油汚れ、というのは。非常に頑固だ。
 適当な紙で、布で、拭き取ってから洗った方が、効率がいい。
 そんなわけで、今。チャーハンを作った後のフライパンを抱えた私の手の中にはぼろぼろになって役目を終えた布がある。
 テーブルをはさんだ向こう側に、ゴミ箱があるとも知っている。
 だから、思わず投げた。
 ちょうどゴミ捨てにきてたマスターにあたった。
「……………」
「わざとじゃないからうずくまらないで。すすりなかないで。私が全面的に悪かったから!」
 最近のマスターはまったく良く泣くなあ。
 そんなからかいもできないほどにマジ泣きを始めた彼女に、私は本気で頭を下げた。

爽かな涙

「…私も悪かったけどさ。マスター、ちょっとよけてみたりしてもいいんじゃ」
「…よけられないことにむしろどこどこ落ち込むかなたです」
 膝を抱えて窓から外を見つめるマスターは、変な言葉をチョイスした。
 どこどこってなに。どこどこって。
 しかもこっちを見ないでゴミ箱に話しかけるの止めて。見ていてすごく責められてる気がするから。
「…マスター、最近暗いよ?」
「お金がないと人間暗い気持ちになるんだよ……」
 あ、さらに暗くなった。
 なんか雨雲背負ってる。局地的に雨をふらせられそうだ。今日は晴天なのに。
「お金ないって言っても…いますぐ困るような貯蓄じゃ、ないでしょ」
「………、……つつましやかに生活していく分にはね」
 慰めるつもりで言ったけど、思わず首をかしげる。
 …なんか、その言い方って。
「…なにか欲しいものでもあるの?」
「ううん。ただ、心の余裕がないだけ」
「…そ、そう」
 そんな清々しい笑顔で余裕がないって言わないで。なんか痛々しいから。ちょっと良心痛むから。
 そっかー。ほしいものくらいあるよねー。とか軽い気持ちで聞いた私がすごく悪いことしたみたいだから…
「……ま、お金は急にたまらないけど、明るくなる方法はあるよ?」
「え?」
「こんないい天気の日に家にこもってるから、じめじめ落ち込むんだよ」
 手をとって立ち上がらせる。
 顔を上げたマスターは、数度瞬き、首をかしげる。何言ってるの?と言いたげに。
 だから、私はにっこりと笑い、告げた。
「ちょっと鍛えようよ」
「……えー」
 すごく嫌そうな顔をされた。
 構わず引きづり倒すことにした。


 ―――そんなわけで、外。庭。庭球に使うラケットを構えた私は、マスターに笑いかけた。
「マスターは戦闘以外の運動しなすぎだよ。だからあんなのもさけられないんじゃない」
「……だって嫌いだもん。球技全般が。」
「…お前、つくづくそれでよく戦闘系になろうとしたよなあ…」
 顔をしかめて訴えるマスターの横で、呆れたようにメー君。
 やっぱり庭球に使うボールをポンポンと地面にぶつけて遊ばせながら溜息をつく彼は、暇そうだったから私がひっぱった。
「戦闘とー。運動はー。べつぅー。なんですぅー」
「なにそのアホな口調」
「うん、イラつくね」
「…このカップル怖い。」
 しくしくと泣き始めているけど、無視。だって今回は嘘泣きだし。
「…ま、マスターの職業適性はおいといて、かるーく遊ぼうよ。
 マスターに任せるとトランプ一択だから、たまには、ってことでさ」
 軽く笑って、ボールを弾ませる。
 そのまま狙いを定めて、マスターに向けて打ってみる。
 当たった。
 …彼女のラケット、じゃなく。頭に。
 一応打とうとはしたらしく、振りかぶった形のまま硬直するマスター。同じく氷つくしかない私。と、横で見てるメー君。
 あ、マスター、硬直と言うか、声もなくぷるぷる震えてる。痛いのか悲しいのか、分かんないけど。
「………………ボールに嫌われてるから、私」
「そういう問題じゃないだろう!?」
「ためにためて道具の所為にしないで!?」
 思わずマスターにかけよりながらつっこむ。
 ここまでだからやりたがらなかったのか。長い付き合いで水遊びやらおいかけっこやら運動会への参加やらをしている姿を見て、決して素の身体能力が高くないとは思っていたけど…ここまで。
 どうりで私と緋那がやってもそういうのにまじらない…!
「…球技なんて色々余裕のある人間がやるんですぅ。私、色々忙しかったから覚えてないだけですぅ。本気出せばー。できるもーん」
 マスターはついさっきと同じような口調でソッポを向く。どっからどうみても強がりです。みてられない。
「じゃあ今出せよ」
 でも、メー君はこういう時無神経だった。
 三人の間に落ちる、深い深い沈黙。高く晴れた空の明るさに不釣り合いな、重く苦しい沈黙。
 それを破ったのは、涙交じりの声。
「メーの馬鹿! こういうのは冗談じゃない! なんで流せないの!? 馬鹿なの嫌みなのどっちにしろなんて奴よ!」
「ラケットで叩くな! 目を狙うな! しかも泣きながら殴るな!?」
 メー君は焦ったように言いながら、ごちごち叩いてくるマスターをいなしている。…仲がいい。
 けど、今は妬けない。いつもは妬けるけど。これはあんまりにあんまりすぎて。
「…マスター」
「なに」
「もう一回…、私今度は打たないから。投げるだけだから。頑張ろう?」
「…………」
 胡乱な眼差しで見つめられた。
 私としては、苦笑するしかできない。
「じゃ、行くよー」
 離れながら呼びかけると、渋々と書いてある顔ながら、ラケットを構える。
 やる気はだしてくれた…のかな。
 ゆっくりやさしくボールを投げる。
 今度は、彼女のラケットに当たった。すぱん、といい音がする。
 いい音を立てて、ボールはふっとんでどっかに消えていった。
「…………」
 コントロールミスとかそういうレベルじゃない。
「……ふ、ボールがなくなってしまったんならしかたないよね。
 いやあ、仕方ない。まったく仕方ない。とっても仕方ない。じゃ、私家入ろ」
「いや待てよお前! 仕方ないのにスキップかよ!」
 私としてはもう諦めていたんだけど、愛する恋人はちょっと往生際が悪かった。律儀につっこんだ。
 清々しげな笑顔から一転、心底嫌そうな顔をするマスターに向かい、びしっと指をつきつける。
「嫌なことから逃げだすなよ。そんなんだからいつまでもうまくならないんだろ。
 ほら、もう一回」
 彼の主張は、とっても正論だったと思う。
 ただ。ただ、それを聞いてるマスターの目はもはや死んでる。虚ろを通り越してる。
「……メー君……うぜぇ」
「…ぼそっと声を低めて言うな。そういうことを」
 どろどろとしたなにかをバックに背負っている気すらするマスターに向けて、彼はぽーんとボールをほおる。
 マスターは…
 マスターは、ラケットをぶん投げて、素手になった。

 かなた【15】:ボール【1】
 1ターン:かなたの攻撃!
 10のダメージ!


 かなたが戦闘に勝利しました!
 ボールは10ポイントのダメージを受けました!
 かなたはボールに止めを刺した。

「ふぅ☆」
 なにかをやりとげたようないい笑顔で額の汗をふくマスター。
 その足元には、ひしゃげたボール。戦闘に負けて死亡扱い(?)のボール。
「ボールと戦うな!」
 つっこむメー君に、私は我に返る。
「マスター…今やってるのは運動…戦闘じゃないの。なにいい感じに笑顔になってんの…!?」
 そもそもボール相手にどうやって戦闘扱い。と聞いてはいけない。たぶん、気合なんだろう。
 素手で戦闘できるんだよね。わりと普通に。
 初めて聞いたけどね。素手でボールに喧嘩を売る戦闘系。
「ボールに勝って何かうれしいのか!? アホか!? アホだ!」
 ボール、倒したいほど嫌いなんだね。こういうのが。
 私は諦めたけど、メー君はまだ熱かった。熱くつっこみをいれていた。
 たいしてマスターは冷ややかだ。冷ややかな目をして、じっと彼を睨みかえす。
「どんな手を使おうが、勝ったんだからいいじゃん」
「よくねえ! つーか球技はそういうもんじゃねえ!」
「なにさ………、運動できるのがそんだけ偉れーつーの!? いーじゃない! ボールの一つや二つ! どうなろうが!
 世の中は勝者が全て正しいっ! 弱者が正しくても黙殺されるようにできてるじゃない!?」
「そういう問題じゃないだろうが! ボールに戦闘を挑むのがどうかしてんだよ!」
「年がら年中いちゃいちゃしてるバカップルに『どうかしてる』とか常識をとかれてたまるか!」
「な、なんでそんなこと言われなきゃ……っ!? つーかそういう問題でもね―!」
 まだ言い争ってる二人はほっといて、私はよく晴れた空を見上げる。蒼く、透き通って。高く見える空を。
 爽やかだなあ。ホント、運動日和。
 まあ、そんなの。マスターには関係ないんだなあ…
 悟った私は、一つ溜息をついた。

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