昔から、諦めるのはうまかった。割りきるのが得意だった。そんな自分に不満もなかった。
 そもそも、強く欲したものは少ない。別に必死にならずとも、大抵のものは手に入った。
 僕と出会った頃の主人はそれなりに蓄えをもっていたので、物質的に恵まれていた。どうしても欲しいものがあれば、少し働いてみればそれで足りた。
 精神的にも、似たようなものだ。別に今の自分に不満はなく、欲しいと思う存在もなく。否、思ったとしても、割り切ってしまう方が楽だった。
 感情があるなら、僕の願うどおりに動かないのは当然だ。それなら、無駄な期待などしない方がよほど良い。
 結果、クールだのなんだのと評されることもあったけれど、落ち着いているとみられることになったけど、そのことにも不満はなかった。
 ずっと、それでも構わないと思っていた―――のに。
 それなのに、諦めきれるものがあると、知った。
 小さな心で受け止めるには、あまりに多すぎるその想いは、いつかこぼれてしまうと悟っていたけど。
 それでも告げることを躊躇ってしまう思いがあると、知ったんだ。

想いあふれて

 それを見かけたのは、偶然だった。正確に言えば、買い出しに行くのにまったく関係ない68番地の前を選んで通っていたのだから、偶然ともは言えないのだけど。
 見かけたのは、あわよくば会えないかなと思っていた少女と、彼女となにやら喋る黒髪の青年だった。
 その青年のことは、一応知っている。
 黒と赤のコートを着た青年。髪の色、なによりまとう雰囲気からして闇龍。
 確か、名前はフェレスさん。彼女とマスターを同じくするダークデビラゴスで、おんなじ顔した兄弟姉妹が3人いる。
 基本的なことはつらつらと浮かぶ。頭はすっきりと冴えている。
 けれど、重い。胸の奥、あるいは喉の奥が詰まる。―――その感情の名前は、きちんと知っている。
 それをあの二人に抱くのが実に身勝手だということも、分かる。的外れな杞憂だろうなとも思う。…同時にこういうものは大抵身勝手で、理不尽な感情だということも知っている。
 そう、身勝手で不条理。嫉妬なんて、きっとそんなものだ。
 己の眉がじりじりとよるのが分かる。どんな顔をしているかは…正直、考えたくない。
 踵を返し、立ち去ろうとする。今は、会えない。…会ったら、駄目だ。
 けれど、耳はカコッ、と下駄のなる音を捉えた。
「風矢さん」
 自分を呼んでいると分かる声を無視することなど、できるはずがない。
 足を止めて振り返り、彼女が追いつくのを待つ。
 ちゃんと笑顔を向けているだろうか。
 一瞬心配になったが、すぐに杞憂だと気づく。たぶん、今は笑っているだろう。彼女が自分を見つけてくれたことが嬉しいから。
 こちらに歩いてくるのは、すっかり見慣れた巫女っぽい服の少女。
 わけのわからないオカルト趣味の龍。
 けれど、僕が好きになった、女の子。
 その青い目は、僕が脇に抱えていた雑誌に注がれている。
「お買い物の帰りですか?」
「ええ」
 頷き、風に乱される髪を抑えた。
 同じよう揺れ、日に輝く真っ直ぐな髪にそっと目を細める。
 いつもとまるで変わらぬその様が、なぜかひどく眩しく思えた。
「小町さんは?」
「私は、…その、姿が見えたので声をかけてみました」
 どこか慌てたように彼女は言った。
 そうですか、と頷こうとした。頷いて、このまま少し世間話をして。そうして、立ち去ろうと思った。他愛ない会話を自然に交わせる程度の仲はあるつもりだから、そうするはずだった。
 けど。
「…なら、少し、歩いてもらっても良いですか?
 付き合って欲しいところがあるんです」
「はい。かまいませんよ」
 胸に残ったままの先ほどの感情は、まるで違う言葉を紡がせた。
 それでも色良い返事に笑みを浮かべて、足を動かす。
 行きたい場所など、特に考えてはいない。ただ、人波を避けて歩く。できるなら誰にも見られない場所に行きたい。それだけで。そうしてなにをしたらいいのか分からないままに、歩く。
「小町さん」
「なんでしょう?」
 歩きながら、意味もなく名を紡げば、すぐに声が返る。
 肩口で切りそろえられた綺麗な髪が、さらさらと揺れる。
 胸の奥の醜い感情も、それに合わせてざわざわとざわめく。
「…良かったのですか?」
「なんのことですか?」
 怪訝そうな問いを返される。
 …改めて、小さな、当たり前のことで心を乱されていることに気づかされる。
 それなのに、もう口は止まらなかった。
「フェレスさんと話が弾んでいるようでしたから、声をかけるのは遠慮したんですが」
「…ああ。彼とは別に話し込んでいたわけではありませんのでお気遣いなく」
「そうですか? それなりに話し込んでいるように見えたのですが」
 足が、口が、とまらない。
 もう、本当にどうしよもない。
「…仲、良いのですか?」
「そんなこともありません。会話すること自体が稀なことです」
 その言葉に眉が寄るのが分かる。足が、やっと止まる。傍らの足音も止まる。少しだけ、戸惑ったように。
 ああもう、本当に―――そんなことを、当たり前のように言わないで欲しい。そんな当たり前ような顔で、言わないでほしい。
 否定して欲しくて訊いたくせに勝手なことだと嫌気がさす。けど―――嫌なものは嫌だ。
「…どうして」
 彼女がこちらに顔を向ける。
 いつもなら、笑って。そうして取り繕える。けど、今は目をそらすことしかできない。
 胸が重い。嫉妬と、自己嫌悪と、他の良く分からない感情で。
 一人で抱えていることができないくらいに、苦しい。
「貴女は寂しいと言わないんだ?」
 こぼれた言葉を迂闊なものだと後悔することはない。
 そんなことを考える余裕すら、ない。
「僕は、貴女がそういう顔するのが嫌だ」
 顔を見ぬまま呟く。吐き捨てる。
 それでも、戸惑ったような気配と、それに続く、微かな笑声を捉えることはできた。
「…優しいんですね」
 何度も聞いた声に、なにかが焼き切れた。
 幾重にも重なり、口を重くしていたなにかが、消える。
「違う」
 逸らしていた顔を彼女へ向ける。
 彼女は、驚いたような顔をしていた。
 そういえば、こんな風に強く否定するのは初めてだっただろうか。―――初めてだろうな。
 彼女に優しいと言われるのは、心苦しくて、くすぐったくて、慣れなくて、でも幸せなんだから。
「僕は、優しくなんてない」
 ただ、と言葉を次ぐ。わずかに震える自分の声が、なんだか滑稽だ。
「貴女が好きなだけです」
 それまで必死に隠していた言葉は、やけにあっさりと響いた。
 あっさりとした響きだけれど、彼女の瞳が大きく見開かれる。その唇もまた、何事か言いたげに開かれる。
 僕は続ける。彼女の唇が動く前に。
「貴女がどう思ってるかは知りませんが、きっと、探せばいると思うんですよ。貴女のように、良く分からないモノの声を聞く方。
 …そうでなくとも、貴女の話しをもっと分かってくれる存在はどこかにいるでしょうね。世界は広いですから」
 どんな答えが欲しいのかは明白で、けれどそれを待つ勇気がなくて、ただただ溜め込んだ言葉を続ける。
 ずっと考えていた、拗ねたような言葉があふれていく。
「けど、その時、僕は友人として祝福できそうにありません。
 …もう、貴女をただの友人だとは思えないんです」
 こぼれるのは、認めたくない醜い感情。
 だってたったあれだけのことで、僕は彼が羨ましい。別に仲がいいわけじゃないことなんて、聞くまでもなくわかったような相手でも。
 それなのに誰かと添う姿など、平静にみていられるわけがない。
 いつからか、諦めるのがうまかった。割り切るのが得意だった。他人に期待したことなどなかった。
 そんな自分に満足していたのに。
 貴女のことは諦められそうになくて。
「…もう、駄目なんだ、僕は。気づいて、しまいましたから」
 苦しいくらいの執着などできるなら知りたくなかった。
 黙ってその幸せを願えたら、それはそれで満たされたのに。
 それでも、諦められないから。
 だから、貴女は僕にとって特別で。どうしよもなく特別な女の子で―――
「愛してます」
 守ることも支えることもできないかもしれない、けれど。
 もう、そんなことを考えるのも嫌だ。
「だから、傍にいさせてください」
 なにをできるか分からない。なにを与えられるか分からない。
 それどころか、奪うだけかもしれないし、役に立たないかもしれない。
 広い世界のどこかを探せば、もっと彼女のことを分かってくれる龍がいるのかもしれない。同じように妙な声を聞く龍だって、いるのかもしれない。
 けれど、そんなことは、もう僕には関係なくなってしまっていて。
「愛してるんです」
 馬鹿みたいに繰り返す言葉に、答えはない。

 そっと窺った彼女の顔には―――焦燥じみた想いが浮かんでいた。
「…そ…」
「え?」
「そんなこと告げられてなかった!」
「小町さん?」
 これ以上なく慌てた様に、一瞬今までの言葉の全てを後悔した。やっぱり困らせるだけなのか、と。
 けれど、すぐに思い治す。告げられていなかった。あれにか、と。
 もしあれになら、と気づいた瞬間、僅かに口の端がつり上がる感覚。そうならば、少しは勝てたということだろうか。そうならば……少しは、希望があるだろうか。
「でも僕が貴女を好きなのは本当です」
 念を押すように言ってみる。冷静に言ったつもりだったのだけど、彼女の気持ちを落ち着けるには至らなかったらしい。
「ほ、本当ですか…本当に本当に本当ですか…」
「本当の本当で本当に本当です」
「本当の本当で本当に本当ってことは、本当なんですね…」
 馬鹿みたいなやり取りの後、幾分か落ち着いた声に、僕の頭も少しだけ冷える。
 頭は冷えたはずだけど…体のどこかがひどく熱い。
「本当ですよ。
 今みたいにわけ分からなくなってる貴女も好きだ。いちいち言うことがわけ分からない貴女が好きだ」
 思ったままに告げれば、彼女の目が泳ぐ。
「私は、…わ、私は…えーと…こ、困りました…困ってないけど、困りました…」
 珍しく歯切れの悪いその声が、妙に愛しい。
 それはきっと、その意味不明の意志とやらではもたらせないものだろうから。けれど。
「…迷惑、ですか?」
 けれど、ただの友達にしかなれないのなら、仕方がないな、とそう思う。
 諦めることができるかは分からないけれど、仕方ない。仕方ないなら―――どうすればいいかは、分からないけれど。
 でも、彼女は小さくかぶりを振る。
「そ、そんなことは。…その、ちょっと、すみません、処理が追いつかなくて…熱が…」
 機械ですか貴女は。
「…なら、結論が出るまで待っています。そういう貴女も好きですから」
 反射的に浮かんだ言葉を無視しつつ言えば、彼女はうつむき、沈黙が落ちる。
 思い悩むその姿を見つめながら答えを待てば、彼女はおずおずと視線を上げた。
「……えっと…すみません、質問は許されますか…」
「ええ、許すも許さないもないでしょう」
 いくらでもどうぞ、と促せば、少々意外な言葉が返ってきた。
「…その…愛は…お友達とかいう意味じゃなくて、男女的な意味なのですよね…?」
 一瞬、肩から力が抜けかける。そこからかなのか。けれど、それほど驚くことでもない。
 彼女のことを分かっているなんて思ってはいないけれど―――
「はい。
 貴女を一人の女性として、愛してます」
 けれど、ここでこう来るのが僕の好きなヒトだと思うことはある。
 じっと見つめながら言い切ると、震えた声が返ってきた。
「…わ、私で、いいんですか…?」
「…貴女だから、いいんです」
 震える言葉はなおも続く。
 なんだか、いたたまれない。彼女の困った顔は、実は可愛いと思っていたりするのだけれど。けれど。こんな風に困らせたいわけではないのに。
「…貴方のご希望には添えないかもしれませんし…」
「かまいません。
 …自分の理想通りの人などいないだろうし…いたとしても、つまらない」
 どうすれば、笑ってもらえるだろう。どうしたら、選んでもらえるだろう。
 この期に及んでも分からないまま言葉を続ける。沈黙が怖かったから。
「…正直を言うと、…少し怖いのです。
 …貴方は、変な女を珍しいと思って興味を示しているだけではないのかと考えてしまう」
 けれど、躊躇いがちに告げられたのは、沈黙よりずっと痛い言葉。
 その曇った顔に、ズキリと胸のどこかが痛む。
 なにかが詰まったように苦しい喉を動かして、違う、と言おうとした。
「あまり言いたくありませんが、最初は、そうでしたよ。興味があって好奇心があって…それだけでした」
 否定するのは簡単だったはずなのに、できなかった。
 だって、それは、確かに真実の一端だ。
 最初は…それで。それだけだったはずだったのに。
「自分でもよくわからないんですよ。いつ変わったかと訊かれても分からない」
 言葉にできない感情に振り回されるのが嫌だった。いつものように、適当に距離を置こうとした。
 けど、もっと嫌なことがあると、気づいてしまった。
「けど、貴女がそうして自分で人から遠ざかるのが嫌だ。寂しそうなのが嫌だ。…他の男が隣にいるのは、もっと嫌だ」
 吐き捨てるように言えば、しんと沈黙が落ちた。
 今度こそ、嫌われるかな。思いながらも、目線は逸らさない。続く言葉がどんなものでも、逸らしたくなかった。
 そうして見つめていた瞳に、潤みが生まれる。ぎょっとするより先に、その唇はゆっくりと笑みを刻んだ。
「私は、…貴方の事が好きです」
 その言葉を耳にした瞬間、頭の中が白く染まる。言葉と言う言葉をすべて忘れた。
 先ほどの彼女もこんな気持ちだったのだろうか。そう思うと、少しだけ嬉しい気がする。けれど。
「……無理、してませんか?本当ですか?」
 声と共に戻ってきたのは、やけに怯えた気持ち。
「…本当ですよ。…お友達として過ごした時間、とても楽しかった。
 きっと、恋人になっても貴方との時間は楽しいことでしょうね。…目に浮かびます」
 ふふ、と彼女が笑う。笑顔だけど、少し寂しい笑顔。
「想像が出来るから怖い。いつか夢が覚めるのが怖いんです」
 それは、なんだか泣きたくなるような、儚い笑顔。
「…僕だって怖いですよ。貴女はやたらと僕を過大評価してきますから。
 …僕は、優しくないし心せまいし、無能を隠す程度の能しかないし…なにより、貴女が思ってるよりずっと執着心が強い」
 けれど、零れたのは涙ではなく、淀んだ不安。
 すると、ぽん、と頭が撫でられた。
 少し背を伸ばして、ぽんぽんと撫でられる。
「…なんだか、馬鹿みたいですね。お互い怖がって」
 ぽつりと漏れたのは、本音だ。
 好きだと告げながら信じられないと嘆くことが、馬鹿みたいだと思う。これからも、きっとこんな想いをするのだろうとも、分かる。
 けれど、触れた手の感覚は、ただ心地よくて。暖かくて。
「…それでも、諦めたいと思えないんです」
 失いたくない、とだけ思った。
「…嫌な思いもするかもしれない、後悔もするかもしれない。けど…それも含めて、貴女と、一緒にいたいんです」
「……お気持ち、凄くうれしいです…」
 目元をぬぐう彼女を見つめながら、そっと抱き寄せる。そのまま呟く。
「…覚めるのが怖いなら、それ以上に一緒にいましょうよ。そんなこと、考えなくなるまで。…考えても、笑えるくらいに…」
 ぎゅうと腕に力を込める。腕の中にあるのは少し強張った体。けれど、抵抗する気配は、ない。
「……それじゃ、駄目ですか?」
 それでは駄目だというのなら。
 このぬくもりも、馬鹿みたいな焦燥も、貴女が夢だというのなら。
 僕は、これから何を信じればいいのか分からない。
 これが夢だというのなら―――夢などさめないままでいい。そのまま生きていきたい。
「…信じてもいいですか…」
 静かな言葉に、我に返り腕の力を緩める。
「…信じて欲しいです」
 顔を合わせて呟くと、彼女は、こくんと頷いた。
「…格好こんなんですけど。大宇宙の意思とかついてますけど。怖い話好きですけど」
「…そんなもの初めて会った時から知ってますよ」
 念を押すかのような彼女に、クスリ、と笑みが漏れた。
 じわじわと胸の中になにかが広がる。
 幸福と呼ぶのも躊躇うような、妙な甘い感覚。
「…そんな貴女が、僕の好きになった小町さんですから。それに振り回されるのも、悪くありません」
 ぷ、と頬を膨らませる彼女に、笑いかけてみる。
 嘘でない笑みと共に、浮かぶ言葉はただ一つ。
「僕は貴女が大好きなんです、小町さん」
 だから、貴女がいるだけで、それだけで。
 あふれた言葉は、少しだけ視界を潤ませた。

  目次