がらがら。ぐしゃぐしゃ。
なにかの崩れる音はそんなものだと思っていた。
けれどその時、響いた音は。
ぽたぽた、ぱたぱた。
濡れた音を響かせて、すべてを崩していった。
胸に降る雨
結局馬車の最終便で帰宅した磨智は空を見上げる。
馬車の出発も危ぶまれた激しい雨はすでに止んだ。
それなのに、なぜだろう。
心の中で、水の気配がする気がした。
湿っぽい気分を入れ替えるように頭をふる磨智。
そしてにっこりと笑って扉に手をかける。
「ただいまー」
「磨智! お帰り!」
扉を開けるなりかけよってきたのは、かなただった。
リビングには他の姿がない。―――いつもこの時間にはそれぞれの部屋に引き揚げているので、当然だ。
それは彼女も例外ではないはずなのだが、待っていてくれたらしい。
主人は今まで見せた中で有数のいい笑顔で、ほっとしたように息をついた。いっそ抱き付かんばかりの様子で、良かった、と繰り返す。
「…マスター、もしかして、心配した?」
「過保護だなあ、みたいな目でみないでくれると嬉しいな。自覚あるし。
強制的に召喚しようとしないあたり、理性残ってたと思ってほしい。
それにしても…良かった…」
「…マスター。私、龍なんだよ? 契約も結んでるから、仮に誘拐されても召喚石経由で帰ってこれるし。ヒトより丈夫にできてるよ?」
「う。ごめん。
いる場所が分かってるなら…つーか朝町の中なら、帰り遅くなろうが外泊しようがいいんだけどさ、川が増水してる話聞いたから心配でー。地龍は本当なんであんなに泳げないの? どっかでおぼれてたらどうしようかと思った…」
「…そっか、ごめんね。でも私、そんなに間抜けじゃないよ」
笑顔の主人に磨智も微笑みを返す。
胸の中での冷めた囁きに耳を塞ぎながら。
ああ、本当に。私が悪いことしたみたいじゃない。
胸の奥にまた一つ、冷たい滴が落ちた気がした。
地龍の内心を知らず、主人はなおも笑う。
「まあ、ともかく。疲れたでしょ? 早くお風呂使ってきな。さっきメー君が出たとこだし。
そうそう、一応あの2人も心配してたから、一声掛けてあげてね」
あの2人。いとも無造作に告げられた言葉に、笑みを浮かべて頷いた。
それがこわばっていないことを、心から願いながら。
「さて………」
入浴後、主人としばらく話したあと、風龍に軽く帰宅を伝えた磨智が小さく呟く。
目の前には、メーの部屋がある。今一番顔を合わせたくない相手がいる。
明かりがもれているのだから、まだ起きているらしい。珍しいことだ。
なら、一言声をかけた方がいい。風矢にはかけた以上、彼だけ無視してしまっては明日文句を言われることになろう。
だから、早く済ませてしまえばいい。たった一言『遅くなったけどただいま』と、そう言ってしまえば終わる。
それだけだと自分に言い聞かせながら扉をノックする。
「磨智?」
間髪入れず出迎えた彼は、どこかほっとしたような顔をしていて。
心配されたことが分かるから、彼女はいたたまれなくなる。
「うん、磨智。遅くなったけどさっき帰ったよ。ただいま」
用意した通りの言葉を告げて、すぐにでも自室に帰ろうとした。
だが、彼の口から飛び出た言葉が、その足を固まらせた。
「心配かけさせるなよ」
「心配ぃ? 君もしてたわけ? 私そんなにか弱くないよ?」
「そりゃお前は図太いし図々しいし面の皮厚いけどさあ」
「うふふふふ、女の子に向かってなんて口きくのさ、君」
ぎゅーっ、と頬を引き延ばす。
口をぱくぱく動かし抗議の声を上げるメーが本気で痛そうな様子を見せてから、その手を離した。
「てめぇで言ってるじゃねえか。お前女だぜ?一応生物学上は女ってことになってるんだからさ、心配だろ」
まだ痛みが残っているのか、頬を擦りながら言うメー。
当たり前のことをいうかのように、軽く。どこまでも普通に言い切られた言葉に、磨智は笑みを深くする。
そうでもしないと、泣いてしまいそうだと思った。
早く帰りたい。取り返しがつかなくなる前に、早く。
彼女の想いに反し、彼の言葉は続く。
「それと…お前、最近へこんでるだろ?」
「……はあ?」
大袈裟なほど目を見開く磨智。
「………どうしてそんなこと言うの? なにを根拠に」
「そりゃ…それなりに長い付き合いだしな。お前はいつも馬鹿みたいに元気だから、分かりやすいし」
メーは苦笑する。
向かい合う彼女の声に交じる冷たさに気づかぬままに、いつものように。
「…まあ…」
まあ、そうだね。
君に心配させるなんて情けないなあ。
磨智はいつものようにそう笑い飛ばそうとした。
けれど、奇妙にもつれた舌が吐き出したのは全く違う言葉。
「…馬鹿なこと言わないでよ」
「てめ、誰が馬……」
メーは言い返しかけて、やっと気づく。
いつしか俯き、長い髪で表情が隠れた彼女が、ひどく頼りなく見えた。
「磨智?」
名前を呼び、手を伸ばす。顔を上げさせようとした。
「…馬鹿なこと言わないでよ」
だが、その手は冷たい声に制される。
こんなにも近くにいるのに、触れられない。
「君に私の何が分かるの。…なにを見ていてくれたというの」
磨智は笑う。笑いながら、メーの衣服を、正確にはその中身を力任せに引き寄せる。
私が何をしたって、すぐに流されてしまう、忘れてしまう、そんな君が私を見てくれたことなんてない。
君と私の付き合いなんて、意味のない薄っぺらなものだったくせに。
一度も私を見てくれたことなんてないくせに。
君が見ているのは私ではなく、同じ召喚石にいる無意味な同居人でしかないのに。
どんなに気にかけたって、その瞳はいつだって私以外に向いているのに。
つい先ほど手酷く引き伸ばした頬に細い手を添る。荒れ狂う心と裏腹な、穏やかな動作。そして、怪訝そうな彼に、ゆったりと笑いかける。
ようやく綻ぶ花のように蠱惑的に、雨の中一人立ち尽くすように冷たく。
そんな風に微笑む彼女の耳に、上ずった声が届く。
「磨智…!?」
唇を重ね合わせるような距離に顔を近づけられ、顔を強張らせているメー。
その顔は、紅潮するのではなく、蒼ざめている。
そのことに気づいたから―――磨智はわずかに顔をそらした。
「……君なんて」
苦しげな言葉は続かない。
大嫌い? 大好き? 憎んでいる? 愛してる?
どれを紡いでも嘘にはならない。どれを紡いでも相応しくない。
「君、なんて……」
彼女はぎりと歯を鳴らす。
その音が、彼にも届いた。
だから。
「磨」
磨智、と名を呼んで、顔を見ようとした。全身の強張りをといて、もう一度手を伸ばそうとした。その刹那。
「……え?」
彼の頭の中が真白く染まる。
頬に柔らかい感触を感じた。
密着することで間近に感じるさらりとした髪。その香り。己とは違う体の柔らかさと、感触。
そして、それらすべてを吹き飛ばすような、冷たい滴の感覚。
「メー君は……本当、馬鹿だね」
一瞬の接近に声もなく固まる彼に、彼女は俯きながらそう言った。
「本当…馬鹿だよ」
震える声でそう言って、とん、と光龍を突き飛ばす。
顔を合わせぬまま、突き飛ばす。
「私、帰る」
「ま……!」
メーがなにかを言おうとするより早く、ぱたん、と扉が閉まる。
頬を抑えたまま崩れるように床に座り込んだ彼は、真っ赤な顔でしばし何事か呟いて…パタリと倒れた。
「………なんで………」
呆然と呟く。
体が熱い。外の熱気に感じる不快感とはまるで違う、体の奥底からの熱に目眩を覚える。
「………んで、泣くんだよ………?」
床に倒れ込んだ彼の中で、これ以上なく間近で感じた体温よりも、頬に口づけられたことよりも、触れあった皮膚に感じた涙の感覚だけが心に残って。
いつまでも消えなかった。