桜が咲いたら迎えに来ます。
この桜が、満開になったなら。
女の手をとり告げる男に、女はにっこりとほほ笑んだ。
花の下にて君を待つ
―――桜が咲いたら迎えに来ます。
そう言って彼が遠くの町へ旅立ったのは、もう、何年も何年も前のこと。
―――この桜が、満開になったら。
彼が指差したその時、苗木だった桜は、今、私の頭上で美しく咲き誇っている。
何年も何年も、数えるのを止めてしまったくらい錆ついた約束は、果たされていないまま。
彼と二人で植えた桜は、今日も美しい。
桜の木の下には死体が―――なんていって、脅かしてきた彼。彼にいってやりたい。桜はそんなものじゃ咲かないわ。真心とこまめな手入れ。それに応えて美しいのよ。どんなものだって、そうなんだから。私だって、そうだったのよ? あなたが綺麗って言ってくれたから、そうなれるように頑張ったんだから。それって、すごく大変なんだから。
ねえ、あなた。
今の私はしわくちゃのおばあさんになってしまったもの。綺麗なんていってくれないかしら。
でも、私はそのことを嘆いちゃいないわ。
だって、ねえ。そうでしょう? あなたを待っていた年月の証。私らしくあった証を、なんで嘆かなきゃいけないの?
私はちっとも後悔していない。周りには、色々言われたけどね。馬鹿らしいとか、もう来ないとか。そう、一番多かったのはね、あなたに騙されてる、っていう忠告よ。
おかしいわよね。おかしいわよ。だって―――私は。
私はあなたが私を騙そうと近づいたって、ちゃんと知っていたもの。
あなた、自分で思ってるより演技が下手くそよ。お金目当てなの、すぐ分かった。それに腹が立って、馬鹿にしてやるつもりで、付き合っていたんだもの。
でもね。だんだんと。あなたはお金の話なんてしなくなった。まったく、騙されそうになっちゃったじゃない。
ああ、違う。騙されてもいい。そう思って、しまったんだわ。
―――桜の下には死体があるんだよ。だから美しい。だけど君は美しい。足元に死体なんて、あるはずもないのにね。
訳の分からないことを悲しげに言うあなたを、愛してしまっていたんだもの。愛しているんだもの。
春には、一緒に桜の下を歩いた。そっと添えられた手と、紅潮している頬がおかしかった。夏には二人、汗まみれになった。お互い煽ぎ合う午後のくだらなさといったらないのに、笑いが止まらなくなった。秋は、ただ身を寄せて過ごした。寒くなって来たね、いいえ、まだ暑いんじゃない? そんな軽口をかわしながらに。冬は、手を繋いで歩いた。添えるのではなく、強く強く握りしめて。お互いを見失わないように、そっと。
彼と過ごした一年は、あっという間に過ぎて。
ふわふわとした幸福は、現実感すら失わせたけれど。
―――この桜が、満開になったら。
君を迎えに来ます。
迎えに来て、一緒に暮らしたい。一生、一緒にいたい。
その言葉にこもった熱が、握りしめられた手が、全てを現実だと知らせた。
私は黙って頷いた。
なにか一言でも喋ったら、嗚咽に代わる。
そんなのは嫌だった。どうしても嫌だった。だって、しばらく会えないのだから。覚えておいてほしいのは、泣き顔より笑顔だった。
ねえ、あなた。あなたがなにをしようとしていたのか、知らない。でもね、きっと、長い時間がかかるのでしょう? だから、あんな。実現が遠い条件をつけて。私に諦めさせようとしたのでしょう?
あなた、自分で思ってるより、嘘が下手くそなんだから。騙そうとしたって、無駄なんですからね。
私は、やっぱり。あなたに騙されてなんてやらないわ。
黙って、いつまでだって待ってやるんだから。少し怒ってるんですからね、下手くそな嘘で、私を試して。
でも――――でも。
「…もう、怒ってないわ」
成長した桜の木を撫ぜる。まるで年輪のように皺が刻まれた手のひらは、ただあなただけを待っているから。
「…だから」
どうか迎えに来てね。愛しいあなた。
―――桜が咲いたら迎えに来ます。
そう言って彼女と別れたのは、もう、何年も何年も前のこと。
―――この桜が、満開になったら。
その言葉は、こめた愛情は、決して嘘ではない。
それでも、なあ。気付いただろう? 君には、いくつも嘘を重ねていたんだ。
それなのに、なぜ。
それなのに、なぜ…………
「待っていてくれたんだ?」
問いかける。答えはないと分かっていても、何度も。
何度も繰り返して、彼女の手を握りしめる。
数年前病に倒れたのだと言う、彼女の手の平を。
なぜ待っていたんだ。あんなくだらない約束を信じて。なぜみきらなかったんだ。君なら、いくらでも他に相手がいただろう?
すねたように訪ねてみても、答えはない。1を訪ねれば10を答えた彼女なのに。滾々と眠り続ける。
たまに目を開けても、こちらを見てにっこりと笑うだけ。そんな顔じゃ、分かっているかも分からないかも、伝わらないじゃないか。俺は野暮な男なんだ、そう知っていただろう?
なあ、なあとくりかえす。それでも、彼女は目覚めない。
なあ、なあ。困ったように囁けば、しょうがないわねと我儘を許してくれた昔には戻れないのだと、示すかのように。
もっと早く来てくれればよかったのに。
彼女と懇意にしていたらしい娘に、そう告げられた。
ずっとずっと待っていたから、大して違いなかったかもしれないけどさ。
最初は、彼女の孫だと思った。素直に伝えればひっぱたかれたが、そう思うのが自然だろう。
この人はね、昔からこの桜の木を大事に大事に育てて、その下を通る子供達に優しいあいさつくれてさ。それだけの人だけど、すごくすごく綺麗だった。
待ってるんだって、言ってたよ。この木を一緒に植えた人を、ずうっと。
ああ、それが俺でなければ。笑い飛ばしていたところだよ。
本人としては、愚かな約束を取り付けた自分を恨むだけだったが。
なぜあんな、果たせる確率も低い約束を取り付けてしまったんだろう。
答えはただ一つ。愛していた。だけ、だけど。
愛していたんだ。この上なく。
それでも、このまま一緒になることなんて、できなかった。
だって、君、気付いていただろう? 俺は君の金が欲しくて近づいた。両親の遺した家を守るために日々懸命に生きて稼ぐ君の金をかすめ取るつもりで、近づいた。
そうして何度も女を騙して生きてきた、薄汚い男なんだ。愛してる、恋してる。それを金銭を稼ぐためだけに囁き続けてきた男なんだよ。
だから、君と一緒になるなんて。できるはずがなかった。
愛している。そんな言葉さえ、俺が口に出せば薄汚れてしまって。君を汚すと思っていたんだ。
それなのに、離れられなかった。馬鹿だよな、君をだませない時点で、とっとと逃げてしまえばよかった。そうして次の得物でも見つくろっていれば、良かったのか? そうすれば、あんな馬鹿な約束をしないまま。君と離れた道を行ったのか。
―――いや。
『良かった道』など、君と俺の間にはなかったのかもしれないな。
あまりに違っていたから、どうしよもなかったよ。
どうしよもなかったのに――――夢を、見た。
彼女と同じ道を歩くと言う、夢を。
だからね、償おうと思ったんだ。罪を。今までのこと、全部警察に話して。当然檻の中。新聞にも出たらしいけど、ちっぽけな詐欺師の記事なんて、活字嫌いの君の目にははいらなかっただろう? 君に教えた名前だって、偽名だったしね。
でもね、思ったんだよ。何年かかるか分からない。それでも待っていてくれたら―――その時は、と。
愚かな夢だと分かっていた。分かっていたけれど、見ずにはいられなかったんだ。
そうして、君を巻き込んだ。その結果がこれなのか。
君の隣で見る桜は美しかった。何度も同じようなことをしてきたのに、手が触れるだけで気恥ずかしかった。君と共に過ごす夏はひたすらに熱かった。肌ではなく心が、焼けてしまいそうなほどに。君を抱いてすごす秋は狂おしかった。離れたくないと願ってしまうほどに。君と別れる冬は冷たかった。冷たく凍えて、砕け散ってしまえばよかったのかもしれない。
君を独り待たせて、病魔に倒れる姿に迎えられる。
そんな未来に繋がるくらいなら、幸せに孫に囲まれる君を見る方がましだ。穏やかな旦那を大事にしちゃったりしてさ、俺のことなんて覚えてなくて。それでも良かったのに。
良かったのに、本当。君って俺の意表をついてくれるよ。
騙されやすいお人よしだ。君に惚れこんだ俺じゃなきゃ、骨までしゃぶられて身ぐるみはがれてたよ、君、なんて。
下手な嘘を見抜くように笑ってるくせに、あえて騙されてやるような、お人よしなんて。
彼女の手を握る手に力を込める。
長い獄中での生活で、身体は随分と衰えたが。規則正しく生きてきたのだ、そこまでひ弱でもない。
それでも、こんな力では。
目覚めてくれないのか、君は。
「…愛してるよ」
なあ許してくれとは言わないから。
どうか笑ってやくれないか。
「愛してる」
罵ってくれてもいいんだ。君が望むなら。
小さく、彼女の名前を呼ぶ。愛している、愛している。そう繰り返しながら。
長い時間がかかったよ。それでもたどり着いたんだ。やっと帰れたんだ、君の隣に。
だから、どうか。だから―――
「答えて」
どうか答えてくれ、愛しい君。
ある家の廊下、1人の少女が歩いている。
この家の女主人と少女は、たまにぽつりぽつりとあいさつを交わすだけの存在だった。
それが家を訪ねるような仲になったのは、女主人のある一面を知ってしまったため。
塀からひょっこりとのぞく、美しい桜の木の持ち主である彼女が、その桜に呼びかけ、切なげに微笑むのを見た所為だ。
桜に語りかける姿を見られた彼女は、恥ずかしそうに笑った。
けれども、どうしてと尋ねる少女に、丁寧に説明してくれた。
待っている人がいるの。
その待ち人との日々を聞くことが、少女は楽しかった。
そうしている時の女主人が、この上なく幸せそうだったからだ。
そんな日々が、いくつかすぎて―――終わりを告げざるおえなくなった理由は、女主人が病魔に倒れたこと。
一命を取り留めた女主人は、それでも日の殆どを眠って過ごすようになり―――その眠りが、深くなってきた、一年後。
それなりに齢を重ねたであろう男が現れた。
若い頃はさぞ甘く整っていたであろう顔を緊張に歪ませた男は、女主人の桜を見てぼろぼろと泣いていた。
そのことに驚いた少女が声をかければ、男が問いかけた。ひどく、痛みをこらえるような顔だった。
君は彼女の孫かなにかかな。
その言葉に、表情に。この男が待ち人だと、すぐに分かった。
思わずひっぱたいてしまったが、きっとあの女主人もそうしたはず。自分は悪くない。そう思っている。
そうして―――
全てを知った男は、女の隣に寄りそっている。
優しく外の風景を語りながら、それ以上に甘く優しい声で言うのだ。愛してるよ。と。
女主人の寝室へ繋がる扉を開ける。
今日も、そんな光景が繰り広げられていると思っていた。
けれど。
目に飛び込んできたのは、女主人の手を額に押し付け、眠る男の姿。
明るい寝室に響くのは、2人分の穏やかな寝息。
和やかな光景に、少女は目を細める。だって、あまりに幸福そうで。邪魔してはいけないと思った。
くるりと背を向け、少女は台所へと歩く。男が起きた時、食べれるようなものを用意しておこう。
女主人は食べ物をとることはできないけれど、男の食事光景を見、喜ぶように目を細めることがある。
だから、彼は彼女の隣で食べている。
さあ、今日は何をしよう―――
うきうきと歩く少女の耳に、寝息ではないものが聞こえた気がした。
「…ただいま」
「…おかえりなさい」
少女は振り向く。そこには、女と男が眠る光景だけが続いている。
それでも―――耳に届いた声は、幻だとしても、春の日差しにも似て。この上なく、優しかった。
あとがき
ネットでお付き合いいただいた方のHP開設祝いに贈ろうとおもっていたけれどもうそういいはるには賞味期限切れだろうということで、ひっそりとアップ。お祝いものにしては、ちょっと暗くなってしまいましたしねえ。
桜の下の男女って絵になりますよね。けどなんとなくもの悲しい気がするのは気のせいでしょうか。桜は儚く美しい。そんなイメージがあるからかもしれません。大好きですが。
2011/05/22