入学条件は、優秀な魔法使いになる可能性があること。
そうして高い魔力を秘めた男子だけを集めた、学園があった。
それは高い崖の上にある、伝統と格式とを誇る学園。
外界から隔たれた麗しき象牙の塔。
その古びた寮の廊下を、音もなく行く少女が一人。
女子禁制のその寮にいるはずのないその少女は、足音一つ立てずに濃紺の絨毯の上を歩き―――
ある扉の前で、うっとりと手を合わせた。
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カーテンから漏れ出る月光に照らされ、暗い室内に少年の顔が浮かぶ。細くとがった顎。眠りに落ちているにも関わらず、眉間によった皺。真っ直ぐな薄茶の髪。
それらすべてが合わさって、どこか神経質に映える少年だ。
規則正しい寝息を立てるそんな少年を、少女はベッドで脇で眺めている。
胸と腰を申し訳程度の布で覆い、長い髪を背に流すままの少女は、再度うっとりとため息を落とした。そして、そっと彼へと覆いかぶさる。
家具と同じく年代モノのベッドは、しかしなんの音も立てない。
羽毛のような軽やかさで少年の唇へと己の唇を近づける少女は―――
べちり、とたたかれた。
「――――ったあ!」
派手に額をたたかれた少女は、大げさにそこを抑える。
滑らかな褐色の肌には、傷一つない。
それでも大きな瞳を潤ませて、恨めし気に少年を見やる。
「…なん…、お前、なんだ!?」
にらまれた少年が、己にまたがり額を抑える少女に送るのは、驚愕の目線。
―――なぜ。こんなところに。女が。どこから。いったい。
まさか、これは。
胸にわだかまる言葉のどれも口にできないまま、パクパクと口を開け閉めする少年に、少女はふっと笑う。
「なんだ、なんて。愚問だわ。おにいさん」
囁きながら、彼女は再度半身を落とす。蒼い顔の少年の頬を両手で挟んで、彼の唇へと吐息を注ぎ込むような距離で続ける。
「こーんな可愛い女の子が、こうしてベッドの上。
夜這い以外の用事があるかしら」
「――――黙れよ、夢魔が」
熱いささやきに、冷え切った声が返る。
美しい青の瞳を見据え、少年は苦々しく言い切った。
「そう。わたしは夢魔。女だからサッキュバス。
分ってるなら、黙って身を任せてしまえばいいわ」
「どうやって、ここに」
押し倒されたままで少年は問いかける。
この学園は女人禁制。モンスターなどなお禁制。ボロボロに見える寮にはその手のものがたち入れない結界が張られている。窓を開けようが扉をあけ放っていようが、関係はないのだ。
この少女は―――夢魔は。そんなものを無視できるほど、強いのか。
思う少年の背に、じとり、と汗がにじむ。
彼の上に覆いかぶさるのは、実に美しい少女だ。頬をくすぐる髪は金糸のようで、触れている手はある種の上等な茶に似ている。怪しく笑む唇は、触れればどんなに甘いのかと胸がかきむしられるようだ。
けれど彼が感じるのは、生命の危機。
夢魔。人の眠るうちに訪れ、精をすするモンスター。その姿は麗しく、その体は極上品。与えられるのは甘美な夢。
けれど―――朝に待つのは、死だ。
少しすすられる程度で済むこともあるとは聞くが、これが結界を無傷で超えられるほど強力だというなら、死だ。
けれど。
「門番さんは一発仲良くやったら気前よくいれてくれたわ」
全身をこわばらせる少年に、ふふんと鼻を鳴らす少女は、どこか無邪気ですらある。
無邪気で、強そうには見えず。
―――なんか、間抜けっぽい。
「そこは働け警備員…」
間抜けっぽい、と思った瞬間。少年から漏れたのは呆れた声。
同時に、悟る。この夢魔が結界を無視できた理由。
「正式に『いいよ』って招かれたらね。モンスターはその建物に好きに出入りできるのよ?
わたしのように、人にイイコトするような種類のは、特に、ね。
こーんな立派な学校にお勤めの有能君に、今更説明するまでもないだろうケ・ド」
少年の鼻先をつんつんとつつきながら、語る少女は実に得意げ。
いまにも少年の両手を戒める手を腰にあて、胸でもそらしそうだった。
―――こんな間抜けそうなモノに襲われて死ぬのか、僕は。
あんまりに無念だ。無念にもほどがある。
「ねぇ。だから。逃げようなんて考えても無駄。―――食べさせて?」
甘い誘いに、少年はじっと目を伏せる。
混乱、怯え、呆れ。ほんの数刻の間にめぐるましく動いた少年の心からあきらめの心地が消えていく。カッと目を見開いた彼の胸にあるのは、怒りだった。
「なんで僕だ!
他当たれ!」
「んー。他、ねぇ」
怒鳴られた夢魔はぱちくりと瞬きし、ふう、とため息をつく。
「ここでは何人か夢でお相手したけど。
なぁんか、薄い。味が薄いわ。さすが若いモノばっかだし、欲でギラギラはしてたけど、若いからこそのワンパターンっていうかぁ…
女つれこんでるのもいたし……色々飽きちゃったのよ」
「お前何日前からここにいたんだ」
「今夜で三日ね。だから分かるでしょ。わたし、だぁれも殺しちゃいないわ。
そりゃあ、最後まですするのはすごくいいわ。でも、派手にやると討伐隊くまれちゃうし……わたし達だって世知辛いの。
だからね、自分を納得させてたのよ? いろんなものをおいしくつまみたいし、ちょうどいい、って。
それなのにあんまりおいしくないって…似たようなのばっかりって…あんまりじゃない」
「お前の事情なんて僕には関係ない。そもそも答えてないだろう。なんで、僕だ。
もっと性欲ありあまってる男のところにいけ!」
「嫌」
きっぱりといいきって、少女は笑う。
ぐちぐちと学園の男子を品評していた時とは打って変わった、華やかな表情で。
赤い唇をぺろりと自身の舌でねぶりながら、うっとりと。
「あなた、とてもおいしそう」
べろり、と。
つい先ほどまで夢魔自身の唇をなめていた舌で頬をなめ上げられた少年は―――
ぶつり、と。切れた。
自分の腕を戒めていた細腕を無理やり引きはがし、力任せに捕食者を殴る。
―――しかし、相手はモンスター。このくらいでどうにもならないだろうが、黙ってされるままなど冗談ではない! 徹底抗戦の構えで行くぞ!
少年はそうして跳ね起きようとして。
思ったよりずっとずっとすんなりと、起き上がることができた。
なぜならば。
「いったぁいっ! 痛いんだけど! ちょっとあなた! 信じられないっ! 女殴り飛ばす!? しかもこんなごちそうを! グーで!
なに考えてるの!? それが童貞ってものなの!? いいえ、それでも童貞!? もっとギラギラしなさいよ!」
なぜならば、妖艶な夢魔はベッドから転がり落ち、きゃんきゃんとわめいているから。
否。
妖艶な夜の住人だったはずの夢魔が、ただの小娘のようにわめいている。
そう。これでは小娘だ。しかも馬鹿な類の。
ベッドから落ちるその時に、派手な音が聞こえていないことや、秀でた容姿を除けば、まるで―――夢魔などというものに、見えない。
「…お前こそ、本当に…モンスターか?」
モンスターとは強いモノだ。恐ろしいものだ。だから魔法使いは重宝がられる。才能を見せればこんな世の果てのような学園に閉じ込められモンスターを狩るモノになることを期待されるのだ。
「っ、なぁにその目! こんな簡単に転がったのは実体化したからっ!」
いよいよただの娘のように言った少女が、すくと立ち上がる。
と、その体が透け、背後の壁が透ける。
『ほら、これならあなたなんて、わたしに触れることすらできないんだから』
「それでどうやってやるんだ」
お前も僕に障れないんじゃないのか、と。
馬鹿にするように問われた少女は、得意げに笑う。それは、先ほどよりほんの少し遠くなった声でも、実に得意げな響きだった。
『夢の中でするのよ。これまでは夢でごちそうになってたって言ったでしょ。聞いてなかったの? おバカさん。
…でも…でも、物足りないから、こうして出てきたのに…! この仕打ち…!』
透けた少女は言いながらぷるぷると震える。
至近距離で見れば吸い込まれそうだった非現実なまでの美貌の名残はすでにない。
軽く頬すら膨らませる姿にあるのは、ごくごく当たり前の愛らしさ。
そして、それは。
「…すごく、好みじゃない」
ぽろり、と。
少年の口から、実に素直な呟きが漏れる。
長く伸ばした髪の隙間からのぞける目は、既に冷え切っている。人ならざるものへの怯えなどみじんもない。
むしろ睡魔がちらつくようなその視線に、夢魔はぎりっと歯噛みする。
『プライド』
「プライド?」
『傷ついたわ、プライド』
夢魔の指は、少年の胸につきつけられる。
怒りで頬を赤く染め、彼女は高く言い切った。
『あなたをカラッカラッのアヘアヘにするまで!
わたし、あなたにつきまとわせていただきます!』
あんまりといえばあんまりな宣言に、少年はしばし言葉を失う。
血など通わないはずなのに、肌の色まで変えるとはどういうことだ、などと。どうでもいい言葉が浮かんだけれども。
けれども、ズキズキと痛み始めたこめかみに手を添えて、彼がようやく吐き出したのは、
「そんなこと言われたら、立つモノも立たない」
疲れ切ったその囁きに、夢魔は大きく舌打ちした。
2015/09/26