助けてと縋ったのはあの子。
けれど、本当に、助けてほしかったのは。
きっと、ずっと、わたしだったの。
8 years ago
なんとなしに空を見上げる。
どこまでも暗い空の中、月だけがぱっかりと浮かんでいる。
雲に隠れて、それでも明るく。…今にも崩れそうな天気だ。
…その方が、わたし達の逃げてきた足跡は消えるけれど。今手を繋いだ子供の体力がもつかどうか。
生まれてこの方、広い屋敷を与えられ。けれどそれ以外に出ることを禁じられた子供の体力は、そう強くない。今日はもう散々歩かせたから、なおさら。
「…鈴様」
「…うん」
ぽつり、と呼び掛けてみれば、存外しっかりとした声が返る。それでも、ぎゅ、と握られた手はひどく冷たく、微かに震えている。
「大丈夫です」
努めて静かに、そう言った。途端、握った手のこわばりがほどけたのが分かる。…ああ、どこまで素直な。
気休め以外のなんでもなかったというのに、素直な子だ。
けれど、そう危険というほどではない。里を抜け、森を歩く今、目指す町に―――真っ当な法にのある場所へ連れていければ、あの里の奴らはそう簡単に手出しできない。生贄、なんて。いまどきそんなこと、許されてはいない。
そのままいついてしまえば、この子が狙われることは、ない。
…強い魔力は、どうあがいても、この子の人生に影を落とすだろうけれど。それでも。あんな下らぬ里のために死ぬことは、なくなる。
「大丈夫です」
そう、大丈夫。きっと、守って見せる。
このただ素直なだけの無知な娘を、本気で里の災いだと思っている連中は、それゆえにここまで追って来る度胸なんてない。
だから…追って来るのは。
里のことを外に漏らされては困る、上層階級の人間。自分達が外から見れば犯罪者の集団でしかないと悟りながら、正気で凶行を繰りかえす人間。
…その番犬は、里を逃げだす時、大半をなぎ倒した。…いもしない外敵のために無駄な訓練していた奴らと、ずっと昔からこの子を逃がすつもりだったわたしの執念を比べられては困る。…実際は、罠を張っていただけだけど。気付けない奴らが無能なのだ。
それでも残った奴らこそが、厄介なのだけれど。人数は少ないことだし―――逃げきって、みせる。
「…藍」
「なんですか?」
「…怖い顔をしてた」
「…そうですか」
そうでしょうね。
怖いことを、してしまったもの。
逃げきっても…きっと、あなたとはいられないもの。
外にあの里を告発すれば、わたしのしたことだって犯罪と知れる。…どうあがいても、この子とはあれない。
「…鈴様には、なにも怖いことをしません。…だから少し、目をつぶってくれませんか?」
「………」
夜の中怪しく映える赤い瞳が、ぐしゃりと歪む。
「お前のことは怖くない。お前がいなくなりそうで、怖い」
「……嫌ですね、いなくなんて、なりません」
「あ」
「いなくなんて、なりません。…私が鈴様に嘘をついたことがありましたか」
ぐ、と言葉につまる子供は、やはり素直だった。愚かなほどに、素直だった。
…馬鹿な子ね。今までわたしがたくさんの嘘をついていたと、もう知ったはずなのに。
いいえ。強い子ね。それでも許してしまうのね。…全てを憎んだわたしとは、違うのね。
「…行きましょう」
静かに笑って、少し歩を速める。
小さなウソ程度で痛む心など、今更もってなんてない。
だから、黙って足を進める。
静かな、どこまでも静かな夜の風に肌がなぶられる。
一日で追跡を諦めるような里ではないし…そろそろ、身体を休める場所を探さなきゃいけないのだけれど。
どうしましょうね……
と。
考えた時、ぐいと強く手をひかれた。体勢が、崩れる。
「藍っ」
怯えたような声をして、子供が手をひいてくる。
「ここは、駄目だ…!」
その眼に、わたしには見えないものを映しているかのように、『なにか』に怯えて。
あっちへ、と言ってくる。
「…鈴さ」
落ち着いて、と、そう言おうとした。
そう、言おうと、思っていたのに。
びゅ、と風を切り進む、なにかがこちらへ向かう音を、ようやく聞いた。
「藍っ!」
悲痛な叫びと、背中へ痛みが走るのは同時。なるほど、彼女に手をひかれていなければ、きっと心臓を射抜かれていた。
振り向いて、確かめるまでもない。
追っ手以外の、なんだというのか。
「…こちらへ!」
見つかったのなら、たらたらと徒歩で歩いていた必要などない。
幼い頃から抱きなれた…けれど随分と重くなった体を抱き上げて、浮遊の呪文を唱える。
「藍、そんなことより、弓…」
「服の下に仕込みがあるんですよ。致命傷ではありません…だから、離さないで」
出せる限りの速度で、木々の間を抜ける。
無理な術の行使で、少し頭がぐらつくけれど。追いつかれるわけには、いかなかった。
「…まけた、みたい、ですね」
「……うん」
この子が頷くなら、それは確かだ。…勘としか言えないようなそれは、あまりに正確だから。…だから、今はとりあえず、安全だ。
浮遊の術をといて、とん、と地面へ足をつける。
疲労感を感じながら、それでも足をつける。ひどく安堵するのはその感覚ゆえか、逃げ切ったゆえなのか。…分からなかった。
ぼう、と意識が緩む。すると、ぐいと手をひかれた。抗わずに腰を落とせば、泣きそうな顔が目の前にある。
「藍、だから、手当…」
刺さったままの矢に、痛ましげな目線が注がれるのが分かる。
けれど、思わず口元が緩んだ。
「…貴女は優しい子です」
それでも、こんなものをつけていれば、心配されるのも当然か。
…これに魔力が宿って、逃げた先がばれる…ような仕掛けがないことは最初に確かめたから、気にしないでいたけれど。
ぐい、と抜いて、小さく呪を紡ぐ。元より小さかった傷は、すぐに消えた。
「ほら、これで大丈夫だから…」
今日はこれで休みましょう?
続けるはずだった言葉が、不意に喉の奥で凍る。
違う。凍ったのは……呼吸。
「藍っ!?」
大丈夫、とそう答えることはできなかった。
ぐらりと傾いだ身体は、ささえることをできずに倒れ込む。
「藍っ! 藍! なんで…!」
ああ―――どうりで。逃げれたはずよ。
これが少しでもわたしを傷つけた時点で、奴らの勝ち、だったのか。
魔力でしかけがないか、は確かめた。
けれど―――毒の確認は、していない。
…迂闊…どころの話じゃ、ない。見くびっていた。それとも、まだ、信じていたのかしら、この後に及んで。この子を殺す気は、ないでいてくれないかしら、なんて。
急速に遠くなる意識に、逃げ切る時の疲労感の理由を知る。浮遊の術を無茶な速度で行使した所為だけでは、なかったのだ。毒に、蝕まれていたのだ。
爪先が凍えていく。かは、と苦しげな咳は、どうやら自分のものらしい。
……ああ……本当に。
最後まで、わたしは。
「藍!」
最後まで、わたしの見下した連中に、勝てずに死ぬのか。
「藍! 藍!」
わたしの全てを狂わせた奴らに、ようやく一矢報いた結果が、これ、なのか。
「…いやだ!」
不意に、感覚の消え始めていた肌に落ちるなにか。
感じたのは、ぽたり、と頬に落ちる滴。
温かいそれは、わたしをのぞきこむ赤い瞳から次から次へと落ちてくる。
……ああ、本当に。貴女は優しい子。けれど、少し泣き虫だわ。駄目じゃない。これからあなたは、1人生きるのに。
ゆるゆると、それを拭う。その熱がこちらに宿ることはない。
けれど、ひどく穏やかな気持ちになった。
ああ、おかしいわね。
最初は、利用するつもりだったのに。こんな情が湧くなんて。
忌み子と呼ばれたその力を使って、むなくそ悪い里を壊してやるつもりだったのに。
この子といる時ほど、穏やかな日々などなかった。から。
いつのまにか、そんなことは、させたくなくなった。
いつのまにか、本気で守っていた。
「…鈴様」
苦しい息を整え、その名前を呼ぶ。わたしが戯れに与えた、その名前。
様、なんて。尊称をつけて敬っていたのは、この子とよく似た男を思い出していたから。わたし自身、しがらみにとらわれていたから。だけど。本当は。
「いいえ」
本当は、ね。
「わたしのいとし子…」
ずっと、そう呼びたかった。
「どうか」
なにもかもを憎んだ人生の中で、ただ一つ。
かけねなしに愛しいと思った、あなたは。
どうか、どうか―――……
指先から力がぬけていくのが分かる。
「藍……!」
ずるりと落ちた手をとられる。握りしめられる。
ああ、幸せね。
とても―――幸せ、だわ。
嘘にまみれた人生の中、最後に浮かべたのは、きっと、嘘のない笑顔だった。