いつだって。
 思い出す記憶は、冷たくて、白黒に色あせて。
 それでも消えない、おかしな色彩。ちらちらと目の端になにかが見える、錯覚。
 あかい、あかい、その色が。
 今も目の前をかすめている。

25 years ago

 わたしの父は、外の人間だったらしい。
 外と徹底的に隔離された里。深い森にかこまれたことは勿論、何重にもはられた結界が人との繋がりを閉ざす、隠れ里。隠れざるえない、歪んだ儀式を繰り返す里。
 早い話が、犯罪者集団である。あるいは、カルト集団とでもいうかもしれない。
 食べ物は自給自足で、通貨だって同じようなもので。その里のみで生活は完結しているから、それに気付くことすらない人間が―――罪の意識すらない無能な羊ばかりが、たくさんいたけれど。
 けれど。
 けれど、それでも里は少しだけ外との繋がりを求めた。進んでいく技術や、変化する術の形態。そんなものをあてにして、少しだけ交流が続いた。ささやかながら、交易というべきだったのかもしれない。
 その、少ない『外との交易役』の一つが、わたしの家系であり。少しとはいえ『外』を知った母は、『外』の男に惹かれて―――2人で手を取り合って外に逃げて幸せに。なれたらいいと、思ったらしい。
 里は隠れ里、何年も何年も違法とされる術を伝え、外道とされる儀式を繰り返し、その血に宿る魔力(チカラ)を高めることにとりつかれた一族。
 その里は、裏切りを許さなかった。
 外に出る女も、入って来た男も。全て。
 許しはせずに、男は追い出した。『私に愛想が尽きたの、きっと』『そうであってほしいの』『追い出されただけですんだことを祈っている』母はひどく泣きそうな顔でそう語ったけれど。
 もう来ないから諦めろ、と。そう告げられた時に母の元に戻って来たという父の指輪は、わたしが見た時。
 なにか、赤黒いものが、こびりついたままだったけれど。

 そこまで排他的な里が、わたしを生む母をゆるした理由は、一つ。
 無能で愚かな民は、それでも閉じた里に鬱屈は感じていたのだろう。
 娯楽として、残虐な儀式を喜び。娯楽として、迫害する対象を求めた。
 その対象の一つが―――わたしと母だったのだ、要は。

 ものを売ってもらえないのは序の口。歩いているだけで石を投げられる。集団で殴られたことも。言われない噂をいくつも囁かれる。それに基づいてまた殴られる。
 飛んできたのは、石だけではない。攻撃魔法以外のものは、大抵投げられる気がする。例えば―――、水だった。
 寒いその日、頭からかけられた凍えた水には、あるいは術でもかけてあったのか。それとも、ただ水に負けただけか。
 結果として、二人で、むごい風邪を引いた。
 5日間。
 あの5日間を、わたしは忘れない。
 苦しくて、暑くて。寒くて、それすらわからなくなって。それでも誰も助けなど来ない。
 ……それでも、母とすごした最後の時。
 狭い家で、身体を寄せ合って。それでも、母が、死んだ。
 悲しむ暇も、弔う暇もなかった。
 一体どこから母の死を聞きつけたのか。わたしは、追い出されることになった。仮にも同胞だった女がいないのだから、こんな子供を置いておく必要はないと言って。そもそも母が厭われた原因はわたしのなのだから、死んで償えと。まだ熱は引いていず、ろくに術も扱えない。そんな、死を待つ状態で。
 そんな状況で、雪の上に転がされて。
「―――その娘、私によこせ」
 聞こえた声は、むごく楽しげで。腕をひく手は、上等の皮手袋に包まれて。
 ともかく腹がたったことを、良く覚えている。
 腹が立って、それでも。
 触れた手の熱さは、もう母は持っていないもので。ひどくなきたくなった。

 ―――それからは、あいつの子飼いの召使としての日々。

 しかし、なにしろあいては尊い尊い族長さま。わたしが直接世話をするような身分ではない。
 馬鹿でかい屋敷の掃除をして、馬鹿みたいに広い庭の雑草をむしる。重い荷物を運び、山ほどある皿を洗う。
 その繰り返しで1日は終わる。
 部屋なんて当然用意されていなくて、廊下に転がっているわけにもいかなくて。たどり着いたのはもう使わないようなゴミのたまった倉庫で。
 誰も訪れることのないそこは、それでも寒さはない。
 だから、それでいいのだと思っていた。
 同じ族長一族の住む召使連中にはこき使われる。頻繁に来る客人に見つかるたびに眉をひそめられる。たまに里を歩けば子供に石を投げられる。けれど、親切にしてくれるまったくいないわけでもない。なにより、ここにいれば衣食住の心配はない。
 ありつけるのは残飯で着るものは他と比べれば薄く粗末。けれど、それがなんだというのか。飢える心配はないのだから、幸せである。
 ああ、これで―――

「藍」

 これでこいつさえいなければ、幸せだって言い切れるのに。
 軽々しく呼ぶな、迷惑だ。第一わたしは、そんな名前ではない。もう呼んでくれる人はいないけれど、ちゃんと名がある。
 一度そう訴えたところ、「なぜか1人でいる時に」「突風に吹かれて」池に落とされたため、素直に振り向く。首だけと言うわけにもいかず、全身で。洗濯にいくところだったんだけど、本当は。
「ついてこい」
 まだ何も言っていないのに、わたしは答えは決まっているらしい。
 仕方なく背筋を伸ばし、後に続く。
 ……その背中に蹴りでもいれれば、さぞや気が晴れるだろう。実際、いれたこともあるけれど。いれたところで状況は変わらないし、蹴り返されるし。特にいいことはなかったので、止める。
 こいつと関わっても、良いことなど一つもない。それどころか、最近、むごく扱われる理由が、一つ増えた。
 それはこいつに目をかけられているせいだと――――知っているのだろう。
 いつだって、人が苦しむほど薄く嗤う、この男は。
 だって、それが趣味で目的で生きざまのような男だと、思う。
 こんな風に呼びつけられたって、わたしになにをさせるわけではなければ、なにかをさせるわけではない。ただ、時間をかけて茶を入れさせて、黙ってそれを見せられて。ただひたすら時間をとられるだけ。
 休ませてもらっている、と思うことはできない。
 そうして、ようやく仕事に戻れた頃には、周囲に遅いと罵られる。頻繁に殴られる。そんなわたしを誰よりも愉しそうに眺めているのがこの男なのだから。
 要は、わたしがけなされる様子を見たいらしい、偉大な偉大な族長さまは。
『なんでやたらとわたしを呼び付けるのよ、あんた』
   死んでもいいと思いながら、そう尋ねた時、
『いい見世物が見れるからだ』
 はっきりと本人がそういったのだから、そうなのだろう。
 …ああ。そういえば、あれからかしら。余計に呼ばれることが多くなったのは。ぞんざいな口を聞かれるのが新鮮なのだろう、きっと。
 歪んだ里の次期族長。歪んだ里の、歪んだなりの富を享受する男。
 食うに困らない殴られない無意味に傅かれる――――それはしあわせにみえるけれど。本人はいたく退屈だという奴だろう。
 冷静沈着で優秀な時期族長。それがこいつの評価だけれど。退屈だと全身で語るような男だと思う。
 黒い瞳にあるのは、いつだって空虚な印象。薄い笑みだって、いつだって冷たい。傷も荒れも無縁な肌の下にあるはずの血の通いを疑いたくなるほどに。
 ………贅沢な男だ。
 けれど、わたしは良く知っている。身体を持って、思い知らされた。
 優しさは、そんな贅沢からしか生まれないのだ。否、優しさですらない、偽善ですらない、ひどく勝手な感情すら。余裕がないと、向けられない。
 そんな身勝手な感情にすがらなければ、わたしは、生きていけない。
 おそらく、無条件に優しかった人は、母が最初で最後だ。ごめんねと最後に言った、母だけが。

『1人にして、ごめんね』
 ああそう思うなら、
 いっそつれていってくれれば良かったのにね。
『ごめんね、でも、ね。あなたは諦めないでね――――……』
 その先に続いた言葉に呪われて、わたしは後など追えなくなった。

 香をたいているのだろう。独特の匂いの籠る部屋に、茶の匂いが混じる。響いたのは、どこか甘いその香りに似合わぬ声。
「上の空だな」
「―――緊張しているのでしょう。貴方に声をかけていただけるなど、あまりに身に余る光栄でございますればこそ」
「そんな気色悪い言葉を求めていると思うのか」
「……なんであんたの『求めるもの』なんて考えて行動しなきゃならないのよ。どうでもいいことはどうでもいい。当たり前のことじゃない」
 わざとらしく茶碗をもてあそび始めた姿を見、ぞんざいな口調で返す。
 以前、沈黙だけを返したところ、手元にあるものを投げつけられた。あつい湯の入った中身は、それなりの火傷を肌に刻んだ。
 だから、今日も従順にへらず口をたたく。この茶番のどこが楽しいのか、わたしには分からない。
「ぼけたお前は好かん」
「すいている時、ないでしょ」
「気に入ってはいるよ、お前は見ていて飽きない」
「…それはえらく光栄な話ですこと」
「茶はぬるいがな」
 そりゃあ、嫌がらせだから、その茶は。それならば投げられれば怪我もないし。
 淹れなおせと言わんばかりに差し出された茶碗に、同じようにぬるい茶を注ぎながら、胸の中だけで呟く。
 先ほどがぬるい、だったのだから。今は冷え切っているだろうけれど。別にいいだろう。うまいものなど腐るほど食える身分だ、こいつは。
「藍」
「……まだなにか」
「よれ」
 そろそろ立ちされるかと思っていたのだけど、珍しい。
 …そろそろ本当に戻らないと。明日の朝食にはありつけないから、勘弁してほしいんだけど…。…ここでごねたほうが長引きそうだ。
 脇息にもたれる奴の元に、渋々逆に戻る。習慣で膝をついて頭をたれれば、不意に腕を引かれた。
 今度は茶でもかけられるのだろう。とりあえず目を閉じると、顎を持ち上げられた。殴られるのだろうか。
 けれど、次に感じたのは、痛みではなく。
 唇に押し付けられる、覚えのない熱だった。
「――――…」
 とっさに身を引こうとすれば、掴まれたままの腕が邪魔をする。
 立ち上がろうにも、今度は頭の後ろに回された手がさせない。
「……な、にを」
 塞がれた唇が自由を取り戻しても、洩れたのは間の抜けた呟き。
 答える声は、たいして楽しそうではない。平坦なものだった。
「見世物にも飽きたからな。暇つぶしだ」
 熱い湯をかぶせられた時、気まぐれに殴られた時。それは何度か聞いた言葉。
 けれど、襟を割っていく手のひらは、それまでにないものだ。
「わたしを殺す気?」
 こいつとなにかあったら、わたしが『誘惑した』と言われる。そうなれば、今度こそ殺されるのだろう、この里を牛耳る、こいつの周囲の重役たちに。そうでなくとも、こいつがわたしを拾ったことが目ざわりでしかたないのだ、あいつらは。
 思わず呟き、すぐに笑う。殺す気も何も、こいつは。退屈しのぎのためなら、いつもわたしを踏みにじって来た男だ。だから、今更だ。
「…殺すのね」
「まさか」
 低く笑う声が、近く聞こえる。焦点が合わないほどじっと、覗きこまれる。
 冷たい何かが背中を伝う。押さえつけられた腕がひりひりと痛む。
「お前は私の気に入りのおもちゃだ。他の者になど殺させない」
 ならあんたがわたしを殺すの?
 再び塞がれた唇が、声にして問いかけることはできなかった。
 ―――苦しい。熱い。辛い。誰か。
 脳裏をよぎる痛みは、あの熱を出した夜と似ている。
 似ているから、思い出す。
『ごめんね、でも、ね。あなたは諦めないでね』
『どうか、生きて。
 幸せに』

 そんなもの、みえない。知らない、最初から。
 口の中の自分以外の熱にむせそうになりながら、記憶の中の笑顔をなじる。
 荒く上がる呼吸と共に吸い込んだ香の香りが、全身に苦く響いた。



 



25年前。そもそもの発端編。藍が拾われたのは10代前半。ここは後半。
11/10/29