ざあざあと雨が降り、死にかけの少女から力を奪う。
そのようなことがなくとも、彼女の命は吹けば飛ぶような儚いモノ。
徐々に短くなっていく己の呼吸音に気づかぬまま、彼女はぼんやりと思いだしている。
崖の上に、ある学園。
ある学園の下の長閑な町で、少女は生まれ育っていた。
7
―――少女は思いだす。
よくわからない学園とやらが崖の上にあるお蔭で、少女の町は長閑だった。
長閑で、その分強く脅された。
かつては親から、少女が長じてからは、恋人から。
「この町から出たら、君なんて真っ先にモンスターに食われてしまうさ」
だから俺から離れるんじゃないぜ、と。
意地悪い顔でそう囁く恋人に、少女はうっとりと身を寄せた。
―――少女は、しあわせだった。
自分を抱きすくめる、たくましい腕。
その腕に身を寄せながら、彼女は思っていた。
大丈夫。
大丈夫だわ、今度こそ。
己に身を寄せる少女の髪をいじりながら、男は薄く笑う。
僅かにアザがある細腕を優しくなでれば、それだけで少女は幸せそうに微笑んだ。
少女は幸せだった。
自分を守るように抱きしめる、力強い恋人。
守ってやるさと囁く声。
それらと共にあると、息苦しいほどに高鳴る胸が、彼女の生きる幸せ。
少女は恋をしていて。
少女は幸せだった。
「君なんて俺がいないと生きていけないだろう」
「ええ」
「だから離れない。―――いいや俺も離れられないさ。愛しい君からはな」
「…嬉しい」
「一時も離れたくないんだ…」
甘い言葉と共に、彼は彼女を抱きすくめる。
痛みを与えるほどの抱擁にうっとりと笑って、彼女はそうね、と頷く。
一時も離れたくない。
どこにも行きたくない。
君といないと気が狂いそうだ。
囁く恋人は、それでもたまにふらりと数日帰らない。
どこに言っているのかと聞けば、曖昧にはぐらかされる。
可愛い女の子が似合わないような、キケンなところさ、などと。
―――実際、危険な場所にいっていたのかもしれない。
ふらりと姿を消した後の恋人は、どこかにケガをしている。
怪我をしていなくとも、ぐったりとしていることが多かった。
「病院に行って、なおさなきゃ」
「…やめてくれよ。そんな金はないんだ」
不機嫌に言う彼に、彼女はびくりと身をすくませる。
けれど彼女はすぐに笑って。
己の家のソファに横たわる青年へ、小さな紙袋を差し出す。
「そんなこと、心配しないで。
大丈夫よ。わたしも、あなたを守ってあげたいんだから」
「……情けねぇな。俺。
惚れた女にこんなことさせてよ…」
すまない、と繰り返す彼に、彼女は笑う。
本当に幸せそうに。心配しないで、と繰り返した。
そうして彼女は彼といた。幸せな恋人同士として、過ごしていた。
けれど、いつからだろう。
彼がふらりと姿を消す頻度は多くなり、戻ってくるたびにひどく荒れた。
ひどく不機嫌な顔で、ひどく冷ややかな声で。彼女をののしる。
手をあげられたことも、幾度か。
そのたびに、彼は言うのだ。
「愛しているんだ。だからさ。つい、気が高ぶる。それにな。愛しているから。君の間違いを正さないと……でも」
こんなことをしていたら、君はいつかいなくなってしまうな。
彼女が頬を腫らす度、彼はボロボロ涙を流した。
熱を持った頬に冷たい滴が落ちる感覚に、彼女は曖昧に笑う。
体の痛みは、心の痛みは。笑うことを拒否しても。
彼女の中の恋心は、自然と笑みを浮かべて、青年の頭を抱く。
「大丈夫よ。
わたしが、ずっと。ずっといるわ」
彼女の耳に、ああ、と嘆息する声が届く。
ああ、ああ、と感極まったように言う彼は、愛している、とだけ繰り返していた。
愛している、と。
その言葉が彼女にとっての真実だった。それだけがキラキラと輝く、宝物。
―――だから彼女は、それ以外の声を聞くことができない。
あなたはまた、そんなのにひっかかって。
やめなさいよ、今度こそ。今度こそなにがあるかわかったもんじゃない!
周囲の善意の忠告は、彼女には聞こえない。
聞こえないまま、言われるまま。
時には金を、時には身体を、なによりも心を―――
すべてを差し出した少女の周りには、いつのまにか。
本当に、青年以外がいなくなっていた。
「…ああ。お前はかわいいな。愛してる。愛しているよ」
「…ええ。愛しているわ。わたしも」
今日も強く抱きしめられて、少女は笑ってそういう。
血を流しピリピリと引きつる唇を笑わせて、幸福そうな笑い声を上げる。
彼はその様子を楽しそうに見て――――
二人は。楽しそうに笑っていた。
少女はそうして幸せにすごしていた。
―――けれど。
青年が彼女の元を訪う頻度は、どんどんと少なくなっていく。
彼女は、そのことに気づいてはいなかった。
彼を支えるためにと汗を垂らして働く少女は、アザだらけの身体をかばって働く彼女は、そのことに気づかなかった。
だから彼女は、どこまでも彼のために尽くして――――
「なぁ。化け物殺し達の怪しい学園がある崖があるだろう? そこへ行ってみよう。お前に、見せたいものがあるんだ」
だから。
ある日、ことさら穏やかに微笑む青年が言った言葉にも、何の疑問を抱かなかった。
彼と彼女が歩くのは、崖を上る細い道。この日、降り続く雨も手伝い、ひどく歩き辛い道。
常に歩き辛いその道は、上にあるのが、必要ではあるが不気味な魔法使い達が集う学園であることも手伝い、誰もいない。
何の疑問も抱かぬまま―――もはや考える力が弱りはてた少女は、愛しい恋人に手をひかれて楽しそうに笑う。
長い袖のワンピースの下には、いくつものアザ。
それを作りだした青年に、幸せそうに笑いかけている。
「ねえ。あなた。どこに行くの?」
「だからガケのてっぺんだよ。なんで忘れてるんだ、馬鹿だな。
……学園の前に、珍しい花があってさ。お前に見せたいんだ」
「…そう。楽しみだわ」
一拍遅れて同意する少女。
頷いた拍子に、淡いブロンドが揺れて、青い瞳が瞬く。
藍らしく整った顔には、今日も幸せそうな笑みが刻み込まれている。
「……お前はかわいいな」
「嬉しい」
「馬鹿で、俺がいないとなにもできない。可愛い女だ」
「ええ」
馬鹿にするような―――馬鹿にして見下す声にも、少女は笑顔で頷く。
―――痛いのは嫌で、ののしられるのは嫌。
それを避けるために、彼女は笑っていた。
にこにこと、壊れたように笑う少女を、青年も笑顔で見つめる。
「…でも、よぉ」
華奢な指先に絡めた手をほどき、底冷えするような冷ややかさで満ちた瞳を彼女に向けて。
おかしそうに、笑って。
「でも、もう」
ぎゅっと、彼女を抱きすくめた後―――
「お前は邪魔だ。いたら困る」
少女はどん、胸を押された。
細い身体はふわりとかしいで、その腕は捕まる場所を探して彷徨う。細い道から落ちてしまわぬようにと、必死で。
必死であがく少女の指先に、青年の指が触れる。
確かに触れた恋人の手は、細い手の平を刹那握りしめた。
確かに握り締めて――――
冷たい笑みと共に、崖の下へと突き落とした。
ざあざあと。
雨の音に紛れて、彼女は彼の笑声を聞いた。
どん、とすさまじい音を聞いた少女は、大きく目を瞠る。
―――否。
全身に走った痛みに目を見開き、何かから逃れるようにごろりと転がる。
けれど、そんなかすかな動きすら、今の彼女には困難だった。
ぬかるんだ地面に触れる度、おかしな方向へひしゃげた手足が痛む。
悲鳴を上げたはずの喉が、ヒュウと細い呼吸だけを吐き出した。
やがて、壊れかけの身体が空を見上げる姿勢で地面に横たわる。少女はああ、と小さく嘆いた。
―――わたし、死んじゃうんだ。殺されちゃうんだ。
気づいても、憎悪はない。
ただ、川の音と雨の音を聞きながら、己の死を受け入れる。
だって、ここは崖の下だ。ごうごうと凄まじい音を立てる川と、不気味な森の広がる場所。きっと、誰も見つけてはくれない。
もし探しにきてくれても―――間に会いはしない。
こふ、とせき込む彼女の胸から、骨が潰れるような音が聞こえる気がした。
ただ。なぜ、とだけ思う。
彼女の遥か視線の先には、先ほどまで歩いていた道がある。
そこに、愛した男の姿はない。
姿がないことを確信しているからこそ、嘆く。
――――なんでこうなってしまったんだろう。
愛してた。愛してる。
薄い唇。少し冷たい、たくましい腕。意地悪く、甘い声。
思いだすと、全身の痛みとは別の理由の涙があふれる。
心の痛みが、涙を生み出し続ける。
―――思えば自分は、何時もこうだった気がする。
いつも懸命に誰かを愛す。
けれど最後には捨てられる。
―――あんなに頑張ったのに。なにもかもささげて。いろんなことも我慢して。なのに。
どうしてこうなったのだろう。
動かない体の中、ただ脳だけは動いていく。
これまでのことを思い出し、ぽろぽろと涙を作る。
彼は。
彼女を殴りながら、笑っていた。
『馬鹿だなあ』
『君は馬鹿だから。仕方ないんだよ』
『こうしてちゃんと覚えさせないと、忘れてしまいみたいだからさ。…お前が誰のモノなのか』
痛いと、やめてと。何度も言った。
けれど笑う彼は言う。彼だけでなく、彼女に関わるものはよくそう言った。
お前の言葉など聞いていないと。
だから自分が何をしようと、文句を言われる筋合いはないのだと。
「……ばかみたい」
なぜ。
恋人が他の女と歩いていたことを咎めただけで、そのようなことを言われなければならないのか。
最初に殴られた理由を思いだしながら、彼女は笑う。
笑っていると思った彼女の顔は、もうピクリとも動かないけれども。
彼女は強く、自分を嗤った。
―――馬鹿みたいで、価値のない女。
彼女とてわかっていた。本当は、彼の言葉が嘘だなんて、わかっていたのに。それを認めてはみじめになるからと、しがみついた。愚かな女。
分っていた。愛の言葉は嘘っぱちで。彼はもう―――彼女の名前すら、ろくに呼んでくれなかったのに。
きっとふらりと姿を消している間、自分のことなどこれっぽっちも気にしていなかっただろうに。
それなのに、乱暴に来いとだけ命じて、気まぐれに愛でて。気まぐれになぶって。それだけだったのに。
なんて馬鹿で、愚かななんだろう。
―――だからなのかな。
わたしにもっと魅力があれば良かったのかな?
誰も無視なんてできないくらい。大事にしたくなるくらいの。きらきらと輝く魅力があれば、良かったのだろうか。
誰かに―――愛してもらえたのだろうか。
ざあざあと雨が降り続ける。
―――寒い。
訴えるための唇は痛みで凍え、もはや途切れがちの呼吸を紡ぐだけ。
―――誰か。
助けを呼ぶための手足はひしゃげ、もう元には戻らない。
―――誰か、わたしを。見つけて。呼んで。一人は、嫌。
ざあざあと雨が降り続ける。
彼女からすべての力をさらうように。
声なき声まで押しつぶし、すべてを流してしまうように。
少女の呼吸は浅く、短くなっていく。
それでも―――雨と泥で濡れた唇は、小さく言葉を紡ぎだす。
「…………………に」
愛されたかったのに、と。
彼女の最後の言葉が、最後の涙が。
顔中の泥を一筋だけ洗って、地面に吸い込まれた。
雨の音が聞こえる気がして、彼女はそっと目を明ける。
けれど、目の前に広がるのは、古い木目の天井。
頬が濡れているのは―――彼女の目から滴る涙。
少女はぐるりとあたりを見回す。
見慣れた、いつの間にか見慣れて居た景色を見渡して―――
傍らの少年を、ぼんやりと見つめる。
穏やかな寝息を立てる、意地の悪い少年。
―――いじわるで、いつもしかめっ面で。全然可愛くないわ。あなたなんて。
すべてを思いだした少女は、淡く笑う。
淡く笑って、恋する少年の手を強く握った。
「…………なにをやっているんだお前は」
ばちっと目を開けて、心底嫌そうに言うテオフィル。
冷たい、こわばった言葉に、彼女は何も言わない。
ただ微笑み続ければ、彼の顔が曇る。
「…何を…泣いているんだ。お前は」
濡れた頬に気づいた彼の顔は、ますます曇る。不思議そうに、嫌そうに。
けれど彼女は笑う。涙の名残を拭わずに、にこりと。
「…ヴィオリナ」
「は?」
微笑んだままいう彼女に、彼は怪訝に眉を顰める。
「わたしの名前。
ヴィオリナ」
少女は、ひどく困惑した顔の少年を抱きしめる。
か弱い、すがるようなその腕を。少年は拒まない。
拒むこともできないくらい、彼は驚いていた。
「…ねえ。テオ。呼んで」
―――夢魔らしくないと思っていた。
モンスターらしくないと思っていた。
ただのエサである人間に、好きだ可愛いと繰り返し。
出ていくこととも、無理やりに餌食にすることもしない、その姿。
その姿が、あり得ないと。少年はずっと思っていた。
「わたしを呼んで、テオ」
「…お前、は」
つまらないものにいちいち喜び、何度も笑う。その姿は――――
「…夢魔というより、霊なのか」
まるで、ただの娘のようだと。何度もそう思っていた。
―――けれど。
「なんだよ。お前……死んでたのかよ」
ぼうけた様に言う彼に、彼女は笑う。
淡く、儚く。
大きな瞳から、一筋涙を流して。頷いた。
2015/10/12