罪を犯さぬあなたを決して許せはしないでしょう。
無実の囚人
朝食とその片付けが終わったころ、2階から軽やかな足音が聞こえた。
かなたは顔を玄関に向ける。
目が合った磨智がにっこりと笑った。
「じゃ、いってきます」
「ん…いってらしゃい。今日は晩御飯、いる?」
「どうだろ。…一応作っておいてよ。明日のご飯って手もあるから」
「…そう、わかった」
「よろしく〜」
明るい笑顔を浮かべ、外へとかけていく磨智。
彼女がなにをしているのか、かなたは聞いていない。
浮き浮きと出かけているように見えるから、妙な詮索をして気分の水を差すようなことをしたくない。―――否。きっと今それを訊いても、笑って答えられる気がするのだ。
マスターには関係ないでしょう?
それは想像であるはずなのに、リアルに胸を重くした。
卑屈な方へと進みそうになる思考を強制的に終わらせて、かなたは居間の片隅に立てかけられた槍を手に取る。
そのままどこかに戦闘を申し込みにいこうかと考えて……そのまま床に腰を下ろした。
棚から取り出した砥石と布を広げて、槍の手入れを始める。
すると、トン、と階段を降りる足音がもう一つ。足音はそのまま居間にある椅子に向かい、腰を下ろした。
「…おかしいですね」
何の前置きもないままに風矢。
「うん、そうだね」
かなたは槍を砥ぎながら応じる。なにがおかしいのかなど気づいているから、それを問うことはしない。
ついでに、風矢がその危うい手つきに眉もしかめていることにも気づかなかった。
「4日前からですね。磨智さんの外出も増えました」
「メー君はほっとくとずーっとぼぅっとして外眺めてるんだよね。太陽眺めてた、とか言って。
なにかしたんだろうねえ」
「ええ。なにかあったんでしょうね」
どこか気のない口調の主人に風矢はきっぱりと答える。
「まあ、あの二人はいずれ揉める種があちらこちらに埋まっていたと思いますよ」
「…君もそう思うの」
そう、おかしいのはあの地龍と光龍。
妙に楽しげに日々を過ごす彼女と、妙に気落ちした様の彼は、同じころにその状況に陥り―――それから、双方まともに目も合わせていない。
少し前まで追いかけ合いじゃれあっていたのが嘘のように、顔を合わせるのを嫌がる。
「…嫌っているのか好いているのかは知りません。
ですが、あれだけ執拗に構い倒す相手になんの感情も抱いていないというのも不自然な話ですよ」
やけに緩慢な動作で砥ぎ終えた槍を床に置くかなたは目線だけでその言葉の先を促す。
「…一応訊いてみましたが。
『ちょっと喧嘩して気まずくなってるだけ』の一点張り。…内容の方はさっぱり」
「そう」
溜息まじりの言葉に、かなたは笑う。自嘲としか思えない、暗い笑みで。
その原因が分からず、内心首をかしげつつも風矢は問いかけた。
「…メーの奴はなにか言ってましたか?」
「…どうして私に訊くの?」
「え? …だって、…訊いてないんですか?」
「……訊いたけどね。『ああ、うん、あれだ、なんでもない、なんでも』…だってさ」
「…そうですか。まあ、ともかく」
風矢は声に暗さを増したかなたを引きずられないようにと、明るい声で言った。
「…とりあえず緋那さんが帰ってきたら聞き出してもらうとして…」
「…それはどうだろう」
「え?」
「いつまでも緋那に頼っていてはいけないよ。
…彼女が自分の幸せを追う時間を失ってしまうかもしれない」
思わず見返した彼女は、床に腰を下ろしたまま、なにもない宙を見ている。
その唇が熱に浮かされるような危うさで何事かを紡ぐ。
「…いや、私はもう…」
「マスター?」
椅子から腰を上げ、主人の傍らに屈みこんだ風龍は、グッとその肩をつかむ。
その感覚と声に我に返ったように、かなたは笑った。
「…なんでもない。ともかく、少し、様子を見てみよう」
感情の伴わない、どこか虚ろな笑み。
それを目にした風矢は何事か呟こうとして…はい、と同意した。
気味が悪い顔しないでください。
喉元まで出かかった言葉を飲み込ませたのは、奇妙な既視感。
ここ数日まともな反応を返さない光龍を相手にしたような苛立ちと空しさが口を閉ざさせた。
彼らにそんなつもりなどないのだろう。
けれど、お前には関係ないと言わんばかりの、その表情。
腹立たしいと思いながらいい解決策の浮かばないことが、一層その感情を増幅させる。
やたらと家にいることを厭う地龍の気持ちがほんの少し分かった気がして…知らず秀麗な顔をしかめた。
―――炎龍達が帰還したのは、その2日後。
帰りの日時を知らされていた地龍は当然のように出迎えたが…光龍はどこかへでかけていた。
まるで磨智と顔を合わせるのを厭うように、早々に出かけた。
「ただいま」
「緋那、お帰り」
その声を聞くなり玄関を出た彼女は楽しげに炎龍にかけよる。それだけ見ていればいつもの彼女だ。
それを見て、かなたも笑う。
風矢はそのことに違和感を感じつつも、花壇の前で雑談を始めた女性陣に一声かけた後、相変わらずどこか眠そうに佇む炎龍に声をかける。
「ベム。おかえりなさい」
声をかけられた彼は、一瞬迷うように間をとって、言った。帰宅直後の言葉としては相応しくないであろう。唐突な言葉を。
「………マスター、やつれた?」
「かもしれませんね、あなた達のいない間に色々ありまして。
…ところでベム…君こそやつれましたね…。なにかありましたか?」
声を潜めて囁く風矢に、ベムは静かな笑みを浮かべる。
なんだか激しい戦いに耐えて生還した戦士のような、晴れやかで疲労感にまみれた微笑だ。
「…なにもなかったから、やつれるんだよ…?」
「…ご愁傷様」
静かな一言に旅の様子を察した風矢は、静かに十字を切る。色々な宗派の混じる適当な仕草だが、彼は気にしない。ようは気分である。
「…別に悪くなかったけどね。天国と地獄と天国を装った地獄と天国な地獄を行ったりきたりしただけで」
「…もう、いいです。それ以上、それ以上は、分かりましたから…」
生物として大事なものが抜け落ちて行っているとしか思えない晴れやか過ぎる表情をさらすベムを、そっと制止する風矢。
なんだか色々あったらしい彼らの旅を詳しく聞きたい気もするが、同じくらい後悔する気もしたのだ。
それよりも、今は気にしなければいけないことがある。
「…それに、家も色々あったんですよ。やつれたと見抜くなら、気づいていますよね?」
「こういう時メーがいないのはおかしいし。マスターが目に見えて沈んでるし。分からない方がおかしい」
「…そんなに沈んでますか。気づきかねましたよ」
それが当たり前なっているかのような暗い顔をしているのが多かったから、気付かなかった。
「……なにがあったのか分かる?」
「とりあえずあの単細胞が磨智さんを避けていますね。…いえ、お互い避けてるんですよ、6日前から」
「ふぅん…案外早かったね」
予想以上に軽いその言葉に風矢は顔をしかめる。
「…ベム。君。もしかしてこれを狙って緋那さん連れ出しましたか?」
「それより、いくつか小屋に入れる荷物があるから手伝って。…続きはそこで」
「…わかりました」
渋々と大量の木材を半分持って裏庭へ回る。
談笑していた彼女達の方も、家に入り改めて話をすることにしたらしい。
「…こんなに買い込んで小屋でも作る気ですか」
「それもいい。でもベンチの次はテーブルだと思う」
「…どこまで行くんですか。君は。
…いえ、それはいいんです。それで、続きは?」
急いた口調の風矢に構わず、あくまでマイペースに、要点だけ絞ってベムは言った。
「提案したのは僕。乗ったのは彼女。僕は半日くらいのつもりだった。
緋那の旅の間一番多く口に出した言葉は『磨智』だね。少し哀しいけど僕はそんな緋那が好き」
「……あなた方が家を出る前に、なにかあったんですね!?」
「声、大きい」
淡々と制されて口を閉じる風龍。
その眼はどこまでも不満げに問うてくる。
なぜ僕には一言も話してくれなかったのかと。
「…僕はよく分からない。緋那が相談してきたから、メーと磨智の現状だけは打破できるようにと考えて動いた。それだけ」
「…そうですか」
それだけ―――と言っても。彼にとってはこれ以上ない至上の理由だろう。彼女が頼ってきたなら、それは己の手で解決したいと思うのかもしれない。他の者に相談、なんて浮かばないのも無理はない。
ちらりと窓をのぞくと、楽しげに談笑する影が3つ。
その光景がひどく歪なものに見えて、彼は静かに息を吐いた。
その後、なんとなく外をふらついていた光龍が帰宅したのは、ちょうど地龍と主が検索へ出掛けた頃。
計ったようにすれ違って、彼は126番地の家の扉を開けた。
居間に足を踏み入れ、そこにいる赤髪の少女にふっと目を向ける。
「…ああ…おかえり」
「ああ、ただいま…って今は逆だな」
そう返して、緋那は気付く。
こちらを見て笑う彼の表情が、ひどく精彩に欠けていることに。
顔だけではない。今の彼は、すべてがどこかおかしい。
「…なにかあったか?」
思わず洗い物の手を休めて問いかける。
「別に、なにもねぇよ」
間髪いれず返った言葉は、明らか過ぎる嘘。
そのことをますます怪訝に思いながら、緋那は声を強くする。
「どうしたんだ? どう見てもお前はおかしいぞ」
「……なんでもないよ」
見えすいた嘘でも、付き通せば真相を誤魔化す手段くらいにはなる。
そのことを意識しているのかいないのか、メーはただ曖昧な表情で首をふる。
ならば。その態度を崩さずにはいられないくらいはっきりと問い詰めてやればいい。
「磨智となにかあったのか?」
そう言った途端、メーの顔から曖昧な笑みが消えた。
一切の表情を消し、ただ緋那を見つめてくる。
居間を満たす不自然な沈黙。
それを破ったのは、感情の抜け落ちた声。
「……………泣かせた」
「は?」
告げられた声に、緋那は一瞬すべてを忘れた。
今まで見たこともないくらい生気を失った彼に対する違和感も、磨智に対する罪悪感も、心配も、すべて。
「………なんで、泣くんだ………」
どこまでも虚ろに呟くメーに、やっと我に返る。
胸の底から湧きあがってくる感情を抑え、緋那は続ける。
「そうか、泣かせたのか。どうして、とは…訊かないでおいてやる。
…で、お前はどうしたんだ」
「…どうした…?」
メーは笑う。
どこか壊れたような、不自然な表情で。
向かい合う彼女の拳が震えていることに、気付かないまま。
「なにか…してたら、こんなことになってないだろ…
なにも聞いてないから…どうしよもねえよ」
「なにも?」
「……ああ」
肯定の言葉が吐き出されると、緋那はキッと眼差しを険しくした。
しばし迷って、躊躇いを捨てる。
「歯ぁくいしばれ」
「……?」
光龍がその低い声に応じるより早く、居間に響く鈍い音。
「…っう、歯ぁくいしばれって言ったら顔だろ! なんで腹なんだ!」
「黙れそんなことはどうでもいい。
…お前それで黙って放置してたのか、今日までずっと、そのままでいたのか…!?」
緋那は息を荒くして床に転がるメーを睨む。
常日頃愚痴や文句こそ多いが、温和な性質の彼女が、本気で怒っている。
メーは蹴られた腹を抱えながら、その珍しさを重々承知で言う。
「…俺は、泣かせたくて泣かせたわけじゃ…」
言い切るより早く再び乾いた音が響く。
1度目とは違う乾いた音。2度目に飛んできたのは平手。
「…お前は、どこまで…!」
言葉をつまらせる彼女を間近にしても、メーには遠い出来事のような気がした。心に響いてこない。
ただ、あの時の磨智もそんな風に苦しそうだったとそれだけを思う。
じっと見つめ返すだけの彼に焦れたような顔をして、緋那は吐き捨てるように言う。
「…お前だ」
「え?」
「あの小汚い花束の贈り主はお前だ」
それは。今までの会話の流れをまるで無視した話。
だが、これ以上なく確信なのだと、本能で理解する。
同時に記憶をたどり…困惑が言葉になってもれた。
「ちょっとまて、俺、あんなん、贈った覚えは…」
「お前が忘れていてもそれが真実だ」
緋那は、声に精彩こそ取り戻したものの、ひどくうろたえた様を見せるメーを睨む。
なにがここまで悲しくてやるせないくて腹立たしいのか、よく分からないまま、見据えることしかできなかった。
「お前は忘れた。磨智は覚えていた。だから悲しい。それだけだ」
吐き捨てた緋那は玄関へと歩く。
「しばらく…考えろ。
…お願いだから、あいつがなぜ悲しんだのか、考えてやってくれ」
冷たさをまとおうとして失敗したらしい声を残して、彼女は扉を開けて外へ歩いて行った。
その姿をぼんやりと見送ってから、メーは半端に起こしていた体を床に横たえる。
彼女は、自分が昔のことを覚えていないから怒っていたのだろうか。いや、悲しかったのだろうか。
―――なぜだろう。自分が物覚えの悪いタチなのは彼女も知っているのに。
あの日から続く奇妙な熱に浮かされるように、彼女の名を呼ぼうとした。すると、口腔に血の味が広がる。受け身もとらずに吹っ飛ばされたため、その拍子に切れたのか。
そんなことを思って頬に手を添える。平手で打たれた場所は熱を持っているようだ。
痛いとは思わない。ただ、こんな風に傷を負ってそのままでいるなんて珍しいことだと思う。
ドラゴンペンストで軽い怪我をすることもあったし、日常で怪我をすることもあった。それでも今までそんなことが少なかったのは、彼女がいてくれたからだ。
しょうがない、よわっちい、ヘタレだ、そんな風に馬鹿にして、敬え、恩に着ろ、そんな風に大袈裟に胸を張って、女顔だとかデリカシーがないとか、そんな関係ないことの果てまで口に出しながら、彼女が治療してくれるから、怪我がそのままあることなんてなかった。
「…………」
口の中で小さく名を呼ぶ。広がる血の味は苦かった。
謝りたい気がした。謝ってもう一度、元の関係に戻りたいと思った。
けれど謝るべき理由が分からない。どうして傷つけたのかが分からない。―――分かりたくない。
それを暴いて何かが変わるくらいなら、このまますべてを終わらせたい気がした。そうすれば、自分は変わらずにいられる。変わらないでいたい。変わりたくなんてない。
「俺は………」
それだけだったのに、小さく呟く彼の頬にひやりとしたものが触れる。
「…なにがそれだけなのかは知りませんが。
ここで寝られては迷惑です」
「風矢…」
差し出されるまま氷袋を受け取り、メーは彼に不思議そうな目線を向ける。
「……あなたがへこむと色々と私の人生に不都合が生じます。
顔、かしてくれますか? こんなところで話すのもなんですから、私の部屋に」
淡々と無表情で言う風矢に、メーは小さく頷く。同意を得るなり背を向け歩き始める背中をぼんやりと見つめる。
背を向ける一瞬、ひどく無気力じみた表情をさらすメーに、彼が苛立たしげな表情を浮かべたことに、気付かないまま。