「…暗いねえ」
「暗いな」
「マスターとても胃がいてえの」
思わず呟いた私に、同意する声は二つ。
暗いと言われた炎龍は、それも聞こえないようにぼけーっと水をやり続けている。
交わる痛み
「…まあ、いつかはまたこういうことがあるんだろうなあと思っていましたが。実際にあるとなんというか胃が痛いですね」
「違うよ、マスター。同じじゃないって。あの時でてったのはベム君でしょ」
「…そういえばそうねえ」
お腹、というよりは胃のあたりを押さえながら、ふふふと笑うマスター。
そんな顔をするのなら、もっと口をだせばいいようなものだけど。………まあ、緋那は彼女に善意の忠告とかじゃなくて、口を出されたら主の命令、としてとっても迷わず実行してくれそうだし、できないだろう。
「…今どこにいるんだろうねえ」
「まあ、遠くに行ってないんじゃないかな。すぐ帰るっていったんでしょ」
「でも君らには翼があるでしょうー。遠くにはいってるかもでしょうー」
「…まあねえ」
まあ、その通りだが。やっぱり早く帰ってくることだってできるんだから、別にいいだろうに。
…マスターはわりと心配性だ。
まあ、心配も、するか。じーっとみられているのに気付くそぶりもなく、植木鉢からあふれるほど水注いでいる姿なんか、みたら。
「…本っ当、暗い」
そういう重っ苦しいところが鬱陶しいのよ、ベム君は。
じとりと目が据わるのが分かる。まったくもう、緋那に苦労かけさせる竜なんて敵なんだから。やっぱり嫌がらせって言うか邪魔、再開しようかな。
ああ、でも。
でもたぶん。緋那、それも嫌がるんだろうな。
「…ま、暗いけどとりあえず元気に動いてはいるし、変な塔作らないし。大丈夫だろ」
「…いやまあ、そうかもだけど。そうかもだけど…!」
重苦しい沈黙を嫌がるように、メー君は言う。頷くマスターの言葉は、なんだか自己暗示っぽい。
「俺らが心配してもどうしよもないことだし、黙ってみてりゃいいんじゃねぇの」
「ああ…自分のことで手いっぱいな君がいうとなんて説得力があるんだろう…」
「じ、じめじめと失礼なことをいうな、お前よ…」
なおもなにかとぶつぶつ続ける二人に、構わず。そっと立ち上がる。…確かに、私が心配したって。どうしよもないことなんだよね。
「磨智? どっかいくの?」
「そりゃ、こんなところでベム君のストーカしててなにが楽しいの。夕飯の買い物がてらお散歩」
「…、じゃ、俺も行く」
同じように立ち上がるメーくんに、マスターはあ、と声をあげる。
なんだか現金にも元気になったような声で、
「じゃあね、お酒買ってきてー。料理酒が切れたの」
「そうだね、荷物持ちがいるし。ついでにおイモもたくさん買ってくるよ。この調子なら明日も天気いいよ。焼き芋しよう、焼き芋」
「わーい。じゃ、たくさんね。スイートポテトもしたいから!」
「持つの俺だからって遠慮ないな!?」
ついには万歳まではじめたマスターに、彼はびしりとつっこんだ。
すごく嫌そうだ。別に重いの苦にならないのに。
すごく嫌なんだろうな。荷物持ちって響き。
「……持ってくれないの?」
でも、にっこりと笑いかけると、なんだか赤くなってそっぽをむく彼が、とっても好きだと思う。
「……とっとといくぞ! とっとと!」
いつまでもこの調子なのが、とっても不満な時だってあるけれど。やっぱり基本的には愛すべき点だ。…面白いから。
肩を怒らせて玄関に向かう彼を追う前に、ちらりと窓を見る。
裏庭に面した、四角い窓。
それに切り取られた景色の中、彼はやっぱり微動だにしていなかった。
「………?」
足元に冷たい感覚を感じて、はっとする。
みれば、如雨露から植木鉢に降り注いでいるはずの水は、なんだかあふれて地面を濡らしている。足元がじっとりするほどに。
「……ふう」
…またぼうっとしているのか。
しばらく留守にするから、とここを頼まれてから。たった三日しかたっていないけれど。まだ三日なのか、とそう思う。そう思っていると、こうしてぼうけている。
「……」
確かに馬鹿だな。この程度のことで、こんなに崩れて。
馬鹿なんだろうな、たった一つ。たった一つ大事なものに、うまく接することができなくて。
けど、しかたない。
一目見た時から、馬鹿になってしまったから。仕方ない。
変えることなんて、できる自信は、ない。
「……」
緋那、と呼びかけかけて、止める。とっくに空の如雨露をもって、ぼんやりと空を見上げる。
空を見上げて、そうして。
昔はあっという間に時間がすぎていた。
今は、空気の動きがねっとりと肌を撫でているような気が、するだけだけれど。
三日間、時間だけはありあふれてしまったから、ずっと考えていた。
あの悲しそうな顔の意味。
なにかを、…きっと、僕にまつわるなにかを、悲しんでた顔。
怒られるのも呆れられるのも慣れたものだけど、あんな顔。数えるくらいしか見たことない。
そもそも、そんなに悲しそうな顔をする龍じゃ、ない。
失敗すればすぐに次に向かって。誰か困ってたらさっさと手を差し伸べるか、無視するか。あっさりと潔く、いつだってきびきびと動いて。
悲しむよりもできることがあるだろうと、以前口に出していたのを覚えている。
緋那のことなら、他のことだって覚えている。
綺麗なもの、特に自然由来のものが好き。手をかけた花が咲いた時は、とっても嬉しそう。僕のあげるものは、大抵困った顔をする。小さい小物とか、あんまり手のかかったものじゃないと、最近は嬉しそうな顔だと、思っていたけど。
嫌いなものはうるさいものとか、意味のわからないもので。だから嫌いだった、と。呟かれたのは、以前二人でいった小旅行。ずっと磨智が心配でたまらないって顔でいた、あの時のこと。そういう顔も綺麗だと浮かんだ言葉を飲み込めば、傍にいることはできた。やっぱり口に出してしまって、呆れられることの方が、多かったけれど。
…褒められると、嫌がるんだよな。
そんなんじゃないって、そんな風に。
緋那の全部が好きだけど、そういうところは、あんまり好きではないかもしれない。
仕方ないじゃないか。好きなんだから。仕方ないじゃないか。よく見えるから、好きなんだから。
「……」
嘘だと思われていたのだろうか。世辞だと思ったいたのだろうか。
嘘が嫌いな彼女は、だから答えてはくれないのか。
「…そうだと、したら」
たぶん、僕は。一生答えてもらえない。
どうしたらいいのか、わからない。
今だって、分からないのに。余計に分からなくなる。
「……」
でも、諦めることだって、できないんだろうな。
不意に吹いた風が思いのほか冷たくて、ぶるりと身体が震えた。
早く入らないと、冷えるばかり、か。
中途半端な時期は、体調を崩しやすい。
それも彼女の言葉だなと思いながら、踵を返す。
早く、帰ってきてくれたらいい。
貴女の探しているものが、なんだっていい。
ただ、ただ。顔をみたくて、仕方ないから。
「………緋那」
今度は、声が漏れた。
一度呼んでしまうと、何度も呼んでしまいそうだから。しまっていたのだけれど。
『―――…ああ」
まったくもう、重症だな。
そう思うよりも早く、声が聞こえた。
ばさり、と羽ばたく音を聞いた。
振り向くと、そこにあるのは。
「……ただいま」
ぱん、と服を払う、緋那の姿。
「………お……おかえり」
伸びかけた手を、無理やり拳にする。今手なんて伸ばしたら、確実に抱きつく。そして、確実に怒らせる。
そんなことになったら、いつも通りになってしまうかもしれないから。
怒らせるわけにも、泣くわけにもいかなくて。―――僕は。
「…待ってたから。話。聞かせて」
「………そっか」
頷いたその顔は、やっぱり悲しそうだ。
でも、庭をぐるりと見渡すと、ほんの少しだけ安心したようにも見えた。
「……その前に、ついてきて」
今まで見たこともないようなその顔は、くるりと背中に変わる。
それ以上言葉が続くことは、ない。ないけれど、傍に行っても、拒まなかった。
…いいのかな、顔、見せなくても。
ちらりとよぎった疑問は、離れたくないという想いの前ではあんまりに儚い。
だから結局尋ねたのは、別のこと。
「どこ。行くの」
「……別に、どこでもないさ」
らしくない言葉に、思わず目をみはる。
なんだろう、この雰囲気。
すごく、すごく、悲しそうなんだけど―――
「…たまに、お前と、歩きたいだけだから」
それでも、傍にいることは、許されていたのか。
じんわりと視界が歪む。
それでも少し先を行く赤だけは、とてもよく見えた。
報われなくても、答えがなくとも。
やっぱり諦めることなんか、できそうに、なかった。