馬鹿、と呟いたその顔があんまりに悲しそうだったから。何も言えなくなった。
 何も言えなくなったけれど、何を感じなかったわけでもないらしい。
 自分の作り上げたらしい変な塔を見上げて、溜息をつく。いつのまに、何をどうやって作ったんだっけ、これ。
 …片付け、どのくらいかかるだろうな。
 けれどそれが終わったら聞こう。なんでいきなりそんなこと言ったのか。
 そのくらいは許されていると、思わせてほしい。

崩れる境界

 昼が終わり、皿を洗っている緋那を見つけた。昨日と同じ光景。ぴんと背中を伸ばした姿も、いつもと同じ。
 同じでも、どうしても固くなるのは、あの顔を思い出すせい。
 それでも呟いたのは、口になじんだ名前。
「…緋那」
「……。……なんだ」
 少し間をおいて、答えは返って来た。
 固く、どこかぎこちない声だと思う。こちらを振り返ってくれない姿と相まって、遠い。
「……僕、なにか嫌がること、した?」
 あの顔は、なにかあった、とか。そういう理由じゃない気がして、そう聞いた。
 心辺りはないけれど、何を嫌かと思うかなんて、自分にしかわからないこと。気付かぬうちになにかをした可能性は、悲しいけれどある。
 だから、聞けばわかると思った。嘘やごまかしの嫌いな彼女は、答えると、思った。
「……してないよ」
 けれど、その声は、今まで聞いたことのないくらい、乾いたもの。
 じゃあじゃあと響いていた水音が消える。二人きりの台所に沈黙が落ちる。
「……お前、なにも、してないけど」
 沈黙を破って、ようやく振り向いたその顔も、なんだかとても。
 とても、強張っていて、乾いてた。
 どうしたの、と聞こうとして、口がうまく動かないことに気付く。
 ずきずきと痛みはじめた場所は、身体ではなく、胸の奥にあると信じられるもの。
 なんで、そんな顔をするの。
 そんな顔をさせたのは、僕なの?
 聞かなければならないはずのことは、いくつもある。いくつもあるのに、ただ引き絞られた眉を見つめる。
 生まれる不自然な沈黙に、緋那はふいと目をそらした。
「……ごめん。…でも、…でも、今。一人にして」
 緋那は小さく頭を下げ、足早に台所を出る。その間も、声は戻らなかった。
 玄関の開き、外へ出ていくことを示す音にも、うまく反応できない。

 …逃げられた。
 ………避けられた。
 あの表情が、物語る。
 はっきりと、避けられた。

「………なにか、したかな」
 一人で再度問いかける。答えはないし、心あたりもない。
 何も言わず、避けられること。
 出会った頃はままあった、でも久しぶりの感覚が、すごく痛い。
 胸が痛いとか、言いたいことを言えなくなるとか。そんなことをいつのまにか覚えていたことに気付いて、余計に痛い。
 愛されているとまで、思ってはいない。ただ、嫌われてはいないかと思っていた。もう、嫌われてもいないし。どうでもいいものでもないのだろうと、いつのまにか。
 待って待って、待ち続けていれば。何か答えはあるとばかり、思っていた。
 …自惚れだったのだろうか。
「………」
 ああ―――……
 ちょっともう僕旅にでも出てこようかな。
 なんかわりと死にたい気持ちだけど、このタイミングで死ぬと…、死ぬと、緋那が気にするし。たぶん、気を病むし。
 優しい彼女が傷つくようなことはしたくない。避けられても。
 …避けられて、も。
 ふらふらと動く足は、自然と自室に向かっているらしい。
 ベッドにたどりついてばたりと倒れれば、シーツになにかが滲んだ気がした。


 ―――そうやって、倒れて。
 ふと気付いたら、夕方だった。
 カーテンをひいていない四角い窓から見えるのは、明るい夕日。
 今日は、晴れていたのだな。
 ぼんやりとそんなことを思いながら、身体を起す。
 昼間から寝ているほど、疲れている気なんてなかったけれど。何も考えたくないと思ったから、しかたないのかもしれない。
 …何も考えずに、時間が流れていくこと。
 その感覚も、随分と久しぶりだと思う。遠くなっていたものだと思う。
 一人でいた頃は、それが普通で。そればかりだった。
 一人でたゆたうあの時間は、どのくらいの長さだったのか、よくわからない。森の中の奥深く、際限なくまどろんで、何も考えてはいなかったから、時の流れに興味がなかった。何も見ていなかったから、どんな時代だったのかもわからない。
 それが破られてからは、彼女のことばかり考えていた。
 彼女の姿が見たくて、彼女の喜ぶ顔が見たくて。でも、僕では中々見れなくて。生きることはなんて不自由なのだろう、なんて。思っても、昔のように戻ろうとした気はないから、こんなのは久しぶりで―――…
 なんだか、現実感がない。
「……緋那」
 ぽつ、と呼んでしまった名前が、現実に響いていたのかすら、よくわからない。
 あの頃のように、身体がなく生きている気がする。たった一言が痛くて、あの顔が痛くて。千切れてしまったかと疑う。
「…緋那」
 何か悪いことをしたなら教えてほしい。そうでないなら、そうでないと言ってくれたらいい。
 いっそ嫌われてもいい。あんな顔をされるよりは、ずっと。
 あんな苦しそうな顔をされるのなら、いっそ。
 自分を見ることで、あんな顔をするのならば、いっそ。
 うなだれて拳を握る。と、かさりと音がする。手に、乾いたものに感覚があった。
「……緋那?」
 角に小さな花があしらわれた、小さなメモ帳。
 その中に書かれた文字は、彼女のものだ。細くて綺麗な、性格が表れているような文字。

『 しばらく留守にするから 庭を頼む 』

「…………」
 大事なものを任せられる程度には心をゆるされていることに喜ぶべきなのか。
 落ち込んでいる間に本当に避けられているのを嘆くべきなのか。

 暗くなり始めた部屋の中、その手紙が少し湿っている気がする理由を、追求するべきなのか。

 分からないまま手のひらを重ねた紙切れに、彼女の名残など、残ってはいない。
 何も聞けなかったから、残ってない。
 黙って立ちあがり、リビングに向かう。
 狭い廊下を歩いて開いた扉は、思いのほか乱暴な音を立てた。
「緋那は?」
 ソファに座り、雑誌に目を通していたマスターは、僕の顔をちらと見て、少し顔をしかめた。
「…なに、すごい顔色だよ?」
「緋那、どこいる?」
「いや、買い物行くって連絡きて…、……確かに帰ってくるの遅いけど、そのくらいでそんな顔…」
 することないじゃんとでも続けようとしたであろう彼女に、メモをつきつける。
 短いそれに目を通して、彼女はきょとりと目を見開いた。
「……うちの女の子は、悩みがあると家にいたがらないね……」
 そうして、どこか悲しげに呟いた声は、遠い。
「つまり、マスターも知らないの」
「うん。…ま、いまから聞けば答えてくれると思うけど…、聞きたい?」
 胸元にさげた召喚石を指差しての問いに、僕はゆっくりと首をふった。
「………聞かれたくないなら、聞かないから」
「いいの? そんな顔色で無理されて倒れられたら私なすすべないんだけど」
「いい。…いい」
 頼むと言われたことがあるから、ただそれを守っていよう。
 だって今、そのくらいしか、できることが見当たらない。
 しばらくだといったのなら、絶対に帰ってくるから。
「……いい、よ」
「…全然そういうふうに、見えないけど」
 困ったようなその言葉は、気遣いからくるものなのだろうと分かる。
 そのくらいなら分かるようになったいまなら、黙って彼女を待っていることも、できると思うのだけれど。
 マスターはその顔のまま言葉を続ける。
「…君も緋那も、無理してばったり倒れちゃいそうで怖い」
「…そう簡単に倒れない。僕達はこんなんでも頑丈なんだから」
「そうかな。君は緋那にふられたらうっすら透けて夜明けと共に消えそう」
 真面目な顔をしての言葉に、とっさに言い返すことができない。
 いや、さすがに。そんなことはないのだけれども。
 彼女に拒絶されて、自暴自棄になって。いっそ死を選ぼうかと思った衝動は、今もまだ残っている。かつてマスターに強いた言葉を、忘れてはいない。
 緋那に選ばれなかったら、いっそ引導を。
 その言葉は随分前に撤回した。撤回したけれど、それは。…それは、今思えば。自分のためというより、周りのためだ。
「…龍は不便だねえ、ひとは少し心が痛くても消えやしないけど」
「…龍も消えない。心が痛いくらいでは」
 消えられないから、彼女にあんなことを言ったわけだし。
「……私、君と緋那がなにをそんなに思い悩んでいるか、知らないけどさ。相談なり我儘なり、聞けた方が嬉しいよ」
 へにゃりと唇を曲げて、彼女は立ちあがった。だから、見下ろしていた視線が同じ高さへと変わり、ほんの少し近くなる。
 近くなって、少しだけ思い出す。現実感とか、身体がある実感とか。そんなものを。
「……どっちも勝手に消えたら、そりゃあもう頑張って勉強して呪ってやる」
 随分と後ろ向きなことを妙に前向きな態度でそう言って、彼女は背中を向ける。
「…勝手じゃなきゃ、うらまないの?」
「どんな形になっても、自分で納得した結果ならねえ」
 僅かに暗さを増した声が、それが嘘だと伝えている気がしたけれども。追求することはしない。
 自分のことで手いっぱいすぎたから、しないまま。緋那の代わりに台所に行くのだろう彼女を、追う気にはなれなかった。

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