誰かのため。誰かの所為。それはどちらも同じ嘘。
 誰かのためと謳いながら。
 誰もが皆自分のために生きてる。
 それはいけないことですか?
 哀れまれることですか?
 答えなどあるのでしょうか?

捻じれた螺旋

 ある町の一角に高くそびえ立つ時計台。煉瓦で作られたそれはそれなりの美しさと正確さで人々に親しまれ、それなりの視線を受けている。
 だが、その頂上までじっくり見る者は少ない。見たとしても、人間の目でその姿を捉えれるか否か。答えは後者。
 そのため、彼女の存在に誰も気づかぬまま、人々は各々の目的地に向かっている。
 そこには幾人もの人がいた。けれど、じっと街並みを眺める少女に、誰も気づいてはいなかった。

「…あったかい」
 時計台の鐘に隠れるように腰を下ろした磨智は、今日の気温への好意的な解釈を唇に乗せてみた。
 病は気から。心頭滅却すれば火もまた涼し。暑いと言っているから暑くなる。ならば、と呟いた言葉。
 それでも、額や首には汗の気配。
「…暑い…」
 正直な心を吐き出してみた。当然、なにも変わらなかった。
 磨智は正直参っていた。
 暑さだけなら、まあ耐えられる。だが、湿気を含んだ空気はじっとりと肌にまとわりつくようですこぶる不快だ。
「ああもう…っ」
 気晴らしに出かけ、登った場所だと言うのに、一層苛立ちが募る気がする。
 磨智は高いところが好きだ。
 地龍である彼女が気持ちを落ち着け、力を発揮できるのは地上だが、皆の気付かないうちにすべてを見渡せる位置へ身を置くのも楽しい。長いこと飛ぶことはできないけれど、休み休みに羽ばたいて、こんな風に高い建物に登るのがいい。
 そのことを知った某光龍が『煙と馬鹿と高いところが好きなんだよな…』とか洩らして全力で埋められたことは、まあ、微笑ましいエピソードである。
 微笑ましいくないだろうなどと突っ込んではいけない。彼女の今の心情から比べれば、実に微笑ましいのだから。
「暑いのが悪いんだよ、全部!」
 立ち上がり叫ぶ磨智。
 その声になんの答えもないことに一層苛立って、雲で隠れがちの太陽を睨んでみる。だが、空しくなって再び腰を下ろす。
 そうして、再び街行く人々を見つめる。
 ―――みんなどこ行くんだろ。
 彼女は昼過ぎからかれこれ随分長い間ここにいる。
 その間ずっと見つめている遥か下方の町並みには、常に人の姿が絶えない。
 最初は、彼女の住む町との違いを見つけて楽しんだりした。だが、それにも飽きると不思議になってくる。
 ここを歩む人々は、皆どこへ行くのだろう。
 こうして考えている間にも、ある者はのんびりとある者は駆け足で、何人かが磨智の視界から消えていく。
 彼らのその後など彼女には全く分からないし、興味もない。ただ、無性に不思議なのだ。
 ここにいるものは皆、行き着く場所があるのだろうか。
 心から望んだ居場所が、あるいはこれから獲得したいと願う場所が、皆あるのだろうか。
 もしくは、望まぬままに拘束される場所が、生活のために繋がられる場所があるのだろうか。
 世界にはこんなにもヒトがいるのに、その分だけ居場所が用意されているのだろうか。
 そして、自分は。どうなのだろうか…………
「…くだらない」
 磨智は顔をしかめる。
 吐き捨てた言葉に宿る怒気に、一層表情を険しくした。
「……」
 自分はいつからこんな卑屈な考え方をするようになったのだろう。
 自分は―――どうして、友人の変化一つでなぜここまで心を乱されているのだろう。
 その答えは知っている、けれど―――今はそれを思い出すことすら苦痛だ。
「馬鹿みたい…」
 呟いてから頭をふる。
 みたい、では済まされない。どうやら自分は思っていた以上に馬鹿だったらしい。
 こんな時、いつも傍にいてくれた彼女はいない。
 そのことがとても悲しい。けれどどこかで当然だと頷く自分がいるのも確か。
 きっとこれは当然の結果。
 彼女には彼女の幸せがある。それを磨智といることではなく、彼と共にあることに求めるなら邪魔はしたくない。
 彼のことが嫌いなわけでもないし、口で言うほど頼りないと思っているわけではない。ただ、今までずっと当たり前だったものを攫っていかれるようで、不愉快ではある。
 否、『ようで』ではない。事実、攫っていかれた。
 今回は一週間。
 だが、いつか、その期間が永遠になることも絵空ごとではなくなってきているのだろう。
 磨智には分かる。彼女の隣にずっといたのは自分なのだから。
 彼女も対外曖昧な態度が過ぎる龍だったが、あれは不安から来るものだ。
 彼女は先日の家出騒動で散々考えて悩んで、結果を出した。はっきりと恋だ愛だと辿り着くことはないが、希望の欠片もないなら、迎えにいこうなど思わない。
 きっと主人に頼んで召喚石経由で帰還を訴えるだけだったはずだ。嫌いじゃない、帰ってきてくれ、とそんな風に優しく軽く言ってしまえたはずだ。
 言葉にするのを躊躇うのは、それが慣れない感情だから。言葉にできないから、今必死に歩み寄ろうとしているのだろう。
 緋那は優しい。融通は利かないけれど、優しくて誠実な彼女だから、あそこまで言われて曖昧な優しさなど与えない。
 彼とは、違う。
「………馬鹿だなぁ」
 小さな唇からクスリと自嘲の笑みが漏れた。
 どうして彼女のことを考えていたのに、彼のことに思考が及ぶのだろう。
「本当…嫌に、なる…」
 笑い飛ばして空を見上げる。
 先ほどより雲が増えたように思える。湿気も増してきたし、雨の気配が強くなっていた。
 今にも泣き出しそうな、憂鬱色の空。そこに溶ける声も、泣きだす寸前のように憂鬱に染まっている。
「……嫌、なんだよ…」
 もうこんな気持でいるのは嫌だ。
 彼のことなんてもう好きでも嫌いでもないのに、振り回されることにうんざりした。
 ―――思い知ったのだ。
 磨智があんなにも嬉しかったことを、彼は全く覚えていない。
 大事に大事に繰り返し、捨てることを忘れてしまうくらい思い返していたのは彼女だけ。
 だから、もう、やめるのだ。彼のことを気にして、恨みがましい気持ちになるのはやめる。
 これでは、彼のことが好きなようだ。思慕しているようだ。
 そんなことは違う。
 磨智は彼が嫌いでも好きでもない。なんでもない、特別な感情など微塵もない存在なのだ。

 好かれるなら、一番がいい。特別な存在として選ばれたい。
 それが不可能なら、道具として使い潰された方が幸せだった。

「……そう、すれば」 
 半端な希望をちらつかせたりされなければ、期待なんてしなかったのに。
 道具だと言ってくれたなら心なんて潰せたのに。

『磨智ちゃん?』

 一瞬、息が詰まった。思わず背後に目をやり、その無意味さに頬を染める。
 鼓膜を震わせるのではなく、脳に直接伝わるようなその声は、召喚石を介した主人の声だ。
『磨智ちゃん? 聞こえてる? え、なに、雨降りそうだと接続が悪いの!?』
「マスター。天気はなにも関係ないよ。ちゃんと聞こえてる」
『あ…なんだ。びっくりしたよ。だって君いっつもだったらすぐ返事くれるからさあ』
「ん、かもね。ごめんごめん。ぼんやりしてたの」
『そう。…邪魔してごめんね?』
「別にいいよ。
 それで、なんの用?」
『あ、そうだった。そろそろ帰ろうって風矢君が。
 お目当てのケーキも買えたからってせっかちだねー。せっかく朝町の外に来たのにさぁと思ったんだけど。
 雨降りそうだから帰ろう』
 磨智は僅かに頷く。その仕草が示すのは同意ではなく納得。なるほど、彼女達はもう目的を達したのか、と頷いた。
 そもそも。今日家を出てここに来たのは、彼女と彼が限定のケーキが食いたいとか言い出したからだ。
 磨智は特に用事はなかったのだが、ついてきた。
『夏風邪ひいたら大変だよ? しつこいんだから』
「んー……」
 かなたの心配そうな声を受け取り、じっと目を瞑る。
 確かに、雨は降りそうだ。もって1時間、あるいはもっと早い。
 けれど、今、家に帰れば―――
「ごめん、マスター。私、もう少し見て回りたい」
『え? …まあ、しかたないね。なら適当な喫茶店で時間つぶすから、終わってから―――』
「先に帰ってて? 私が後からついてきたんだもん、待たせるのは悪いよ」
『…私は別にかまわないよ?』
「風矢君はかまいそうだけど。」
『…かもだけど。そんなことしたら家に帰る足なくなっちゃうじゃん』
「定期便乗って帰る。お金あるから心配しないで。
 よく行くお店でね、タイムサービスだあるんだって」
 なおも続くかなたの声を磨智は笑って受け止める。それは、いつも以上に明るい声。
 朗らかに明るく。それが自分なのだと、自分に言い聞かせるような声だった。
『……まあ、君がいいならいいよ。
 気をつけてね?』
 かなたの声から憂いの色は消えない。だが、磨智のついた嘘に気づいた気配もない。
「うん、だいじょーぶだよ。マスターに心配されちゃお終いだって」
 フフフ、と笑えば、失礼な、と声が返る。
 じゃあ本当に気をつけて。
 そう言ったきり、かなたからの意識は途絶える。
「……」
 磨智は小さく溜息をついてから、震える唇をぎゅっと引き締める。
 ―――家に帰りたくないわけでない。
 ただ、彼と顔を合わせたくない。ましてや2人きりなど冗談ではない。少し前まで当たり前だったことが今は奇妙に辛い。
 緋那は。
 家から2人も抜ければ、磨智と彼が2人きりになる機会は避けられない。増えるはずだと思った。
 だが、炎龍が思っているよりずっと彼女は追い詰められていた。同時に、彼女が思うよりずっと冷静だった。
 こんなことは今に始まったことじゃない―――から。
「…ああ…もう」
 磨智は小さく呟く。
 なんの意味もない言葉をただ吐き出して、じっと目を瞑る。

 居場所がないと思っていたころがある。
 だからそれを与えてくれた彼女が大切だった。どこにも行って欲しくなかった。一緒にいてほしかった。
 けれど、ちゃんと気づいていた。
 彼女はいつか“このまま”を厭うだろうと。その関係の孕む不毛さに気づいてしまうだろうと。

 どうして、自分は駄目だったのだろう。彼女が離れていくのだろう。
 同じように、不毛な関係を崩さぬまま笑っている彼らがいるのに。

 螺旋のようにぐるぐる廻り、答えなどでないまま消えるはずだった感情があふれてくる。
 ぐるぐると廻った分だけ、ねじ曲がってしまった想いが胸に圧し掛かった。
 ぎり、と奥歯がこすれて音を立てる。
 悲しいのか悔しいのか。それとも別の感情か。
 もう、磨智はそれすら考えたくなかった。

 この後。
 彼女達の住む地域に激しい雨が降った。
 辺りを崩さんとばかりの激しさで降りしきる雨は夜間まで続き、嘘のように止んだ。
 そして。
 126番地の地龍が帰宅したのは、日付が変わった頃だった。

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