―――その昔、混沌の時代。神と呼ばれた存在と魔王と呼ばれた存在が在った。

 相反する属性を持つ彼らは、当然のように争った。
 そこに理由らしい理由はない。
 どちらに非があったわけではない。
 それでも、争って争って―――やがて、両者は倒れた。
 倒れ、消えて。その骸はそれぞれ『世界』を作った。

 それでも、残ったのはものは、永い時の中生まれた両者の眷属。
 神の眷属は『精霊』と呼ばれ。
 魔の眷属は『魔物』と呼ばれ。
 共にさ迷い、時に争う。主と同じように、それを続ける。

 続く争いがもたらしたものは、魔法と呼ばれる技術。
 精神世界と呼ばれるそこでのみ行われていた戦いは、骸から生まれた地上にも影響を与え、そうして―――


 そうして―――地上に、今も争いをもたらし続けている。

 それは、遠い昔。
 弟に読み聞かせた物語の一節。
 神話と呼ばれるそれを、魔術の才に振り回される弟に読んで聞かせた。
 魔術とはそういうものだから。だから、争いに使わぬように、と。
 それは、強い魔力を持つ子を持った家なら、一度くらいは言い聞かせる話だ。
 そして、今。
 それを言い聞かせた俺自身が、人と魔物との争いのさなかにいて。
 そうして―――失った。
「……なにが」
 なにが。守るだ。
「なにが………っ」
 大切な存在ひとつ守れなかった男が。
 父の死に目にすら立ち会えぬ子供が。
 喉の奥から嗚咽が漏れる。
 俺は、なにも。なにも守れやしなかった。

 そうして―――地上に、今も争いをもたらし続けている。
 かつて、兄に聞かされた神話はそんな終わり方をしていた。
 ああ、確かに。魔法は争いをもたらした。だが、それがなければ人類が魔物へ対抗することなどできない。
 それに…そんなものがなくとも、人は争う。魔力の所為だなどちゃんちゃらおかしいこじつけだ。
 なにもなくとも、争いは起きるし。
 どこに非がなくとも、人は死ぬ。
 どんなに優しいお人よしでも―――父が死んだ事実は変わらない。
 父の遺骸の前で肩を震わせる兄を、冷めた心地で見つめる。
「…兄貴」
 答える声は、ない。ただただ悲痛な嗚咽のみが答える。
 …そんな風に後悔されては、傍らにいてなにもできなかった己の立場がない。
 兄がそこにいようがいまいが、関係などなかった。
 その病はとても急速に父の身体を蝕んでいて―――薬の効果もむなしく、体力が持たなかったのだから。
 だから、傍にいても、なにもできなかったのだ。
 それに、父は……傍にいなくとも―――あんたのことを、いつも。
 なんとなく口に出すことはできずに、静かに目を閉じる。
 やれ素晴らしいと持て囃される魔力があっても、それを使いこなす才があっても。救えないものは多すぎる。
 そのことが術師として悲しいのだと言い聞かせながら、瞼の奥から伝うものをぬぐった。

 そうして―――地上に、今も争いをもたらし続けている。
 それは、遠くなってしまった昔。
 母が読み聞かせてくれた物語にあった言の葉。
 …魔物が精霊と争うというのなら、なぜ人を襲う。
 そう尋ねたことを、よく覚えている。
 それに答えた母の言葉もまた、よく覚えている。
 ―――知らないわよ、そんなもの。
 今思えば―――軍に所属し、魔物を狩る立場の人間として、それは適当すぎたのではないだろうか。
 けれど、母は笑って言った。
 ―――けど、黙って襲われてる筋合いはないし。
 だからそれを狩るのだと、母は言った。少し、悲しそうな顔で。悲しそうだった意味は、今も分からない。
 怖くないの、と尋ねた。
 それに答えた母の顔も、言葉も―――今も鮮やかだ。
 ―――守りたいものがあるもの。
 あなたがいなくなる方が怖いもの、そう言って撫ぜてくれた手を、今でも覚えている。覚えているのに。
「…でも、いないの」
 母も、父も、もういないの。
 魔物と人が争う理由など、どうでもよい。
 ただ、彼らは私から二人を奪った。それだけが、唯一の真実。だから。
「…ごめんなさい」
 だから、私は。なにも取り戻せずとも、失うだけだとしても。同じ道へ。
 抱きしめた槍は、なにも答えない。けれど懐かしい気がしてしまうのは――――きっと、ただの感傷なのだろう。

 そうして―――地上に、今も争いをもたらし続けている。
 かつて一人目の養い親に聞かされた物語は、確かそう閉じていた。
 …この世の争いが魔法の所為だけなら、どれだけ良かっただろう。
 実際は、魔法はただそこにあるだけ。人の世の争いは、人こそが起こす。
 彼女も、それを知っていただろうに。それなのに、それを聞かせたのは―――なぜだったのだろう。
 もしかしたら、と夢想する。
 彼女は、己の末路を知っていたのだろうか。知っていて―――1人残される私の心慰めに、と。それを読んだのか。あるいは、1人残される私が道を踏み外さぬように、魔力を誤った方へ使わぬように、と戒めたのか。
 …なんにしろ、もう確かめようのないことだ。私は彼女を喪った。永遠に―――会えない。
 だから、自分の頭で考えなければならないのだ。
 それは、難しくもなんともないことだ。今はかつてとは違う。彼女と二人きりで幽閉されていた過去ではない。思考のための材料は、揃いすぎるくらい揃っている。
 だから、気づいてしまった。
 なあ、藍。
「お前を、殺したのは……私だな」
 私さえいなければ。彼女が死ぬことなど、なかったはずなのに。
 なぜ恨みごと一つ残さず消えてしまうのか。
 いとし子、と。最後に呼んで、私を守ったのか。
 喉が奇妙に引きつる。
 勝手に流れ始める涙が、苦しいほどに苦かった。

 ―――それは、全て、遠い昔。
 喪失を抱えて、いつか出逢う僕らは。
   その時、ただ、ただ、枯れない涙に浸かってた。