例えば、不意に見上げると、空を見上げて、空の高さに驚いたりする。
例えば、町を歩くと、冬の準備を始めた木々に驚いたりする。
日が落ちる速さに驚いて、冷えてくる気温に驚いて。
そんな風に、近づく冬に気付くみたいに。
何の意識もしていなかったことが、急に気になるなんて。
たぶん、おかしいことではないのだろう。
散らばる破片
「緋那ちゃん、じゃあ、私、ちょっと行ってきますー。おひるごはんは朱音さんちでおべんと買ってくねえー」
そう言って手をふりつつ町の清掃のバイトにでかけたかなたに、私も無言で手を振り返す。
………働いてるマスターって、いいなあ。
しみじみと胸を満たす感覚が幸福というものかもしれない。
あるいは、充実感なんだろうか。
ああ、かなたも立派になって、というか。
……こういう台詞はむしろ主が言うものじゃないのかと思わんでもないが、仕方ないだろう。かなただし。
そういう主を選んだのも私という奴だ、しかたない。
「なーに黄昏てるの? 緋那?」
「…たそがれてないぞ?」
「いや、…なんか、すごく、悟り開いたような顔してたけど?」
「…そうか?」
悟りなのか、かなたに抱いてる気持ち。
……遠くはないかもしれないなあ。
「…また遠い顔してるよ、緋那」
「……そ、そうか」
なんとなく照れて、こほんと咳払いすれば、磨智はんもー、と怒ったような声をあげる。なんでだ。
「緋那、最近ぼーっとしてるよ?」
「…え?」
覚えがない。
覚えがないのに、磨智は指を折り始めた。
「なんか必要以上にご飯作ってる時とかあるし、話しかけてもなんか一拍反応ない時とかあるし…、…大丈夫? このまま冬眠とかしちゃわない?」
「冬眠って、お前…」
龍をトカゲみたいにいうなよ。
…いやまあ、見た目は似たようなものだが、私は。
「そんなぼーっとしてる時はね、なんか新しいこと始めればいいよ!」
むやみに元気いっぱいに指をびしりと突き刺してくる磨智。
楽しそうで何よりだ。
「だからね、一緒に毛糸買いにいってー。私、マフラー作るの」
「…一人で行くのは嫌なだけじゃないか」
そうだねえ、とあっさり頷く顔は、にこにこと楽しげな笑顔で。
すごく楽しそうだったから、別にそれを崩したくはない。
そうか、私も作るか。なにか。簡単そうなもの。別に寒さが堪えたりはしていないが、たまには面白そうだし。
「掃除、終わったらいいよ」
「やった。じゃ、私も手伝うよ」
塀に立てかけてあった箒を持ちながら答えれば、磨智は本当に嬉しそうに笑った。
なんとなしに仰いだ空は、冬に近づく印のように冷たく澄んだ空気を湛えて、高く輝いていた。
毛糸売り場の周りは中々盛況だった。
たまにたわしを編むために私も来るが、こう。それとは違い、手触りのいい毛糸は、選んでいると目映りしそうに色とりどりだ。
確かにこういうところを回るのは楽しいよな、なぜか。
なんて思いながら傍らの友達を振り返れば、その両手には愛らしいピンク色。
…両手に、綺麗なピンク色。
「…なあ、磨智」
「なあに?」
「…それ、お前用?」
「うん、おそろいで。緋那もいる?」
「いや、いらない。…で、おそろいって、メーだろ?」
「そうだけど。なあに?」
「…じゃ、どっちもピンクは止めてあげろよ」
かわいそうだ。そんな可愛い色でつくられたら。
真っ当なはずの私の主張に、磨智はちちち、と指をふった。
「ピンクじゃないもの。私のはローズピンク。メー君にあげるのは、ベビーピンク」
「…じゃ、そのファーはお前だけに使うの?」
「どっちにも使うけど」
当たり前じゃないといわんばかりの顔に、溜息がもれる。
ピンクに白いファーをあしらった手袋が女ものではなくなんなのか、いっそ教えてほしい。
「…止めろよ、お前。趣味に合わないものをもらうと困るんだぞ」
捨てるに捨てられなくなり、場所をとるばかりだ。これより困るものなんてない。
あいつもすてられないだろう。磨智の作ったものは、絶対。
「…ふ。甘いね。緋那。なにもこれだけをあげるなんて不興買いそうなこと、私しない」
「じゃ、どうするんだよ、これ」
「そりゃあ、わたしのと一緒に『おそろい♥』って差し出して私のよりはピンクくないことに安心しつつもやっぱ女物、っていう微妙な顔をするメー君を楽しんだ後、本命をあげるの。
こっちはマスターにあげる。だからメー君にあげるけど、サイズはマスターに合わせるよ」
「…からかうためだけに二度手間かけるんだ」
「……私の愛だもの♥」
きゃ、って感じにしなを作る姿は、まあ可愛い。
可愛いけどどうなんだ、その根性。
お前の愛はどこに向かっているんだ。
「だから私はなんかもうちょっとじみーな色でも探してあげようかな―、と思ってるけど。緋那はどうするの? 手袋、緋那の分も編もうかと思ってたんだけど。自分で編む?」
「…よく編むな、お前」
「んー。冬までまだ間があるし…、趣味だし。ミトンは楽だし。ちなみに風矢君は小町ちゃんがあげるかもだし、ベム君にはめんどいからやらないけど」
それでも四つも編むのだから、ご苦労だと思う。まあ、その辺りが趣味だからできることという奴かもしれないが。
「で、緋那は何編むの?」
「…とりあえず膝かけ編んでみようかな。ほしい」
「ふぅん。…ま、セーターとかはいらないよねえ」
ぽそ、と付け加えられた言葉に甦るのは、箪笥の奥に封印したセーター達。
毎年技術は上がるものの、趣味の悪さはさっぱり改善されないオクリモノ。
「…怒るぞ、磨智」
「ごめんって。…ホントに怒ることないじゃない、今更」
今更だから余計に怒るんだろうが。
「…お前、…最近、そういうこと聞いてくるよな」
「だって。さすがに私もかわいそうになって来たし。いじめづらい」
そうか、今までの態度はいじめてる自覚があったのか。
なんか、昔から。あいつには変につっかかるよな、こいつ。
…しかし。
「……かわいそうか」
繰り返せば、磨智はふ、と笑った。
見上げてくる眼差しは、静かで深い。それに、優しい。
すぐに毛糸の山に戻る辺りが、とても。こちらを縛らずに、優しい。
「かわいそうだから、で、応えろとは言わないよ? 私、緋那の味方だし。…そんな理由で振り向かれたら、ベム君は悲しいと思うよ」
「………そうか」
やっぱり、そうなのか。
昔―――出会ったころは、あいつが嫌いだった。
意味のわからぬことばかり言って、意味のわからぬことばかりをして。こちらを馬鹿にしているように、同じことばかり繰り返して―――
それしかできない奴だと悟ってからは、腹は立たない。
素直に認めることなんてできないが、どちらかといえば好きなのだろう。頼っている。…見方を変えれば、いいようにつかっている。
たぶん、今なら。
誰かに命じられれば、一緒になることも拒まないかもしれない。
なんだかんだで、他に添う相手を考えることはなかったから、案外、あっさりと。
でも。
「…ごめんね、また難しい顔になったね」
ぽふん、と肩をたたかれる。
両腕にピンク色とモスグリーンを抱えた磨智は、苦い顔で笑う。
「最近、緋那、本当にぼーっとしてることあるからさ…、ベム君となにかあったのかと思って、心配だったの。ごめんね、変なこといきなり言ってさ」
「………いや」
なにもないさ、と呟くと、おかしくなった。
そう、なにもない。
あいつとの間に、最近はなにもない。穏やかに過ごしている。相変わらず意味不明さに腹立つ日もあるが、ある程度良好に過ごしている。
なにもないのに、たぶん、今なら。別に一緒になってもいいと思っている。
あいつは、とても真っ直ぐに好意を向けてくるから。
私は、そんなあいつを頼るようになったから。
でも、どうしても不安なことがある。
好きだ、と。言い切れない、大きな不安が。
私があいつになにか返そうとしたのは、ただ単に。
私の前ではあんまりに情けない顔ばかり見せるあいつが、哀れになったからじゃないのか、なんて。
買い物から帰り、簡単な食事を作り。主と風矢(例のごとく例の彼女とどっかにいった)抜きの昼食を終えた後、食器を洗う。
朝食と違ってローテーションがくまれているわけではない昼食は、主に作った者が皿を洗う。なんか、その流れができてしまっているから。
と、いうことで。今皿を洗っているのは私だった。
残り物のスープを温めて買ってきたパンを出しただけなので、洗いものは本当に少ない。
ごしごしとスポンジを滑らせて、窓からの眩しい日差しを感じる余裕があるくらい。
…ああ、確かに。最近、ぼーっとしているかもしれないな。
なにがあったわけではないけれど、皆、充実して、それぞれに幸せそうだから。何を考えているわけでもないけれど、しみじみとしてしまうのだ、きっと。
自分の周りが幸せなことは、とても幸福なことだ。
そうして幸せになると、ふっと気付く。直面させられる。
私は自分の幸せをどこに求めているのだろうと。
眼差しが遠くなるのが自分で分かった。
きゅ、と蛇口をひねって、冷たい水で皿についた汚れを落とす。ひんやりと肌を刺す感覚よりも冷たいものが、胸の奥に刺さる。
こんなにも世界は明るく周りは幸せで、でも私はなにも変わらなかった、と。
「………変わりたい?」
小声で囁いてみれば、それはしっくりくる。
でも、どんなふうに?
なんのために?
…誰の、ために?
―――不意に、あーもー!と叫ぶメーの声を拾って、沈んだ思考がぴたりと止まる。
続くのは、やけに淡々としたベムの声。
草むしりの分担でもめているらしい、にぎにぎしいやり取り。
……にぎにぎしい、か。
「あいつもそんなのできるのにな」
くすり、と苦笑がもれる。
あいつは、私といると。
口では色々というけれど、態度はまめまめしいけれど。
そんな言葉が似合うようなことは、めったにない。
変に落ちついているわりに目だけなんかきらきらしているというか。暑苦しいのに変に一線引いてると言うか。フワフワ浮かれてるかと思えば、地に足ついてるというか…変だ。私の前では、特に。アンバランスだ。
いや、アンバランスというか、そうだ。ぴったりくるのは。
「……無理してるみたい」
するりと零れおちた言葉は自分から生まれたものなのに、身体がびくりと震えた。
がしゃん。
掌から滑り落ちた皿が高い悲鳴を上げる。
それなりの高さがあった所為で、白い皿は真っ二つだ。慌てて拾おうとしたら、手の中を僅かに傷つける。
ずきずきする。
自分で言った言葉が、なんだか、すごく。耳に痛い。
「……」
なにを、こんなに動揺してるんだ。
そんなの、ずっと考えていたことで、今更。
…今更。
「緋那!?」
われた皿を眺めていると、背中から声がする。
ゆるゆると振り向けば、そこにいたのは。心配そうな顔をしたベムで。
われた音を聞いたせいだろうけれど、傷も見えないだろうに。心配そうな顔をした、ベムで。
「…ベム」
「うん」
名を呼ぶと、当たり前のように声が返ってくる。
他の奴らに向けるものより少しだけトーンの高い声。
―――メーや風矢に向けるものより優しいけれど、まるで整えたような、声。
「……馬鹿……」
そう思った瞬間、呟いていた。
声に出していたのだと、僅かに眉を寄せるベムの顔でようやく気付く。
「…緋那。なんか、したの? 怪我なら、手…」
珍しく躊躇いなんか混ぜてそう言ってくる彼に、答えることはできなかった。
唐突な言葉がどれだけおかしいのかなんて分かっていたけれど、今更なったことなんてできなくて。
無言で首を振ると、ベムは戸惑ったように足を止める。
「……手。少し切ったけど。すぐ治るから、気にするな」
「緋那、」
「気にするな。…ホントに、なんでもないから」
少し強い語調でそう言えば、追求はなかった。
ベムは、なにも、言わなかった。
なぜか、手のひらから力が抜けて。
再び滑り落ちた皿の破片が、かちゃ、と小さく鳴った。