彼女が目の前にいるだけでよかった。
僕を好きじゃなくても、嫌っていてもよかった。
どんな関係でも構わなかった。いつか、どうか、と祈っていたから。
けれど、関係がないのは。
何の関心もないのは、怖いと。
あの時―――いや。ずっと、思ってた。
そうして再び最初から
一人きりでいるのは久しぶりだ。
しんと静まる夜の中で、こうしてぼんやりしていることは、懐かしい。
懐かしくて、寂しい。
一人きりは平気だったのに。
それなのに、今はひどく辛い。
ぼんやりと夜空を見上げる。
静かで、暗い空。
すべてを包み込むようだと思っていたのに、今は押しつぶされそうだ。
…いつまでこうしていればいいのだろう
自棄になってドラテンを狩場で繰り返したのは最初の二日だけ。
あとは、急激虚しくなって、ただぼんやりとしている。
…昔に…野生に戻ったようだ。
といっても、マスターが契約を解消した気配はないけど。
暇をもてあまして、手の平を泳がせる。その手が未だ人の形をとっていることがひどくおかしい。
それだけあそこに馴染んでいたのだと思い知らせるようで。
「…馬鹿らしい」
まったくなじんでいないから、こうなったんだろうに。
呟く声も夜にとける。
……本当に静かだ。
このまま、心音すらとけていくような錯覚を覚える。
「ベム!」
静かで、幻聴すら聞こえてきた。
「ベム、出て来いッ!」
彼女の声が聞こえた気がした。
「…え?」
いや、幻聴じゃない。
バッと顔を上げると、頭上に赤い羽。
「…緋那…」
なんで。どうして。ここに。
知らぬ間に立ち上がる。それでも足りない。まだ見えない。彼女の表情が分からない。
「……」
ぐっ、と足に力をこめて翼を開こうとして…躊躇した。
会いたい、でも、会うのは怖い。
ひな、と唇が空回りする。
何度もそれを繰り返して―――彼女を見つめる。
すると、彼女がこちらに気がついた。
「……」
なにを言われるのだろう。
かなたに迷惑をかけるな?
いつまでもぐたぐた見苦しい?
きっと、そんな言葉だと思ったけど。
静かに僕の前に降り立った彼女は言った。
「ベム――――ごめん」
「え?」
予想に反した言葉に、思わず間の抜けた声が漏れる。
「どうして貴女が謝るの?」
「言い過ぎた…だから、ごめん」
言い過ぎた……それは、そうかもしれないけど。
「僕は、本心で話してくれないほうが嫌。だから、あれでいい」
「そんなこと言うな。
…あれはカッとなって…、言い過ぎたのであって…私は、お前を追い出したかったわけじゃない」
「……なら、僕は」
あの後、そんな辛そうな顔をするほど悩んでいたのかと思うと良心が疼く。
その果てに出た優しい言葉は嬉しい。
けれど、残酷だ。
「いつまでも貴女の仲間以上の者になれないのに、貴女のそばにいなきゃいけないの?
生殺しもいいところだ」
そんな道を選ぶ龍もいるに違いない。
けれど、彼女を求めることはやめられそうではない。そんなことに僕は耐えられそうにない。
耐えられると思っていたけど、耐えられなくて。今、こうしている。
多少そんな恨みがましさを込めて言うと、彼女は曖昧に左右に首をふる。
「…応えられるかどうかは分からない。……お前が他のに心変わりすれば楽だと思っていたことは、否定しない。
けど、自棄になって命を粗末にしろといったんじゃない。そうじゃないんだ。…お前は気が早すぎる」
「緋那…」
そういう生真面目なところも好きなんだけどなぁ…
けど、やっぱりそれは仲間としての感情で。
僕の欲しいものじゃない。
「だって、目覚めが悪いだろう? そんなことされては私がお前を殺したようなものだ。そんなのは嫌だ」
…ああ。それはそうか。
今更気づいて、内心で頷く。ああ。こういうところが『わかっていない』から。こうなったのかな。僕は。
「そうだよ、ね……」
自然にうつむいてしまう。
恥ずかしい。情けない。あんなに傷つけないと誓ったのに。
危うくそんな十字架を背負わせるところだったのか。
「最後まで聞け。そういうとこが気が早いといっている。
私は…なにより…お前に不幸になってほしいわけじゃない。
…顔をあげてくれ」
言葉通り、頭を上げると、真摯な赤い瞳がそこにある。
思い出す。
彼女と、初めて会った―――…一目で心奪われた時のことを。
「私は信じられなかった…怖かった。いきなり変わるのが怖かったし、おまえに騙されている気がして」
「…なんで、僕が貴女を騙すの?」
憮然とそう呟くと、彼女は苦笑した。
「よく分からない。そういう気がしていただけだ。…理由がないのが怖かった
…私は、理由がきゃ不安な、…つまらない龍だ」
「…つまらなく、なんて、ない」
僕は呟く。
「つまらなくなんてない。
…貴女はやさしい」
二度目は、彼女に聞こえるように強く。
僕を見つめ返す彼女は、自嘲気味に笑った。
「…どこが?」
「…初めて会った時。初めて貴女を見た時」
―――理由なんて、たいしたものではないと思ってた。
けれど、彼女がそれを求めるなら…思い出を言葉にしよう。
「貴女は、マスターと一緒にいた」
「…探索に付き合っていたんだっけな」
「マスターは泉を見つけて…水を飲もうとして…落ちた」
「……そういえばそういうことがあったな、あの時」
珍しくないから忘れていた…小さく呟く彼女は無言で先を促す。それがどうしたんだと目線で訴えてくる。
…少し黙っただけなのに、彼女も結構気が早い。せっかちだ。
そんなところにも愛しさを感じながら、続ける。
「…貴女はすごく呆れていた」
赤い髪の少女が、炎龍だと言うことはすぐに分かった。隣に居る青髪の人間は、たぶんそのマスターだろうと思った。
…その時点では人に従う気のなかった僕は、そっと木の上に身体を隠した。
それでも暇つぶしに一人と一匹を見ていると、泉に駆け寄ってきた青髪が足を滑らせた。
『お前、馬鹿だよな』
『馬鹿じゃないよ、たぶん! ただの運動音痴なんだよ』
『それ、戦闘系としてどうなんだ?』
『…失格一歩手前?』
『……私に訊くな』
びしょ濡れで困ったように笑う青髪に炎龍は呆れたようなため息をついて…、手を差し出した。
『…ほら、手を出せ』
『うう。いつも苦労かけるねぇ』
『この程度なら軽いほうだ…』
『…ねえ、緋那ちゃん。前食べさせたグべバの実腐ってたの、まだ怒ってる?』
『いや、あれ≪は≫怒ってない』
『ど、どれ!? どれに呆れた? 怒ってる?』
『…今はいいだろう、そんなこと。
ほら、とっととあがれ。風邪引くだろう』
『…ありがとう』
差し出された手をしっかりと握った青髪に、僕はすぐにかけよった。
そして、面食らう彼女に契約を持ちかけた。
「…僕は、あの時…貴女の手に触れたいと思った。最初はそれだけ」
そして、それから、一緒に暮らして。
「それから、欲が出た。貴女の声をもっと聞きたい。貴女の瞳に映りたい」
同じ空間にいるだけで嬉しかった。
浮かれて、おめでたい言葉ばかりが浮かんだ。
「…僕は、貴女が、好きだ」
告げると同時につぅ…と雫がこぼれる。
駄目だ、泣いたりしたら、また彼女が困るのに。
けれど…止め方がわからない。誰かのために泣いたことなんて、彼女に会ってからが初めてで。
それなのに、誰かのために涙を止められない。
もどかしさで息をつまらせる僕をじっと見つめる彼女は、言った。
「……私は分からない。……分かろうと、していなかったから、謝りに来た」
ひどくゆっくりと、丁寧に、言葉を選ぶように。
「謝りに…そして、迎えに来たつもりだ」
「…ぼくは…」
言葉にならないなにかを必死で紡ごうとして…息をのむ。
彼女の手が、差し伸べられていた。
欲しくてたまらなかった手が、すぐ目の前にある。
「私はまだ分からない。けど、いや、だから。もう一度はじめたいんだ。こんな終わりは嫌だ」
彼女はひどく悲しげな顔をしていた。
その顔が本当に悲しげで、切なげで…気付く。
彼女は戸惑っていた…僕は、焦りすぎてた。
焦りすぎて…始める前に、スタート地点を通り越してしまっていたんだ。
「…だから、帰ってきてくれ」
「…緋那…」
名を呼びながら、その手に触れる。
彼女は握り返してくれた。
はじめて握った手のひらはひどくあたたかい。
あたたかくて、優しいと思う。
好きだ、愛している。
そんな言葉を飲み込んで、僕は告げる。
「た………ただいま」
「おかえり」
嗚咽の名残で震えた声に、穏やかな声が答えてくれた。
―――穏やかな声も優しい笑顔も、家族に向けられているものなのかもしれない。
僕達を家族と呼ぶ主人と同じく、彼女もそう思っているかもしれない。
…そして、今は、それでもいい。
だって、まだ、やり直したばかり…始まったばかりだ。
今回は、お互いせっかちなタチだと分かっただけでいいのだと思う。
だから、今度は、もっとゆっくりと。
ゆっくりと、積み上げていこう。
それが僕が望む結果に繋がるかどうか分からない。
けれど、分からないのはお互い様だから。
だから、一緒に。
「…騒がせて、ごめん…」
一緒に歩いていこう。
何度ぶつかっても、同じだけ謝るから。
初めて繋いだ手の平の中は想像よりあたたかくて。
その中でならどんな不安も押しつぶせると思えた。