『…なんでわたしを拾う?』
そう問いかけた時、期待がなかったといったらウソになる。
腹が立っても、辛くとも。自分を拾った人間を、善人だと思いたかった。
『この里ほどくだらぬ場所はないからだ』
答えるあいつは、綺麗に笑った。
『だから、暇潰しだ』
綺麗に笑って、頬を張って来た。
睨み返せば、その顔だと。
その顔を見ているのが少しは愉快だからだと、答えられた。
それ以来、期待などしていない。
期待など、していない。
何に対しても、してないのよ。
24 years ago
夜毎呼び出されるようになっても、特になにが変わるわけでもない。わたしの眠る場所は、誰の目にもつかないから。朝まで戻り、仕事をこなせば、問題はない。
ことが露見すれば、殺されるだろうけれど。とりあえず今は、平穏だ。
虫唾が走るほど嫌かと思ったのに、平穏であることが。むごく滑稽に思えた。
滑稽でおかしくて、少しだけ嗤う。洗濯物を終えて、空を見上げる。良い天気だ。この辺りは、天気も変わりやすいのだけれど。
「…藍さん?」
一日もってくれると楽ね、などと思っていると、声をかけられた。
身体ごと振り返り、笑みを張りつける。
そこにいるのは、赤い着物をまとった少女。長い髪を背中で一つに結わえた、愛らしい少女だ。
「ああ、やっぱり藍さんでした」
嬉しげに笑う少女は、この里では身分がある、所謂名家のお嬢様。なにか集まりにでも参加しているのだろう、彼女はよくこの屋敷を訪れ、そのたびにあれこれと上等の菓子を握らせてにこにこと笑う。
優しい娘なのだろう。わたしの置かれている状況をおかしいとも言わないし、解決しようともしないが。
「今話しかけたら、お仕事の邪魔をしてしまうかしら」
「いいえ。今はちょうど作業を終えたところにございます」
「そう。良かった」
そうやって同情からだと良く分からせてしまうあたり、中々傲慢な優しさだけれども。無意味に辛辣にされるよりは、浅はかに優しくされた方がいい。
無意味に触れられるよりも、よほど。その方が。
「1人でしばらく時間をつぶさなきゃいけなくて。寂しかったんです」
内緒話でもするように囁いて、彼女は今日も菓子を差し出してくる。
白い手の平の中に咲く、綺麗な紅葉。砂糖でできた紛いもの。庭に無駄に積もるあの落ち葉たちも、このくらい甘ければいいのだけれど。
礼を述べた後、舌に乗せるだけで溶けるそれにしみじみと味わいながら、思う。
いつもなら感想なり世間話やらをしてくる少女が、喋らない。
「―――…なにかあったのですか?」
「いいえ。わたくしはなにも。でも、貴女、顔色が悪いわ…」
気遣わしげに問いかける少女の手の平が、そっとわたしの手を押し包む。
痛ましいと言いたげな眼差し。
「ちゃんと寝れているのですか?」
「……ええ」
どうやら本心で心配しているらしい彼女に、とっさに嘘をつく。
「あまりひどい扱いを受けたら、若君に助けを求めれば良いでしょう。あの方は貴女のことが大切なようですから」
主にそいつの所為で眠れていません。とは言えない。この娘なら、それを周りに吹聴するようなことはしないだろう。かといって、あの男に抗議してくれるわけでもない。何も変わらない。空しい。
「それでも駄目だったら、わたくしのところへいらしてください。困っている人を助けるのは、良いことですもの」
ふわふわと彼女は笑う。
彼女は正しいことを正しいようになす。
そうして正しく笑う彼女の表情は、いつだって柔らかい。
「…ありがとうございます」
柔らかくて、砂糖菓子のようで。綺麗だから。
そのままであればいい。
瞬き一つの間に忘れる、小さな願いと共に、重ねられた手の平は離れて行った。
「酷い顔色だな」
呼びつけられたかと思うと、開口一番にそう言われた。
今日だけで、二度。しかもこんな男にまでとは、本当に悪いのだろう。
「……それがなに」
事実最近、どうにも身体が重い。
たまに歩くのすら億劫になるのは、疲れている所為だと思っていた。
ぐ、と腕を掴まれる。痛みに奴の顔を睨めば、珍しく笑ってはいなかった。
「死ぬなよ、まだ」
「……そういう台詞すら優しそうに聞こえないわよね、あんた」
笑わずに、真剣に。そうすると一層冷たく映える顔に毒づいてつかまれた腕を払えば、僅かに残るのは赤い痕。…この、馬鹿力。
「優しくしてほしいか」
「気色が悪い」
おかしそうな笑声に、真顔で返す。
こいつが優しい? そんなことがあったら、それこそ死ぬときなのだろう。
「気色悪いとは中々心外だな。優しくしているだろう」
「いつ。どこで。あんたが、わたしに優しさを見せた?」
「今」
再び伸びてくる手は、今度は頬を撫でてきた。
確かに、殴りはしていないが。すごく気持ちが悪い。気分が悪い。これはこれで嫌がらせだろう。充分に。
…それでも、何度となく殴るわ足蹴にするわ基本的に人のことを人とも思っていないこの男が、こういう時はまったく暴力をふるわないのは、純粋に意外だった。
なぶるのに飽きたから別のことに手を出してみたのだとばかり思っていたが。
…なにをしたかったのだろう。
たまっていた…に、しても、他にやりようがありそうなものだ。
「これは精々『普通』でしょう。どこが優しいの」
「ああ、お前が『普通』を知っているとは知らなかった。それで? いつどこで普通の扱いを受けた?」
あるいは、愛してる?
それこそまさかだ。ありえない。
馬鹿にしたような眼差しが物語る。そんなものはないだろうと。
「……人を普通に扱わない奴筆頭が嫌なことを聞かないでよ」
吐き捨てれば、奴は嗤った。明らかな嘲笑。
それでも、そうやって歪んだ笑みを垂れ流している時が、こいつは一番幸せそうだ。一番、というよりは、唯一幸せそうだ。
だから、結局。
そういうこと、なのだろう。
気に入りの玩具で遊んで、別の遊び方を思いついただけなのだろう。
ならば、動揺する方が、馬鹿らしい。
何度たどり着いたか分からない結論に、小さく溜息をつく。
徐々に頬以外へと伸びてくる手は予定調和で。
まるで熱を帯びないこともまた、お互い分かりきったこと。
そうだ、全ては予定調和であり、慣れ切ったルーチンワーク。
なにも変わらぬ日々のはずだったのに。
なのに。
ある日感じた目眩は、命の危機すら感じるほどで。
立っていられなくて、倉庫の床に座り込む。頭には重い痛み、腹の底に殴りつけられるような痛み。
喉の奥からは、酸いものがこみ上げる。
「……っ」
最近、確かに体調が悪い。
気持ちが悪い。頭が重い。辛い。
でも、今更。体調悪くなるような理由があっただろうか。確かに最近睡眠時間は持っていかれているけれど、むしろ短時間とはいえ良い寝床で寝られて、別にそれ自体が原因とは思えない。
ならば、その前の行為? …否。それなら、もっと前に体調崩しそうなもので―――
心辺りを探しているその時、口元を押さえる袖からふわとかぎ慣れてしまった香りを感じる。
どこか甘ったるい、眠くなるような。香り。
いつもいつもあの部屋にあるあの薫物の香りは、そういえばあいつが服にたいているものとは違う。あれより、ずっと甘い。そうたぶん、調合されているのは……。
…されて、いるのは?
ざあ、と。
自分の中の血が引いていく音が、はっきりと聞こえた。
「…なんで」
掠れ切った声より掠れてちぎれそうなものは、思考。
気付いた時には、走り出す。
目指す先は、今は無人のはずのあいつの私室。確かめたいのは、確かめなきゃいけないのは、あの薫物の効能。
目の奥が妙に熱い。こみあげてくるものの感覚は、うまく思い出せなくなっていた。
そうして、確かめた香の効能は。
予想を裏切ってはくれそうになかった。
どうして、ここまで。あんたは。人を。
なんで、ここまで、わたしは。
まるで傷ついているように、痛みを感じる?
ぐるぐると同じ言葉が頭を回る。
気持ちが悪い。頭が重い。辛い。もう、ずっと。
その元は、この扉の向こうにある。
黒く重い、華美な装飾が施された扉。
まるでこの里そのものをみているような不愉快に襲われる、扉。
それをノックもせずに明け放したのは、初めて。
けれど、そこにいる男は、さして驚いた顔も見せずにこちらを見返した。
「お前から尋ねてくる日がこようとは思わなかったな」
その部屋に、あの薫物の香りはない。
甘ったるい、この男に似合わないあの香りは、ない。
だから、余計に悟ってしまう。ここ一年、わたしがここに来るたびたかれていたあの匂いの意味を。
「あの薫物、今日はないの」
「ああ」
答える顔は変わらない。突然自発的に尋ねてくることなど、ないと。知っているはずなのに。
「なんでないの」
「必要がないからな」
その上、こんなことを聞く理由が。分からないはずがないのに。
口の中が渇く。そうして、底すら痛くなる。
「ひつよう…」
―――必要だったの、それは。
「効能はなに」
「予想くらいしてみたらどうだ」
面倒そうだった表情が、僅かに変わる。試すように、確かめるように。楽しそうな笑みが浮かんで。
より確信が強くなる疑念で、座り込みそうになる。
「調べた。基本となっているのは、睡眠薬。でも、まるで知らない組み合わせがあった」
動かすことすら億劫な口が、勝手に言葉をつむぐ。
「でも、個別の効果なら、知っている」
本来、薫物は香りを楽しむためのものだ。
けれど、香り高い木に合わせて、薬草をたくこともある。いくつも組み合わせれば、それ自体が術となる。
「組み合わせた結果も――――予測は、つく……」
わたしは里のものとして教育をうけることはかなわなかった。
けれど、母は違う。いつかのため、と自分の知りうる全てを教えてくれた。わずかに持ち出せた形見の中には、香―――とされる、薬に関するものも、あったから。
「避妊効果よね」
だから、すぐに分かった。
それだけなら、香という形ではなく口にしているという違いがあるけれど、わたし自身も使っているのだから。
「でも、それだけじゃ、どうやっても。余るのよ。それだけじゃないものが、まじってんのよ………っ」
そんなもの、わたしは使ったことなんてない。
けれど、効果は予想できる。
あの香の効果は、安らかな眠りに誘うもの。子を孕まぬようにとさせるもの。
けれど、わたしが飲んでいたそれと決定的に違うのは。
「……あとひと月」
違う、のは―――…
「気付かなければ、終わっていたのだがな」
「効果は」
「お前の予想通りだ」
あっさりと肯定されて、目眩すら消える。目眩なんてしないのに、立っていることもできなくなった。
「……予想……通り……?」
「驚くことのほどではないだろう」
あの薬、最後の効果は。
子を孕まぬようにと、身体を作り変える効果が、あること。
一時的に防ぐのではなく、永久に。身体の中でその動きを止めること。
このところの体調不良の原因は、きっとそれだ。
無理やりに身体を作り変えられる違和感が、そうやって現れた。
それ、なのに。
「最初から言っているだろう。お前は私のものだと」
それなのに、告げられる声は、言葉は。
いつもと、なにも、変わりなくて。
―――ほんとうに、わたしばかりが、動揺させられて。踊らされて。
そんなつもりはなかったのに、まるで。
裏切られたように、痛くて。
「………ねえ、あんたは」
力の抜けた手を床についたまま、呟く。
「なにをしたいの。なんでそこまでされなきゃいけないの。…わたしが、なにかしたの」
いっそ殺されるのなら。
それならば、ここまで恨まない。
母が死んだ時点で、わたしは死んでも不思議ではなかったのだから。恨みは、しない。清々する。
でも、どうして。
好き勝手に身体をいじられなきゃいけないの。
子供なんて望める環境じゃない。産んだとすれば、それはわたしと似たような扱いを受ける。下手をすれば、共に殺されるかもしれない。
だから、だけど。
夢くらいは、見ないことも、ないんだから。
もう――――…いい加減に、してほしい。
「なにかした、とお前は思ってないだろう」
「……そうよ」
わたしはなにもしていない。
生まれて、生きて。それがいけないととがめられて。
余計なことをする暇など、何一つなかった。
「お前が『なにか』したなど、私も思っていない」
奴は笑う。
笑いながらかがみこみ、こちらの耳元で囁く。
「暇だったから」
胸の奥が痛い。目の奥は熱い。
あの冷たい夜に差し出された手が、どんなものか。知っているつもりで。
まるで、期待でもしていたように。
ぎりぎりと。なにかが千切れる。
「…暇で、人に手を出すの」
「そうだな」
「…暇で、人に子供孕めない身体にしようとするの」
「そうだな」
「…暇で、…暇で、そこまで、人を使うの」
「ああ」
立ち上がり、こちらを見下して。奴は笑う。
「なにからなにまで暇つぶしだ。…しかし」
心から楽しげな、
「人を、ではないな。お前を、使っている」
心の奥底から、こちらを踏みにじるのが楽しいと。笑う。
「『愛してる』よ藍」
こんなにも満足げに笑う顔を、始めてみた。
「ありもしないものにすがるお前の、そのすべてを。
分からんな。ぬくもりとはそこまで欲するものか?」
満足げで、幸せそうで。
言い返すべき言葉を忘れる。
「理解できないが、いいさ。
欲しいのなら何度でも与えよう。
何度でも、何度でも」
「……あんたに取り上げられるために?」
ようやく取り戻した言葉は、意味のない羅列。
「言わなければ分からないか?」
予想と寸分たがわぬ笑顔に、千切れたなにかが形を変えるのがよく分かる。
「…………あんた、は」
期待とか、夢とか、捨て切れていなかった、そんなものが。
冷え切って、形を変える。
「あんただけは、絶対わたしが殺してやる…っ」
吐き捨てたわたしに笑うそいつの、幸せそうなことと言ったら。
「いつでもやれ。できるものならな」
他にないからこそ、許せなかった。
許せないと、思うたび。
目の端に、赤がちらつく。
血の色をした、なにかがちらつく。
もしも、その感傷を。
もっと綺麗に、名づけていたなら。
きっと、心穏やかに、思い出にできたのに、ね。
要裏な補完話があるけれどまあ、別にいらないやと言うことで。こじれた理由だけ書いてみました。特に良いところが見つからない族長はヤンデレいうより病んでるです。いやまあどうでもいいですが。
2011/10/30