苛立っている、らしくない。暗に、あるいは直接指摘されたことを否定する気はない。それは事実だ。
それでも、数日も立てば苛立ちは静まった。胸に潜み、時折疼くことはあったけど
その夜も、そうだった。
彼女といると、落ち着かない。調子が狂う。ふとしたきっかけで、表に出そうになる。
未来の音
話の流れそのものは、特殊なものではなかった。小町さんといるのだから、の一言さえあれば全ては日常の出来事だった。
ひょんな話から、小町さんに恋愛方面で縁があるかという問いに繋がって。そして。
「どうですかねぇ。…そういうのから外れている感がありますからね、わたくし」
『縁のあてがあるのか』という己の主人からの問いにあっさりと答え、彼女は続けた。
「…事実、私には私の行く道は見えないのです。…どうなるやら」
「…見えないなら悪いものと決まったもんじゃないでしょう」
気づけば口を出していた。
小町さんの瞳がこちらを捉える。大して時間は経っていないのに、久々に出逢った気がする青い瞳。他人から見ればわけのわからぬ意思を無視することなど考えていないと告げられたあの夜、ひどく遠く感じた瞳。
それがここ数日の苛立ちの原因であるのは間違いないのに、こうして見ていると、なぜかひどく安堵する。
けど、彼女は困ったように笑った。
「自分でも気味の悪い女だと思いますからね。…選んでくれる方とかいるのでしょうか」
やけに自虐的な言葉に、再び苛立ちが胸に灯る。
「……いないと思っていては来るもんも来ませんよ」
言いきって、黙りこむ。そして、彼女を見つめる。口を開けば、余計な言葉を紡いでしまいそうだから、黙りこむ。
「私にお付き合いする男性が出来たら、こうして貴方とは会えなくなりますしね。
…決まった男性がいて深夜に異性と親しく話すというのは何かと問題があるでしょう」
その言葉に、先程とは違う意味で言葉を失う。言うべき言葉は分かっている。
それもそうですね。そんな風に言えばいいのに。なのに、躊躇った。
なぜ。
浮かぶのは、ここ数日馬鹿の一つ覚えのように繰り返している言葉。
唇を無理に動かす。そうでもないと、口に出してしまいそうで。
「そうですね。気にする方は気にするでしょう」
無理に吐き出した言葉は、それでも静かに響いた。静かなことが、なんだか少しだけ嫌だった。
「…私自身にそういう欲があまり無いというのもあり…今、既に結構楽しいのですよ。貴方と言う友人もいて」
穏やかなその響きに、ふっと他人のもののような笑声が漏れた。
「…そうですか?」
数日前のことを、その最後に己が口に出したこと―――その時の彼女の反応を思い返せば、口の端が皮肉の形に歪んだ。
「色々口うるさく言いすぎて嫌われたと思いましたよ」
「嫌いになれる訳無いじゃないですか」
躊躇いなく告げられた言葉に、浮かべた笑みが苦笑に変わる。
「なれるわけないって…そんな…」
そんな風に言われるほど、優しいわけじゃないのに。
まるで拗ねているかのような本音は決して口にはできない。できるのは、問いに逃げることだけ。
「なぜ?」
「…んー、何故と訊かれましても。私貴方の事大好きですもの」
なんてことないように言われ、逃げ道を封じられる。それ以上なぜと重ねることは、できなくなった。
「…そうですか」
頷いて、笑う。言いたいことは、ちゃんとあるのに、そうすることしかできない。
彼女といると、いつもなら言えないようなことが言える。なのに、いつもなら言えるようなことは言えなくなる。
それは不自由で、苛立つことなのだけれども―――
「…私も貴女のことが嫌いではありませんよ。…嫌われたら堪える程度に」
「それは嬉しい」
小町さんはにこりと笑い、続ける。
「まだ、こういう時間が楽しいのです。私は。だからそういう方面の事はまだ考えたくないというのが本音かしら」
「…私もそういう方面のことなど対岸の火事くらいにしか思ってませんでしたよ」
僕は呟く。自然に、これまでのことが浮かぶ。
『そう言う方面のこと』をマトモに考えたことはなかった。
例えば、そのことでベムが嘆こうが泣こうが関係なかった。彼が家を出た時だって同じことだ。
磨智さんが愚痴ろうが荒れようが聞き流していた。あの時メーをけしかけたのは、彼らのためではなく自分のため。あんな空気の家は不愉快というだけだし、メーが不愉快だっただけ。
恋だの愛だのは、僕にとっては他人事だった。
「…ずいぶんと長いこと考えてなかった」
主人が交配を強制しないだろうと察していたから、急いで探そうという気すら浮かばなかった。
愛だの恋だのに限った話ではない。ずっと、そうやって。幾つものことを他人事で片付けてきた。
それでいいと、思っていた。
そうして生きていたのに、それでいいと思っていたのに。
「…今、こうしていることは、私も楽しい」
そっと呟くと、小町さんは明るく声上げた。
「これからどうなるかは解りませんけど、…『今』が楽しいって結構重要ですよねっ」
「…ええ。楽しい今を重ねることでよい未来につながることもあるでしょうし…」
俯いていた顔を上げる。小町さんと目が合う。
知り合った時間は短いのかもしれないけれど。この少女の存在は、きっと。僕にとって大きい。他人ごとに、できない。
「たまにはそれでいいのですよ、きっと…」
そう結ぶと、彼女は笑った。袖で口元を抑えて、そっと笑った。その仕草が、可愛いと思う。
なに考えてるかよく分からなくて、けれど説明は雄弁で、それなのに自信なさげにすら見える少女。
関わったのは、最初は、好奇心。話しているうちに、そんな変な龍ではないと思ったけど。
どこか危なっかしくて、気づけば放っておくのが嫌になって。妙に自虐的で。たまに寂しげで―――気になって、しょうがない。
礼儀正しい礼を残してカフェを出ていく彼女に礼を返しながら、浮かぶ言葉は一つにまとまり始めていた。
気になって、放っておけない。きっと、ただそれだけだ。
問題は――なぜ気になって、放っておけないのか、だけれども。
帰宅して、ベッドへ沈み込む。溜息をつけば、その思いがけない大きさに驚いた。
顔を枕へ埋めれば、目に飛び込む白さに全く違うものを連想する。白い振袖と、その袖口から覗く指先の白さが脳裏に浮かぶ。
再度溜息をつく。それは苦笑の混じった吐息だった。
浮かぶのは、ここ数日、どこかに引っかかっていた存在だ。迂闊なことを言ったと思って、後悔した相手だ。
別に気を悪くしてはいないと知った今も、些細な挙動が気になって、言葉の端に感じる感情に振り回される。
彼女といると落ち着かない。調子が狂う。どうすればいいのか分からなくて、それが嫌なのに、切り捨てる方がよほど嫌で。
「……」
それでも、どうすれば良いのかは、実は簡単だ。
優しい人だと思ってくれているのなら、そのまま優しい友人でありたい。そうであることは…きっと難しいことではない。
けれど―――
「…どうしましょうね」
けれど、なりたいものは、きっと別のものだ。そう気づいてしまった。
興味やら好奇心やら、そんなものはもう言い訳でしかなくて。
『こうして貴方とは会えなくなりますしね』
己のいない未来に胸が冷えた。違う、体のどこかがひどく熱かった。 まだ影も形も見えやしない『決まった男性』にひどく敵意を感じた。
それの意味することがわからないほど、馬鹿ではない。
無造作に大好きだのなんだの言われる度に苛立つ理由も、同じで。
「厄介な女に関わった…」
けれどそれを口にしたところでどうなるのだろう。
口にしたところで、彼女の未来に関われるなんて、限らないのに。
それでも、気づいてしまえばもう戻れない。
いつだって気づいてしまえば、戻れない。かつて、自分の生き方を決めた時と同じように。
「厄介だ」
さて、どうしたものか。
これまで考えたこともなかったから、検討もつかなかった。