒られる、そんな人。
彼女のことは好きでも嫌いでもない。
ただ、僕は彼女を主人と認めた。それだけは未来永劫変わらぬ事実。主人に忠誠を誓うのは、契約龍として当然のことだと思った。出来る限り忠実に、優秀に仕えることが、僕の誇りだった。
だから、好きでも嫌いでもない主人を害そうとは思わない。そもそも、害するほど強い感情も抱けない。
かなたさんはマスター。それ以上の何者にもならない。
僕が忠実であろうがそうでなかろうが強かろうが弱かろうが彼女にとってはなんの関係もないことと同様に、言ってしまえばどうでもいい存在なのかもしれない。
彼女が否定するだろうけれど―――あるいは泣きそうになって肯定するんだろうけど―――彼女は他の誰がいなくともあのメイベルドーがいれば幸せなのだから。
初めて会った時も、彼女の傍にはあの光龍がいた。
メーが愛想なしなのはいつものことだけど、あの時不機嫌だったのは、僕に―――己より高い能力値を持つ種への嫉妬だったのだろう。彼女にとってそんなことは関係ないだろうに、馬鹿らしい。マスターはきっと、他の誰と比べようと、あいつを一番に選ぶのに。
そんなことを思うほど、彼女と彼は当たり前のように共にいたから。
だから、そのことに気づいていない(ように見えた)光龍が、心底馬鹿だと思った。
僕にとって、馬鹿な彼は、短気で無鉄砲で、どこかいけすかない相手だった。
―――それに得体のしれない敵愾心まで追加されたのは、やはり出逢った頃だった。
126番地で暮らすようになって、最初に親しくなったのは地龍の彼女だった。
彼女は(一見した限りでは)人懐っこかったし、彼女の巻き起こす色んなことをみていると、楽しかった。
親しいと言う点においては、炎龍の彼もそう評すに相応しかったけど、たまにどっかイッちゃったこと言いだす奴といるのとは違う楽しさが、彼女といる時はあったから。
彼女は町のことをよく知らないと言えば案内してくれた。よく笑い、よく怒る少女だった。
緋那さんと仲良く喋ったりベムをおちょくったりマスターで遊んだり。メーで遊んだり。そんな少女だった。
明るい龍だと思っていた。明るく、屈託のない龍だと思っていた。
けれど、ある時、見てしまったから。気づいてしまったから。
マスターと彼が一緒にいる度に、不自然すぎるほどの笑顔で彼に絡んでいくことを。
いつものようにメーにからむ彼女が、悲しげに眼を伏せる一瞬があることを。
あの時の彼女は、悲しげで、切なげで。それでも微笑んでいて。
彼だけに寄せる心があることなど、すぐに分かった。
明るい龍だと思い込んでいたけれど。屈託のない龍だとしか思えなかったけど。
その程度のことを悟れる程度には、彼女のことを見ていたから。
ああ、彼女が必要とするものも彼なのかと、そんな風に思った。
マスターに対してそう思った時とはまるで違う不快感が、少しだけ胸をかすめた。
恋だの愛だのを抱いていたわけではないけれど、嫌なものは嫌だった。
―――だから。
僕は彼が嫌いなんだ。
認めたくはないけれど、勝負にすらないそのことが、ひどく嫌なのだ。
なんの努力もせずにいろんなものを持っているようで、苛立って仕方ない。
彼が彼であるために敷いていた枷の存在を知ってもなお、その想いは拭いがたい。
あいつは言動が能天気すぎる。だから恨み事を抱く自分が馬鹿みたいに思えるんだ。
自分はあいつのようにはなれないからこそ、腹立たしくて仕方がないんだ。
こうして思い返してみれば、あの頃、僕は主人公になりたい子供だった。
そうなりたくて―――でも救う相手も想う相手もいなかった、そんな子供なのだ。
だから、常に場の中心にいる彼が、それに気づいてないかのように振舞う彼が、厭わしかった。
僕にはそれが叶わないと知ったから。
せめて舞台を見渡すところにいたかった。
その結果、好奇心ばかりが育っていって。誰かに認められたいと自意識ばかりが大きくなって。
取り繕うこと、深入りをしないこと、そんなことばかり上手くなった。
共に歩む他者などいらないと嘯きながら、他者の目線を気にしていた。
けれど、そのことを自虐するつもりはない。これまで歩んできた己の道を否定したら、僕には何も残らない気がする。
「ほら、やっぱり」
自然と呟くのは、ここに誰もいないから。
誰もいないと確信できるから、小さく呟く。
「僕は優しくないじゃないですか」
誰にも言えない言葉は、高く晴れた空へと吸い込まれた。