それは、暑い中湿度あげまくって不快指数を上げるへたれにちょっと怒りを感じた次の日のこと。
「風矢」
リビングで1人本を呼んでいると、声をかけられた。
「お土産」
振り向いた先には、静かに包みを差し出すベムがいた。
一進一退シーソーゲーム
「悪かったかな、と思って」
差し出されたのは、焼き立てふわふわのカステラだった。
「…あれから話をすることができたのですね」
受け取り、切り分けたそれを持って、椅子に腰かける。その向かいのベムにも、切り分けたカステラを渡す。変にうらみがましいというかおかしい感じが消えたからそうしたのであって、カステラにつられたわけでは決してない。
「うん、恙無く」
「で。今日デートのようにとらえることもできないこともないものにいった、と」
「別にデートじゃないのが残念」
淡々と言って、ぱくり、とカステラを口に運ぶベム。
残念、というわりにあまり残念そうじゃない。…それなりに楽しかったということなのか、それともおかしなテンションが下がってくれたのか。どちらでもよい。僕に害がないならば。
…しかし。
「……結局ご飯をおごってきただけだったんですねえ」
「そうだね」
いい加減もう少し進んでくださいよ。密かなその想いをこめた呟きにも、ベムは頷くだけだった。
頷くだけ、だけど。…妙に機嫌が良い。今までが今までだったので、少々不気味だ。
「…なにかいいことありましたか」
「…そうだね」
くすり、と珍しいことに彼は笑った。…これは、よほど今日の食事が楽しかったと見える。
「僕はこのままでも良いみたいだから。嬉しくなって」
「…いいんですか? 今の生殺しみたいな状態で。…君が良くても八つ当たりをされた側としてはもう少し進んでほしいものですが」
「いいんだよ。緋那がそれでいいのなら、全てそれでいい」
とんでもないことをあっさりと言ったベムは、紅茶のグラスを傾ける。
僕もまた、それに倣う。たっぷりと氷の入ったグラスの中身は、身体を芯から冷やして心地よい。ほっとする感覚に息をついてしまうが…本当にそれでいいのか。
「…君達を見ていると、磁石を思い出しますよね」
一定の距離以上には近づかず、距離を保ち続ける。
それでもそれなりに仲良くやっている…とも言えなくもない辺り、アレよりはいいわけだが。
…いや、アレの方がいいのだろうか。あれは逆になればぴったりがっちりくっつくわけだし。
ぴったりがっちりなこいつと緋那さん、か。
自分の想像に勝手に気持ち悪くなりながら、グラスを煽る。後味爽やかなこのお茶は、そういえばこいつが毎日淹れているものだ。言うまでもなく彼女の趣味に合わせて、彼が淹れたものだ。
「僕は磁石みたいにぴったりくっつきたいとは思わない」
「そういえばそうかもしれませんね。さりげなくつきまとっていますが、過剰なスキンシップを求めたりはしていませんしね」
「したくないわけじゃないけど。緋那に嫌われる」
「…まぁ、そうでしょうねえ」
言い寄っただけであれなのだから、手まで出していたらどうなっていたか。
こいつは龍と言う種族にしては最低ランクくらいに肉体的には非力な奴だから、もうぼろっぼろかもしれない。むしろ緋那さん本人より怖いのがいるからなあ。地龍は肉弾戦が強いのだ。
「そんなことしてたら、生き埋めになっていたでしょうね」
「…そうかもしれないね」
淡々と答える姿を、思わずじいっと見つめてしまう。
気付かぬはずもないのに、ベムは黙って茶をすすった。
「…本当に…綺麗に元に戻りましたね」
「……そうだね」
頷く顔は、やはり平静だ。憎たらしいくらいにマイペースだ。荒れて荒んだあの空気は、どっかにいってしまったらしい。
あれはとても鬱陶しかったので、僕としては願ってもない変化だ―――けれど。もしかしたら。
「…いっそあのままでいた方が、うまくいったのかもしれませんよ」
昨日、廊下ですれ違った時の彼女は、こいつの荒れ荒みっぷりに随分心を痛めている様子だった。どこか思いつめた様子すら、漂っていた気がする。
あのままでいれば、もしかしたらぐらっと落ちていたのではないだろうか。緋那さん、世話焼きだし。マスターにそれなりの思いやりを持って接してるっぽい辺り、駄目な相手の方が食指が動くのかもしれない。
「…ここまで来て泣き落とし? 僕にもプライドくらいあるんだよ」
自分でここまで来て言ったよこいつ。やっぱりだらだらと生ゴロされてる自覚はあるんじゃないか。
クールに言い切る姿を見ながら、呆れた心地で溜息をつく。そして、思わず呟いた。
「…あったんですか? プライドなんて」
「プライドというより…夢なのかも」
こつん、と汗をかいたグラスを置いて、ベムは庭の方を見つめる。
彼女が手塩にかけて育てる庭を見ながら、ぽつぽつと続けた。
「愛する龍にそのままの自分を受け入れてほしいと思うのは、可笑しいことではないだろ」
「…道理です、けどね」
それを夢と言ってしまう辺り、本当に変なところで奥手な奴だ。
ごくりと飲み込んだ茶は、いつもより奇妙に渋く感じた。
「で、ご飯食べ言ったから今日のベム君はまともなんだね」
庭での作業用にかぶった麦わら帽子をくいと上げて、呟いた。
「…まぁ、あいつはまともでもおかしいが、まともだな」
同じように麦わら帽子をかぶった緋那が、ボソリと言う。
どこか嫌そうな口調だけれど、安心しているのが私には分かった。
「…ねぇ。緋那」
ぷちぷちと草を抜く手を休めずに、問いかけてみる。
だって、こんなこと、面と向かって聞くのは気まずい。昔のように寂しくなることはないが、それでも気まずい。違う意味で、気まずいのだ。
「楽しかった?」
緋那が手を動かす手を止めるのが分かる。
返る声はないけれど、とても戸惑っているらしいのも、分かる。
「………つまらなくは、ない」
躊躇いをたっぷりと孕んで返った答えに、私は小さく息をつく。なんとなく、息をついた。
「そっか。なんか元気ないから、ベム君の所為かと思ってどうしてくれようと考えてたよ」
「それは…あいつが原因だが、あいつの所為ではないな…」
聞き様によっては先ほどよりよほど重要っぽい発言を、ごく普通の口調で緋那。
でも、その声は、どこかベム君に気を遣ってる…心配しているみたいで。…今更なのに、やっぱり少しだけ寂しい。
誤魔化すようににっこり笑って、すくっと立ち上がる。こった身体をほぐすように伸びをして、言う。
「…ね。ちょっと休憩しない? 喉乾いちゃった」
「ああ…そうだな。もうすぐかなたも帰ってくる頃だろ」
ぽん、と抜き取った草を放って緋那も立ち上がる。
少し前まで一緒に草取りに勤しんでいたマスターは、突然『アイスを食わなきゃ死ぬ病気になった!』とかよくわからないこと言いだして買い物にいった。でも、確かにそろそろ帰ってくる頃。
なら私達もそれまでのんびりと休んでいよう、と日陰に置いておいた氷に満たされた盥の隣に腰を下ろす。その中で泳ぐお茶の満たされた瓶から、同様に冷やしたグラスに中身を注ぐ。
ごくごくと飲んで、隣に座る顔を見上げる。襟元から風を送りこもうとぱたつかせる緋那の顔は、暑くて苦しそうなわりに、どこか穏やかだ。
…仲直り、できたから、なんだろうなあ。仲互いしてたわけじゃないみたいだけど、なんか変だったし。
複雑な心地で、先ほどの話を続ける。拗ねた声色にならないよう、重々注意を払いながら。
「…まぁ、ベム君がいじいじしてると暑苦しい夏が余計にやな感じに暑苦しいからね。いつものからっと暑苦しいベム君の方がいいよ」
「まぁ、そうだな」
答える顔は、ほんの少し優しい。
それは彼と出会ったころには間違っても見せなかった顔で―――あんなんでも距離は埋まってきているらしいのがよく分かる顔で。
そんな筋合いがなくたって、悔しくなってしまうのは仕方ないと思う。
「ベム君ずるい」
「は?」
「私だって緋那と喧嘩したり仲直りして良い感じの仲になったりしたいっ」
「良い感じの仲にはなってないし。お前がそういうこと言うと妙に似合ってちょっと怖い」
くすくすとあしらうように苦笑して、緋那はグラスを傾ける。
それを聞いているとこんなことを言っているのも馬鹿らしくなって、私も続く。うん、美味しい。ベム君のいれたものっていうのが微妙に悔しいけど。お茶は美味しい。
「よい感じの仲じゃないなら、どんな仲なの? よく分からないよ。緋那は」
「…お前、本当そういう話好きだな…」
むう、と苦い顔をする緋那に、にっこりと笑みを返す。
寂しいことはあるけれど、彼女とこういう話ができるのは、とても楽しい。
だからいいのだろうと自分を納得させながら、にこにこと笑顔を浮かべ続ける。
言うまでこうしていることが伝わったのだろう。緋那は僅かに顔を逸らして、小さく呟く。
「…分からない」
「じゃあどの辺りが近いかな。鬱陶しいとか邪魔くさいとかうるさいとか」
「…いや、その辺も否定はしないが…お前、私に否定させたくて言ってるだろ、それ」
「あは。どうだろうね?」
実はどちらでもいいという本音を隠しつつ、なおもにっこりと笑う。
緋那はうんざりとしたような顔で私を見つめた後、ふぅと息をついた。
「…分からない分からないと、散々待たせて。イラついていることもあるはずなのに、待っていてくれる相手がいる。
…それは、とても嬉しい関係なのだろうと……思わんでも、ない」
どこかうんざりとしたような言葉なのに、声はとても優しい。穏やかだ。
あーあー。とぼやきたい気持ちをどうにか抑える。
なんだ、いつもあんなに冷たくあしらわれてるのに。実は結構大事にされてるんじゃん。
あんなに拗ねる必要もないようなもんなのにねぇ、と考えていると、ほんの少し笑える。あれはあれで面白いが、あまりに悲壮すぎて笑い続けることもできない。シャレにならないとでも言うべきだ。
だから、彼女の言葉はむしろ喜ぶべきものなのだ。
寂しさと喜びが小さく胸に留まる。複雑なそれを飲み干すようにグラスの中身を飲みこんで、道の向こうから近付く見知った青髪を見つけた。
「マスター! 遅いよー!」
両の手の平を唇に添え、叫んでみる。
マスターはそれに手をふって答え、小走りでかけてくる。
あ、買い物袋揺れてる。いいのかなぁ、割れるようなもの、入ってないのかな?
「もう、ゆっくりでいいのに」
「とはいえ、今も早いわけではないけどな」
こぽこぽと三つ目のグラスにお茶を注ぐ緋那が、ぽそと呟く。
確かに、大して早いわけじゃないけどさ、小走りでも。…それって、戦闘系としてどうなのかなぁ。
なんて思ううちに、その姿が近づく。前髪が額にはりついて、ちょっと辛そうだなと思った。それに―――
「―――かなた!?」
蒼ざめた緋那が叫んで立ち上がる。
それに、ちょっと、ふらふらしてない?
嫌な予感を感じた瞬間、その姿がかき消える。
いきなり道端に倒れたらしいマスターに、私達はかけていった。