年下の妹分件同僚の部屋の扉を開けた望月玲人は、微かに眉をしかめた。笑顔がデフォルメの彼に珍しい、不愉快そうな表情。
「ちょっとはきゃーとか言えないの、君…」
「私は常に言いたい。お前の視界に入るたび。消えろと」
 心底苛立たしげに鼻を鳴らす少女は、宝蓮紫音。なぜか上半身裸。心底苛立たしげで嫌そうだけど、恥じらいはない堂々とした上半身裸。
 妙齢の少女の肢体が好きか嫌いかで問われたら前者。大好きだ。その上についているのが己を毛嫌いする女の顔ではなかったら。
 いや隠そうよせめて。浮かんだ言葉を飲みこんで、玲人はそっと扉を閉めた。

「へえ夏だから熱くて露出狂の道を歩んだとかじゃ、ないんだね」
「選ぶわけないだろう」
「この暑いのにヒトの部屋で大暴れして汗かくのはある意味露出狂よりおかしいと思うけどね」
 四つある椅子の一つに腰をかけ、苦笑しながら玲人。
 小さな冷蔵庫から冷えたグラスを取り出す部屋の主は、テーブルにグラスを並べながら笑う。
「しかたないだろう、御門が出たんだから」
「そうだね、紫音の本能だしね」
 特に仕方ないとは思っていない、言うならばどうでもよさそうな口調で言う紫音に、部屋の主ことマリシエル・ルーカスはにこにこと笑みを絶やさない。自分の部屋で暴れられたにしては温和な態度である。
 実際は、温和というより。景気よく2階の窓から投げ捨てられた御門雅輝に比べると、少しのことは我慢しなければと思っているだけなのだが。
「本能ってお前…」
 人を野生動物みたいに。浮かんだ言葉を飲みこんで、紫音はグラスに口をつける。
 え、事実じゃん、とか、まだ帰っていないつもりだったんだ、とか言われる気がしたから、黙る。
 いつもなら間違いなく口に出す言葉なのだが―――なにぶん暑い。
 紫音の出身は南方地方だ。ここ東方地方ではない。故郷の夏はここよりずっと暑かった―――が。ここまで湿気はなかったな、と少ししんみりと思い返す。
「…ま、紫音が大暴れしてるとか梅雨に雨が降ると同じくらい当然のことだから、どうでもいいけど…」
「なんだ、その嫌そうな顔」
 珍しくしんみりとした心地は、すぐにかき消える。嫌そうな顔というのなら自身の方がよほど相応しい顔をしていると気付かぬまま言う彼女に、玲人はし笑う。いつも通りに。
「嫌というか、感心した。すげえ似合わないね、君、そういう服が」
「あ、わたしも思った。美人は何でも似合う説に一石を投じたね」
「……しみじみということか、それは」
 二人揃って頷かれて、紫音は今身に纏う服をつまむ。マリシエルに借りた、ゆったりとした服。綺麗な桃色の、ゆったりとした作りの薄手の服。小柄なマリシエルには肩がずり落ちそうなサイズが、彼女にはぎりぎり入るか怪しいライン。フワフワ感は消えてしまっているが、愛らしい模様の入った服。
「…ガラじゃないからな。そもそも」
「でもこういうのって案外ギャップ萌えとかして紫音のファンとかに受けるかなと思ったのに。思った以上に似合わないね。やっぱ他の人にあげよ」
「待て。今お前怖いこと言わなかったか」
 紫音のファン―――それはファンというよりおっかけ。おっかけいうよりなんか怖い集団。
 蒼ざめた顔でつっこむ紫音を笑顔で流し、マリシエルは問いかける。
「ところで玲ちゃん。なんか話あったんじゃ、ないの?」
「ああ。そうだ。忘れてた」
 玲人は頷いて、なおもモノ言いたげな紫音へと向き直った。
「聖那から言伝。仕事あるから早く来て、って。
 そういえば3分以内に来てくれないと前考えた罰ゲーム試しちゃうかも☆とか言ってたよ、紫音」
「なんで私!?」
 がたりと立ちあがる音と共に、非難の声。
 上司からの命令をいとも軽い口調で後回しにしていた男は、涼しい顔で続ける。
「オレが呼べって言われたの、君だから。
 部屋尋ねてもいなかったから、こっちかなと思って。それでもいなかったら電話でもいれようかと思ってたけど。その必要もなかったね」
「いやそういう話ならとっとと言えよ! 呑気に茶ぁしばいてる場合じゃないだろう!」
「いや、オレは呼ばれてないし。呑気に優雅にお茶飲んでても、別に困らない」
 なおも軽い口調で言われて、紫音はまなじりを吊り上げる。
「私が困るのはいいんだな…!」
「何を今更。聞かなきゃわからない?」
 怒りを隠さずに低くなる声にも、答える笑顔は変わらない。
 悪びれるどころか楽しげな様子に紫音は拳を振り上げかけ――――顔を逸らして問う。
「あいつ、どこだ」
「執務室」
 言葉少なめの問いに合わせて、一言で玲人。
「そうか」
 お前とは口を聞きたくないと常日頃宣言しまくる彼女は、珍しく言葉を続けた。
「望月」
「なあに?」
「後で殴らせろ」
「絶対嫌」
 後でと言うわりに今まさに顔面を狙いに来た拳を避けつつ、玲人は言う。
 かわされたことにだろう、心底悔しげな顔をする彼女は、それでも足早に駆けだす。
 ばたばたと出ていく忠犬もとい同僚の背中を見守った後、黙って二人を眺めていたマリシエルは、ぽつと呟く。

「…紫音は真面目だねえ、普通伝言頼まれた玲ちゃんの方が怒られるようなもんなのに」
「急ぐなら自分で呼びつければ紫音は2秒でほいほい出ていくのに、わざわざオレを通すって。大した用事じゃなってことだと思うよ」
「そうだね。わざわざ玲ちゃんに頼むとか、紫音に嫌がらせしたい気持ちだったんだよね」
 面白がるように明るく言った少女は、グラスの残りを一気に飲みほす。
 その満足げな顔に、彼は小さく声をあげて笑う。
「君、オレをさりげなくけなしてるよね」
「やだな。わたしは、玲ちゃんが好きだよ、わたしは」
 だからあげるね、と笑顔と共に茶菓子を差し出してくる妹分に、玲人は再度静かに笑った。
 バターの香りのかぐわしいクッキーを口に放れば、ほろりと崩れ、甘く溶ける。
 さて彼女は今頃3階にある主の部屋にたどり着いた頃だろうか。たどり着いても、遅れたのをネタに遊ばれると分かっているのに、つくづく忠実な忠犬体質だ。
 そちらを想像する方が、よほど甘い。人の不幸は何とやら。
 玲人は言葉にしないまま、汗をかくグラスを傾けた。

秋→