幼い頃、外の世界について、欲しいとも羨ましいとも思わなかった。
与えられたのは、高い塀に囲われた屋敷と、1人の世話役。藍、という名の、大切な人。
あの頃、私の世界を形成していたのは、彼女の声だけだった。
名前を呼ぶ優しい声と、あたたかな手の平。
それが唯一縋れるもので、失うことなど想像もしなかった。
失って、なにもなくなって。
私のしたことは、きっと代償行為なのだ。
2
窓から空を眺める。
蒼く高い空が眩しくて、吹き込む風も涼しい。
気持ちいい天気。
嬉しくなって、庭に出てみる。
太陽できらきら輝く草は、やっぱりキレイ。
気持ちいい。
嬉しくなって、走り出す。
私のいけるところまで。
そうしていると、とん、と塀にたどり着く。
なんとなく、触ってみる。黒い石で出来た塀は、ひんやりと冷たい。背伸びをしても、向こう側のことは何にも見えない。
藍はここから出てはいけないという。
どうして、って聞くと、痛そうな顔になる。
だから、出ちゃダメなんだと思う。
ぺた、と塀を叩いてみる。
きっと藍を痛そうな顔にするのは、これの所為だ。
ぺたぺた。ぺちぺち。叩きながら、思う。壊れてしまえばいいのに。
とん、と少し強くたたいてみる。
手が痛いな。
そう思った。
その時。
「誰か、いるの?」
聞いたことのない声が響いた。
「………」
どうしよう。
藍が言ってた。
ここを訪ねる人がいたら、それは怖い人です、って。
私に怖いことをするから、耳をふさいでください、って。
けど、これは怖い人?
いいえ…なんだか、楽しそう。
「……い……」
でも、言いつけを破ったら、藍はとても痛い顔をする。
前、覚えたての術で空を飛んで、この塀を越えようとしたら、とっても身体が痛くなった。
痛くて、泣いてしまった。
泣き声を聞きつけて来てくれた藍も、泣いてるみたいな顔だった。
だから、約束は守らなきゃ。
でも。
でも、こんなの、今までなくて。
「…気のせい?」
「…違う」
とっても、嬉しい気持ちになった。
「あ。いるんだ」
返ってきた声も嬉しそうで、ますます嬉しくなった。
「ねぇねぇ! 君、こんなとこでなにしてるの?」
「ここが私の家だから」
「お家? そっかぁ。おっきいお家だね」
ここ、大きいのかな。
大きいよね。
だって、走り回れるくらいだから。
「ねぇねぇ! 君、名前はなんていうの?」
「…鈴」
藍が呼んでくれる名前を、そうっと告げる。
そっかぁ!と嬉しそうに応えてくれた。
…嬉しい。
「ボク、タケシっていうの!」
「…タケシか」
「うん!」
藍意外の人に名前を教えてもらうのは、初めて。
「ねぇ! 鈴! 鈴は女の子だよね?」
「…うん」
たぶん、そうだと思う。
藍がそう言って、きちんと身なりを整えましょう、っていうから。私は女の子。藍と、一緒。
だから、女の子しか見たことないけど。
外には、男の子、っていうものがいるって、言ってた。読んでくれる本にも、そう書いてた。
「じゃあ、なんで男の子みたいな話かたなの?」
「男の子みたいなのか?」
「うん、変なの!」
「…はじめて言われた」
「えー。ボクの妹とか、そんなことしてたらかーさんに怒られるよー。鈴のお母さん、変だね!」
「…そうか?」
そうか、女の子はこういう感じだと、おかしいのか。
そういえば、物語の登場人物は、こんな話し方をしていない。
…そんなこと、やっぱり初めて気付いたけど。だって。
「私、『かーさん』に、会ったことない」
藍は違うの? そう聞いた時、痛い顔で首をふられた。
あなたのお母様は、わたしが仕えている方です、って。
だから、私のお世話を任されているのです、って。仕えるんです、って。
仕えるってなに? そう聞いたら、大事にすることですよ、って言ったから。
お母様、はきっといい人だと思っている。
藍が大事にしてるのだから、良い人。
「でも、私、お母様が大好きだ」
藍の大事にしてるものなら、私も好きになれるって思う。
けれど、塀の向こうのタケシは驚いたようにええ!と言った。
それきり黙りこんでしまった彼に不安な気持ちになった。でも。
「…鈴、かーさん死んじゃったんだね」
「え?」
「それなのに、ごめんね。ボク…」
「え?」
違う。お母様は死んでいない。
死ぬ、って言うのは、動かなくなること。
仲良くなれた小鳥が、私を置いていってしまうようなこと。
お母様は元気です、って。藍は聞いたら応えてくれたから。死んでなんてない。藍は私に嘘なんかつかない。
「…鈴!」
「…な、んだ?」
「ボク、また来るから! ちゃんと来るから! 寂しくないよ!」
「…また?」
「うん!」
「…じゃあ、待ってても、いいか?」
「うんっ! またね!」
「……『またね』?」
それは、物語の中で見た言葉。
なんだっけ、使ったことないな。
でも、書いてあった。
また会える、って約束する言葉。
「…またね!」
嬉しくなって、声を上げた。
藍のいない時間は、いつもさみしい。
けれど、今日はひどく楽しくなった。
誰かとこんな風に話するのは、初めてだ。
人じゃないモノになら、いっぱいお話してるけど。
毎日夢の中に出る、怖い顔の変なモノは、なんだか色々教えてくる。明日雨が降る、とか、今日はなにを食べた、とか。
ああでも、やっぱり、藍じゃないモノは、全部怖かった。
皆最後に言う。
食わせろとか。よこせとか。
イミゴ、って言いながら、そう言ってくる。
イミゴ、ってなんだろうなぁ。
美味しいのかな。
藍のご飯美味しいけど、食べたことないな。
…ずきずきと頭が痛くなってきた。
考えすぎ、って言うんだよね、これ。
「…家に入らないと」
それで、藍を待っていよう。
買い物にいってきます、って言ってたけど。もうすぐ帰ってくるはずだし。
おかえりなさい、って言わないと。
外から帰って来た人には、おかえりなさい。
そう教えてくれた時、藍はとっても嬉しそうだったから。
「…教えたいな」
ねぇ、藍。
私、目に見える友達ができたんだ。
「…鈴?」
「…なんだ?」
「今、すごい顔してたけど…どうしたの」
「…すごい顔ってなんだ。ちゃんと説明しろ」
「えー? 難しいこと言うわね…そうね。…焦げたお肉思いっきり食べた上に舌まで噛んだ、って感じ?」
「目玉焼き食べているのにか?」
「なに他人事のように言ってるの。
そう言う顔、してたわよ?」
心配そうに言う舞華。
私は首を傾げるしかない。
「良い感じに半熟だぞ、心配しなくとも」
「なんで私が心配される流れ!?」
「失敗してるかと不安がってた、じゃないのか?」
「あんたが変な顔してるから具合でも悪いかって思ったのよ…もー…」
もーと呟きつつ、ぶすりとウィンナーにフォークを突きさす。
…変な顔、ねぇ。
別に、そんなものしていたつもりはないが。
少し、思い出していただけだ。
「……」
熱々のコーンスープ(作り置き)を飲みながら、そっと思い出す。
こいつと暮らす、ずっと前。
遠くなった、故郷の記憶。
広い屋敷に、二人ぼっち。
外があることを知っていたけれど。それを求めると痛い思いしかしないから忘れていた、あの頃。
少しだけ、外とつながった、あの時を。
…それは、当然、長くは続かなかった。
あの『タケシ』が家に―――いや、座敷牢に通うようになって、…3,4日ほど経った頃だろう。
彼の親が、そのことに気付いた。
己達の息子が通う場所は、遊び場所などではないことに。息子の言葉の端々から気付いたらしい。
『こんなモノと口を聞くなど』
『どうやって近づいたと言うの』
『そこにいるのは、ヒトなんかじゃない』
『我が一族に現れた災禍の兆―――早く消え去ってしまえばよい』
そう告げた彼の両親の顔は、結局最後まで見たことはない。
ただ、きっと。それは嫌なモノを見た顔だったのだと思う。
忌まわしい子供。災禍の兆。生きていれば災いをもたらし、殺めれば一族を呪うのだと伝わった、忌み子。
一族に起こる災いは、すべてそれの所為。
『タケシ』との一件以来、大きな災いが起きる度、そう告げる男が現れるようになった。
だから、人と話すことなど許されぬと、何度も言われるようになった。
…今思えば。
私と似ている顔の、男が。
災いが起きる度に、そう言って私の血を抜きにくるようになった。
災禍を呼ぶその身なら、払うのもその身なのだと。
そんな風に、何度も私を切りつけた男は、もしかしたら親族だったのかもしれない。
藍が―――…忌み子の『管理者』がその度に治してくれたから、傷も残っていない。
彼女が頼んでくれたらしく、痛み止めも使われたから。痛いかったのは一度きり。本当に、作業だった。本当に作業なのだから、仕方ない。厄払いの儀式の過程だったのだろう、あれは。
赤い瞳の子供は、災禍の兆。
高い魔力を持ち、目にみえない魔物の声を聞き、生まれる度に一族に災いを呼んだ、災禍の兆。
いつからかそれは幽閉されるようになったのだと言う。
いつからかそれはスケブゴートの側面を持つことになったのだと言う。
一度殺めた時代は、次の忌み子が生まれるまで災禍に襲われたため―――殺すこともできなくなったのだと言う。
それでも。
それでも、本当に大きな災いが起きた時は―――……
『アレを生かしているせいで、こんなことが』
『やはり早々に消してしまうべき』
『殺すのではない。いつものように、厄を払うだけ』
『全ての血を―――抜いてしまえ』
―――大きな地震が起きて、何人かが死んだのだと言う。
だから、贄は最後の役目を成すことになったのだと言う。
それが死に繋がることなのだとその頃の私は悟ってしまっていた。
限られた交流。限られた行動範囲。
それでも、魔物に精霊に近く育った私は、その声を聞き育った贄は、それを知ってしまっていた。
『…藍』
気付いて、怯えて。
『助けて』
頼れたのは、いつだって私を守ってくれた人。
彼女がいなければ、私はとうの昔に壊れていた。否、彼女がいたから、壊れていることに気付かずに、幸せなのだと思っていた。
だから、その時も、当然のように助けを請い。
彼女を、最後まで巻き込んで―――
手に入れたのは、どこにでもいける自由。
腕に抱いたのは、追っ手に殺められた藍。
耳に焼きついたのは、術ともいえぬ不完全な呼びかけでよんだ魔物の声と、それに食われた追手の悲鳴。
一族に伝わる術のいくつかは、藍から教えられていた。けれど、攻撃に使うモノなど、ほんの少ししか習ってはいない。護身用のそれを習っただけだった。それなのに、あの時。あんなことになった。
忌まわしいと言われていた意味を、初めて知った。
ああ、確かに忌まわしい。災禍を呼ぶ。
唯一大切な人さえ巻き込んで、災いの渦の中喘いで。そうして、独り死んでいく。
それが忌み子の定めなのだと、やっと気付いた。
守ってもらう価値も理由もなかったのだと、ようやく気付いた。
死んでしまった方が世のためと、泣きながら気付いた。
それでも。
『生きて。
幸せに』
億人の命より、その言葉が重かった私は、死ぬことを選べなかった。
だからじっとその光景を見て、見ているつもりだったけど、気が遠くなって。
そうして、意識が戻った時、あの養父に拾われたと知った。
ほどなくして。己の一族のことを、その特異性を知った。
他との交流を絶った、古い一族。
よその血を入れないことで魔力を高めることを目指した、異能の一族。
そのしきたりにはなんの意味もないと、そう慰められた。
…私のしたこととその被害を知らないはずもないのに、養父は優しくそう言った。
あの一族が他の隔離していようが、外に出た以上、私のしたことは罪に問われるはずだった。
それなのに、彼の養女として生きることになったのも、彼の計らいなのだろう。
それはとても幸せで。悲しくなるくらい、幸せで。
それに浸る資格などないと知りながら、彼の元で育った。
藍が私に望みを言ったことなど、今際の言葉が最初で最後。
だから、生きていなければ。だから、幸せにならなければ。
それだけが、自ら命を絶たなかった理由。
けれど。
ずっと思っていた。
―――幸せなんて見えやしない。
もうお前はいないのに、どこにあるというんだ。
どこに、求めて良いと言うのだ。
自責がなんの意味もないことを知っていた。けれど、養父母に甘えて、そうして幸せになることなど、できるはずがなかった。
自分が頼ったせいで、甘えた所為で。親のようだった彼女が死んだ。
最後まで母と呼べなかった、私の母が死んだ。
だから幸せになどなれないのに、彼女は幸せになれといった。
分からないと叫びたくても、優しく答えてくれた人はいない。
その結果、色々なものを踏みにじっていたのだろうと思う。
思えば舞華に会ったのは、それが少し嫌になった頃。
風に流れる、少し焦げた茶色の髪。
ただそれだけの共通点を、無理やりに見出して。
頼りない彼女を、守ろうと決めたのは。
過去に沈んでいた意識を引き戻して、向かいに座った同居人を見つめる。
快活な口調も無茶な行動論理も手の早さも。年齢も顔も立場も。藍とこいつはなにも似ていない。
こいつを守ってみたところで、過去が変わらないことくらい分かっているけど。
「…舞華」
「なによ、あらたまった声で」
「美味しい」
「…? ありがとう」
「…嬉しい」
思ったままに呟く言葉は、むごく唐突だ。
けれど、舞華はにっこりと笑った。
「私も、嬉しい」
許されないことだと知っているけれど、どうか。
どうか、こいつのことを守らせてほしい。
守れなかったあの人の代わりに。
もう、守られることの許されない過去の自分の代わりに。
私とも彼女とも違う、こいつの傍に、もう少しだけ。少しでも長く。
かつてとは違う笑顔に心守られながら、ただそれだけを祈っている。
まるで終わるかのようなノリでもう一個続きます。
藍と舞華はあんまり似てない。復讐=死ぬところ以外は。
そこだけ似ていればほっとけない理由としては十分だというお話。「たまになんとなく雰囲気が被る」としか鈴は気づいていないけれど。
2010/05/19