それは小さな恋の話

 とりあえず笑っていれば、大概のことはうまくいくらしい。
 物心ついたときにはそう気づいていた。

 両親がそのようなタチであり、周囲にいる模範となるべき『大人』もその手のタイプだった。
 とりあえず笑っていればいいらしい。
 陰で何を言おうと、思おうと。

 …実に便利なものだと思った。
 便利で―――当時は。
 当時は、それを『つまらない』と思った。

 本当は。
 恐らく、つまらないのではなく、寂しかった。
 つまらないのではなく―――誰一人信用できない周囲が、寂しかった。

 そんなことに気づいたのは、彼女に出会った頃だった。

 彼女に会って、話して。
 話を聞いてくれて、一緒にいてくれて。
 だから、気づいた。

 脳のどこかにすうすうと風が吹くような、あの感覚は。  寂しいと呼ぶのだと、哀しいと呼ぶのだと。

 彼女がいないと、とても寒いと。
 出会えたから―――そう、気づいた。


 他者にうらやまれる境遇。能力。
 ―――けれどちっとも幸せなどではないと。
 欲しいものが何一つないと、そう気づいたのは、彼女と出会ったから。

 ―――否。

 彼女が死んだからだった。


 いつものように、いつもの公園で待ち合わせて。
 いつものように、彼女と別れて。

 いつものように、バイバイ、と声を聞いて―――
 いつもと違い、けたたましいトラックの音が鳴り響いた。

 振り向いたその時、彼女はどこにもいなかった。
 少なくとも、原形をとどめてはいなかった。

 雪の日だった。
 降り始めた雪に、タイヤをとられて。
 突っ込んできた車は、たやすく一人の少女をひきつぶし。

 少し離れた俺の立つ場所まで、真っ赤な血が広がって。
 赤く、赤く、黒く、黒く。
 地面が湿っていったことを、よく覚えている。
 それ以外のことは、うまく思いだせない。
 覚えているのは、ただ。生きていたころの彼女のことばかりだ。


 顔の形も声もちょっとした仕草さえ。
 思い出す間もいらぬくらいに、まだ覚えている。

 冷え始めた冬のあの日、赤く染まった耳が、なんだかひどく可愛く見えたことも。
 …俺の話を聞いてくるそこが、とても好きだったことも。

 だからだろうか。

 あれから時がたって、彫り終えた作品はどこか彼女に似る。
 似せているつもりは、ないのだけれども。

 完成すると、どこかが似る。
 とらせたポーズが、彼女のちょっとした仕草に似る。
 薄く彫った表情が、彼女の笑顔に似る。

 顔の形が彼女に似る。
 空を指す指先が彼女に似る。

 男ならあるいはと作ってみても、結果は同じだった。

 …我ながらどうかと、思わなくもないのだけれども。
 仕方なくもあるのではないだろうか。
 だって。彼女以外。
 十年以上たった今も。彼女ほど心動く存在は、どこにもいないから。

 ……ああ、でも。
 救いが、あるいはつまらないことがあるとしたら、一つ。

 必ずどこかが彼女に似るのに、一番好きだったパーツはうまくいかない。
 耳だけは、どれも違う。
 違うと、自信をもって分かる。

 思い入れが深すぎるのだろうか。
 あるいは、俺の腕が未熟なのか。

 このまま彫り続けていれば、あれも模倣できるように―――なって、しまうのかな。

「……」

 なんだかそれもむなしい話だ。
 もう彼女はいないのに。
 どこにもいないのに。

 寒い夜の帰り道、目についたコンビニに足を運ぶ。

 ―――目を疑う瞬間まで、あと少し。

 穏やかな狂気の始まりのお話。しかしこれがああなるとは思わなかったぜ!

二度目の恋の話

 おかしな夢から覚めた時、まず自分の正気を疑った。
 確かに少し気になる女性がいるが、なんだあれ、と。
 けれど、違和感はひとつ。
 俺は彼女の苗字しか知らない。あのコンビニの名札に名前はない。

 それに―――あまりに、生々しい。
 あれを夢とするには、あまりに生々しい。
 感じた嫌悪も。彼女の声も。触れた手の感覚も。
 第一、俺は彼女の人となりなど知らない。

 どうにも納得できないから、会いに行って確かめた。
 するとあれは夢ではなかった。
 …いや、夢じゃないと、彼女が言っただけだが。
 別に、その言葉だけで十分だ。
 俺の頭がおかしかろと、彼女の頭がおかしかろうと、構わない。

 交換した連絡先を持って、にこりと笑う。
 処世ではなく、自然に。笑顔がこぼれて、ひどく楽しいと思った。

 さて、女性を食事に誘うのならちょっとはおしゃれなところを探すべきか。…いや、一目があると嫌そうだし、適当に目隠しがありそうな場所でも探そうか。
 周囲になにかを言われてそれを気にする彼女も見たいけれども―――……気にする理由がな。
 気味の悪いものを見せたくないとか、そういうのみたいだからな。
 それなら、なるべく見せたくないものだ。…他のものに心を砕く姿など、見たくない。

 おかしな夢をみておかしな女に惚れるとは、我ながらどうなんだ。
 思わなくもないが、どうでもいい。
 だってこんなに楽しい。
 楽しくて満たされて、幸せとはこのことだ。

 願わくば彼女にも、こんな気持ちになってほしいものだ。
 幸せになって、穏やかに笑って。そんな中でこの手をとってほしいものだ。
 …今、イマイチ幸せそうに見えないからな。いや、あの顔に対する偏見で。案外幸せなのかもしれないけれど。
 ともかく、彼女には幸せになってもらわないと。
 幸せになったうえで、選んでもらわないと。
 不幸の淵で縋られたのではまだ足りない。そんなものでは足りない。他のものと比べてくれなきゃつまらない。
 ……打算抜きで、好きな子には幸せになってほしいと、思わなくもないし。

 なんにせよ、俺のやることはひとつだ。
 彼女の幸福のために、できることをなんでもしよう。
 それがどんなことだって、どんな形だって。
 ああ、だから今度は―――…

逃がさない はなさない

毒入り改変後の話。ここでも十分頭おかしい彼ですがまだ下げ高だあるのであった―――…

貴方が望むならなんにでもなろうというお話

「大征くんがこの世の救世主です! 世界をいまや正しく認識出来ているのは私と貴方だけ。私は巫女となって、貴方を支えますね!」
 ダメだこの女頭がおかしい。
 知ってたけど。
 ―――それと。
 こんな発言とこんな状況に胸がときめく俺も、大概頭がおかしい。
 好都合だ、などと。そんなことを思う俺の方がおかしいのかもしれない。

「救世主は嫌なんですけどね?」
「え? でも私達は世界の真実を知った今知らせなければ」
「…ええ。そこもまあ…いいのですが」
 あなたが望むなら、それでいいんですが。
 その過程で何人狂おうが、別に心は痛まない。
 その過程で彼女が恨みを買うと悪いので、なるべく止めはするが。
「…ですが、俺は救世主よりなりたいものがあるんですよ。…全部終わったら聞いてね、意味奈さん」
「すべて終わったら、ですか? ええ、それは素敵なことですね!」
「ええ」
 なんならすべてが終わる前じゃなく、君がもう少し正気になってくれてからでもいいんだけど。
 手を伸ばして、髪を撫でてみる。
 不思議そうに首をかしげる彼女に、嘘ではない笑みがこぼれる。
 この世の真実など、俺はどうでもいい。
 世界のありようも、知ったことか。
 しかし、管理されている―――彼女もなにかに管理されているという事実は、よく考えると不愉快だ。
 ならば、精々救世主をやりとげよう。
 途中で死んでも……この女が覚えてくれているなら、いい、かな。
 …忘れないでいてほしいものだけど、どうにも頼りないな。その辺は。

 ああ、やっぱり、生きて幸せにならなきゃね?
 不幸などなくとも、幸せを認識できるようになってもらわないと。
 だから、全部終わったら………
「…とりあえず一緒に住んでみます? 危ないですし」
 俺のところに落ちてきて。

あなたの望む役をやりきったらお嫁さんになってねという話。
いやあ、幸せそうですねこの二人(震え声)

たのしい兄弟の会話

『兄さん、俺は家に戻る気がないんです
 驚いた。
 弟が本格的に家を出ることにではなく、それを俺に告げることに。
 しかし。
「…なぜ今だ?」
 電話の向こうの弟に問いかける。さすがに少しは、興味がある。
 アレが家を出て今年で…3年だったな。確か。
 俺が色々と整え、生活に困らない程度の金は融通したはずだが。
『いえ、あなたは俺が戻ると思っていないのでしょうが。両親は「俺がそのうち泣いて戻ってくるストーリー」で盛り上がっているだろうな、と。
 それもどうでもいいことではありますが……死体をね』
 作ったから処分しろというのだろうか。
 そのけじめとして家を捨てるとか、そういう話か。
 神妙な声に一瞬そう思うが、否だ。
 そんなことをしたのなら、これはますます家を捨てまい。便利だから。
『死体を放っておいてほしいんです』
「お前の?」
『ええ、俺の』
「…………後追い自殺の予定でもあるのか」
 思い出すのは、アレが家を出た後の自室。
 きちんと片付けられ、金銭を動かすに足るものはすべて持ち出されていたが。忘れ物が一冊。
 それは、スケッチブックだった。
 女の姿がびっしりと描かれたスケッチブックだ。
 それは良い。
 描かれたのは、主に幼い少女だった。
 そして、その面影を宿す妙齢の女。中年の女。高齢の女。最後は、枯れ果てたように細い手を組んで布団に横たわる姿。
 …それも良い。勝手に生涯を描かれた女は、見覚えがあった。顔は覚えていないが、年齢で推測がつく。
 アレが小学生の頃のことだ。アレが親しくしていた少女がトラックに巻き込まれた。それ以来。アレは少々精神の均等がずれていたようだ、と納得するだけだ。
 問題は、そのスケッチブックに人の形をとどめたものがそのくらいしかなかったこと。
 バラバラに刻まれた人体のスケッチがあった。ぐちゃぐちゃと潰されたスケッチがあった。腐っていく様を描くスケッチがあった。顔はすべてその子供だった。
 しかし、そこまでならどうでもよかったのだが。それに性的に興奮した後があると、さすがにとても気持ちが悪い。使ったものは捨てろ。寝たのか。寝てベッドの脇に落としてそのままだったのか、アレは。
 ……そんなことがあったのが、三年前。
 ならばこんなことを言うのはアレか。とうとうなにかしら決心でも付いたか。
『別にありませんよ。そんな物騒なもの。しいて言うなら結婚したいだけです』
「……ホラー映画の登場人物のようなことを言う。結婚の約束をすると死ぬとか、そういうことか」
『兄さん、ああいう映画なんてみるんですね…。…大まかにそのような状況ですね。まだプロポーズしてませんが』
「犯罪行為にふけるなら事前に言え。根回しは俺がしなきゃいけない」
『兄さんの中で俺はどういう位置づけなんでしょうか。俺は父と祖父よりはまだ清い身ですよ。―――それに、俺が強硬手段に出たところで根回しが必要な女じゃないかもしれないな。失踪しても騒ぐ者がいなそうだ。気になるのはバイト先ですが、俺、信用されていますし…ああ、おかしなつながりが残っているのが気になりますがね』
「…手を出すならおかしなつながりは絶たせろ」
『それは彼女次第ですね。俺は今のところ彼女に命令とか、強制とかしたくないんです。…それにしても、兄さん』
「ああ」
『俺は死体を拾われてその家名物おかしな儀式に使われるのが嫌なだけなんですが。不詳の弟を心配してくれるんですか、あなたは』
 電話の向こうで弟が笑う。
 随分楽しそうに笑うようになったものだ。
 この家にいた時―――医師である父の跡目を継ぐことを決められていた時は、分かりやすくつまらなそうな顔をしていたが。
 随分と演技がうまくなったのか。
 あるいは、本心から愉快なことでもあるのか。
 どちらでもいいことだ。どうでもいいことだ。アレが家に戻ってくるなら楽ができる。戻ってこないならそれだけ。戻ってこないならバレるような犯罪行為はしてくれるなと、それだけだ。
 …アレもそのくらい分かって入ると思うが。それこそおかしなことを聞く。
「…ああ。心配くらいするだろう。お前がなにかやらかしたら、始末をつけるのは俺になる。なるべくつけたくないな。弟の始末は」
『…やっぱり俺がなにかおかしなことに巻き込まれて死ぬではなく、俺がなにかするのを想定するんですね。あなたは』
「間違っているのか」
『いえ。まったく。……本当に、兄さんはわかりやすいんですけどね』
 彼女のことはさっぱり分からない。楽し気に笑う声に、思うところはない―――ということはない。
 俺には他者の心がよくわからない。
 これまでの経験、叩き込んだ知識で行動の予測がつくだけで。
 アレにも恐らく分かるまい。
 俺のようなモノしか、分かるまい。
 最近知り合った心理学者のことがチラと頭をよぎる。賑々しい弁護士と、分かりやすい検事と、おかしな裁判長も。
 …ああいったもの達の心とやらは、こいつには分かるまい。
 俺に彼らの考えることが理解できないのと、同様に。
 そのことに、俺は不満を抱かない。
 こいつは恐らく、抱くのだろう。

 遠い日。使い古された慣用句で『壊れたように』涙を流す弟を覚えている。
 親しくしていた少女の死を嘆き、いつも笑っていた弟が泣き続けていたことを覚えている。
 …なにしろ体面上『忙しい両親に変わり、弟を慰める兄』という役目があったので。見ていた。
 だから、覚えている。
 涙で濡れた頬が、笑みの形に歪んでいたことを。
 口元が、それはそれは楽し気に笑っていたことを。
 笑い、なにを思っていたのか。それこそ分からないが―――…スケッチブックを見る限り、ロクなことではあるまい。
「……」
 ―――哀れな子だな。大衆の幸せは、お前には遠かろうに。相手に合わせきることなど、できないだろうに。
 浮かんだ言葉を飲んで、そっと通話をきる。
 なんにせよ、俺に火の粉がかからぬならば。アレの人生がどうなろうと、関係のない話である。

 無防備な指のちょっと前の話。兄さんでキャンペーンいった結果、大征君ちも宗教かぶれ(先祖崇拝)気味の家になりました。意味奈さんとちょっとだけおそろいだね。
 対外上は「裕福な医者の家系」ですけどね!

不定の彼女と一緒にいても欲求不満だけどちょっと幸せなんだと思う

 朝、起きるのが少し遅くなった。
 あまり早いと彼女が起きるかもしれないし、なるべく彼女を待っているうち、寝るのが遅くなったから。自然と。
 けれど深夜勤務に合わせて生活をしては、大学生活がおざなりになる。
 …諸々生前でとるものをとったし。そのために20まで待ったし―――兄に名義を借りて、色々と増やしたので。
 別に働かなくても食っていけるし、食わせてはいけるが。
 それでも、やはり。社会的な立場というのは、色々とあった方が便利だ。家に戻る予定はない以上、芸術家を目指して――というか、教授のツテで仕事ができるとありがたい。
 元々物好きな人だ、今世話になってる教授は。医大にいた頃から、彫刻を教えてくれた。
 このまま気に入られて―――というか。おもしろがっているのだろうが。面白がられている方が、便利だ。

 いや、本当。便利だからな。社会的地位。あればあるほど―――というのは制約が出てくるけど。ある程度はいるよなあ。大事なものを―――手元に置くためには。

 …まあ。そんなこと、今はいいか。今は色々、することあるし。
 そう、ひとまずすること。
 起きたら彼女が食べてくれるように、ゆでた卵をむいておく。電子レンジに入れるのにほどよいご飯をひとかたまり出しておく。
 カップを出して、味噌とカツオブシをいれておく。ほうじ茶の茶葉を入れた急須と魔法瓶を脇において、注いで飲んでくださいとメモを残す。茶節という汁物らしい。なにしろ失敗がないし…暖かいもを喜ぶ気配があるので、ちょうどいい。

 本当は起きるまで待っていたいところだけれども。食べるところをみたいところだけれども。
 今日は用事があるので、仕方ない。
 いや、まったく。本当に―――…仕方ないなあ。
 大学に行き、教授に頼まれていた用事を済ませて、製作途中の作品を少し彫っていく。
 途中知人と学食で昼飯をとる時、連絡を入れておいた。
『今日は早く帰るので、一緒に夕飯食べませんか』
 彼女の夕飯は夕飯と呼ぶには早いけれど。そんなことは些細なことだ。彼女の夕飯が俺の夕飯だ。
 …生活パターンを合わせていると、そう思わせたい。
 ……一緒に暮らしているのだと、思ってほしい。
 家族というのは、なにもなければ一緒に食事をとるらしいから。

 ままごとのようだな。まともな家庭のマネごとだ。
 俺はそんなものを知らないし、彼女もおそらく知りはしないが。
 いや、ある程度知ってはいるのかな。言葉の端から聞く限り。

 その辺り、深くつっこめば話してくれそうではあるけれど―――…どうしようかな。
 嫌がりそうだし、聞きたくもない気もする。
 過去は手に入らない。これからどうあがいても。
 手に入らない彼女の話など、聞きたくない。
 けれど同じくらい、聞きたいとも思う。
 そうでもしないと、よくわからない。
 わからなければ、与えられない。

 求めるものを与えて、喜ばせて手に入れるものだろう。人とは。
 あるいは、奪いに奪って手元に置くものだろう。人とは。

「…なあ、峰松、聞いてるか?」
「…ああ、ごめん。聞いていなかった。ぼうっとしていた」
「ふぅん。珍しい」
「昨日、寝るの遅かったし。今、好きな子とのデートプラン考えてたから。ごめんね」
「…前、聞いた気がするけどさ。…好きな子なんだな」
「ああ。片思いだね」
「告白しないの?」
「……するとしても、照れるからそんなの友人には言わないなあ」
 知人の言葉にやんわりと笑う。照れているように見えるように気をつけて笑う。
 ふぅん、と興味なさげに頷く顔を見ながら、家に帰る前に一か所寄ろうと、そんなことを考えた。
 アレから少し作品を進めて、生活用品を買って。午後2時。
 すぐに帰ってもいいけれど。帰っても寝ているかもしれないし。寝ていなくても、一人の時間というものも必要だろう。
 そう、一人の時間というものは必要だ。

 彼女と暮らす古い2LDKとは別の、事故物件のマンション。
 事故物件といっても。だいぶ昔な、俺の元々の住まい。
 部屋の広さはどうでもよかった。設備もどうでもよかった。寝室で不倫の果てに殺しあった夫婦が使っていた部屋だろうが、どうでもいいことだ。
 重要なのは、小さな倉庫がついてきたこと。自転車を入れる程度だけれど。石をしまうのに便利だった。
 石とか―――人に見せるモノではないスケッチとか。
 …とはいえ、生活をあちらに移した今、倉庫以外にもこのようなスケッチがたくさんあるけど。部屋の方も似たようなものだけど。
 倉庫の鍵を開けて、スケッチブックを仕舞う。
 ひとたび開けば、贄川意味奈ばかり描いてあるスケッチを。

「…どうなんだろうなぁ」

 死人ばかり描いていたころより、健全だとは思うのだが。
 今度は描いたスケッチで作るものが妙に猟奇趣味が入り始めたからなぁ。もちろん普通のもあるけれど。
 これは大学に出せない。彼女にも見せられない。
 元から出せないものを書いたり、つくったりするための倉庫だが。

「…ああ、でも」

 見せたら彼女は。
 少しは俺のために心を動かしたり、するのかな?

「…けれど、今じゃなくていいさ」

 あなたが狂気の世界にいるうちは、もう少しおままごとを続けておこう。
 そのまま溺れてくれるなら、真実なんていらないのだから。

意味奈さん不定期間はこんな感じじゃない?って思って。
大征君はこう、こうしておままごとの一般家庭ごっこしていますが。空調とか寝具とかめっちゃ金かけていそうな気がします。ぽんと必要だなと思ったら高い家具を買う。
ちなみに両親とは没交渉ですが兄貴は「これを野放しにしたらなにかやらかすんじゃないのか」という危惧から一人暮らしの支援いくつかしてくれて。金を稼ぐのも手伝ってくれ。現在一切連絡とっていません。
と聞くと理解がありそうで笑いますが兄から弟への評価は「やらかす前に死んでくれ」です。
峰松大征は家族を知らない。

薄氷の上で綱渡り

 ―――昔のことを、ふと思い出した。

『みねまつ君は、おともだちと帰らないの?』
『――さんと帰るのは、お友達と帰るのに入らないの?』
『入るけど、でも。そうじゃなくて。えーと、ガッコウのお友達は?』
『……おれ、嫌われてるから』
『そうなの?』
『うん』
 嘘だ。
 嫌われているか、好かれているかは知らない。興味もない。
 ただ、面倒になって。
 家でやることも色々とあるから、一人で帰っていた。

 帰り道、転んで大泣きしていた彼女のケガを手当てしてやったのが始まり。
 別の学校に通う彼女は、二日に一度ほどの割合で、その公園を訪れた。待ち合わせをしていたわけではないけれど。俺は待っていた。
 当時、その理由は分からなかったけど。
 彼女が目の前で引き潰される瞬間まで、気づかなかったけど。

『なら、わたしとおそろいね』
『そうなの?』
 知っている。
 だからそういう言葉を選んだんだ。
『わたし、なんか、たくさん嫌われちゃってね』
『うん』
『さみしくって。…あ、でもね、一人ね、優しくしてくれる子がいてね。―――君っていうの』
『うん』
『困っていると助けてくれてね、優しいの。列にいれてもらえないときひっぱてくれるの。組ができない時、いれてくれるの。あとね、靴、びしょびしょになったとき、ハンカチくれた』
『うん』
『みねまつ君みたいだね』
『……そう?』
 馬鹿な子だなあ、と思った。
 その子は知らないけど。俺のそれは『優しさ』なんかじゃなかった。
 人は欺くものだった。
 笑って、適当に求めるものを与えて、適当に求められる役をこなして。欺き、操り、好きに扱う者だった。
 俺の周りには、そういうものしかいなかった。

『えっとね、それでね。その子すっごく優しくてね。みんなに好かれててね。あのね。でも、私今度、その子誕生日で。プレゼントあげるの』
『そうなんだ』
『いつもありがとう、って。好きだよ、って。…わたしがやったら、めいわくかなぁ?』
『…優しい子は、そういうこと言わないと思うよ』
 適当に―――求められているであろう言葉を乗せれば、彼女が笑う。
 大きな目が細くなって。二つにくくった髪の下で、赤くなった耳がわずかに揺れる。
 それをみていると、心があたたかくなった。
 あたたかいことは、当時の俺にも分かった。

 俺ではない人間を欲しがる彼女が。俺はとても欲しかったのだと。
 気づくのは、長じてからだったけれど。

 欲しくて欲しくて、欲しくて仕方なくて―――……
 だから。
 彼女が死んだその時、思った。

 とても悲しくて、事故を起こした相手が憎くて。どうしよもなく、絶望して―――
 それでも。
 綺麗だな、と。
 これで彼女はどこにもいかない。
 俺ではない人間の名前を呼ばない。
 もうどこにも、誰にも。ああ。けれど、二度と。

 この感情になんと名前をつければいいのか、今もよくわからない。

 ただ、ふと。
 眠る彼女を見ていると、思い出すだけ。
 顔半分を覆う火傷をそっとなぞる。起こさないように、そっと。
 夕明かりの下で痛ましい傷跡。とても醜く、生理的嫌悪を煽るような、目を覆いたくなるような跡。眉をひそめている時もあるのかもしれない。俺も。
 同時に、こんな目にあったのにこの女が生きていることに安堵して。
 どうしよもなく―――…欲しくて欲しくて、仕方がないと思う。

 欲しいなら、このまま。
 ピンでも刺して、ここにとどめてしまおうかと。
 そんな風に、思うだけ。

 目元をなぞっていた手で、己の口を覆う。
 ふわりと漂う肌の香りは生きているからで、そのことに安堵するのも―――物足りなく思うのも、同じ自分だった。

***

 彼女が目覚めれば、バイトに行くのを送り出す。何事もなかったかのように送り出す。
 明日は早いから、今日は迎えに行けない。
 そう告げても、特に彼女の表情は変わらなかった。マスクのせいで読みづらくもある。
 ただ「気をつけていってくださいね」の一言にとても満たされた心地にはなる。

 なにしろ、彼女と暮らし始めてから、周囲曰く『とても楽しそう』だそうだ。
 穏やかなだけかと思っていたけれど、少しテンションが高いらしい。
 確かに、楽しいことが増えた。
 じゃあ、それでいいじゃないか。
 それだけで満足すればいいじゃないか。

 ―――無理だけど。

 だって。彼女にも同じくらい欲しがってほしい。
 安心を欲しがっているのは分かったけれど。…それを俺に求めてくれるなら、それでもいけど。
 それなら、優しすぎて怖いなど言わないで欲しいものだ。
 手を出したいのも束縛したいのも、全部呑み込んでいるのだから。信用してもらわないと甲斐がない。
 疑いようなく、享受してほしい。


 そんなことを思いながら、家のドアを開ける。
 バイトは終わっているはずだが、彼女は留守だった。天気がいいから、どこかに出かけたのだろう。
 どこかに。
 どこだろう。
 ……誰かと、だろうか。
 そんなに親しい仲の相手は見えないけど。謎の人脈があるからな、彼女。
「……」
 謎の人脈はあるけれど。人懐っこくはあるけれど。…それでも、なにもない相手よりは、恐らく交友が狭いだろう。
 だから、たまに、本当にたまに。
 誰にも見向きもされぬような女だから欲しいのかと思う。
 独占欲が満たされるから。
 自分で傷つけなくても、勝手に付け込む隙があるから。

 自分だけのものになってくれる可能性があるから。

 ぼんやりと思って、出かける前に干した布団をいれておく。天気がいいから干しておいた予備の布団を彼女の寝床にひいておいて、自分の分も回収する。
 なんだろう。家を整えているより巣を準備している気になるのは。
 …まあ、どちらも似たようなものだろう。
 呼び方が違うだけで、どちらも寝て生活するための場所だから。

 その後、彼女の帰宅は深夜だった。外出先からそのままバイトに行ったそうだ。
 それを聞きながら、淹れてもらった紅茶をすする。
 既に飲み終えて布団に身体をうずめた彼女は、小さく声を上げた。
「…どうかした?」
「どうか、というか。………ふかふかですね」

 身体は傷だらけで。
 恐らくは心とやらも傷だらけで。
 誰が見ても「可愛そう」で「痛ましい」女。
 だから執着するのかもしれない。
 理由なんて、それだけなのかもしれない。

 …同時に、同じくらい。
 そんなの関係ないような気がしているし、可愛いとも思っている。
 例えば、今みたいに。少しだけ細くなる目元とか。
 本当に、仕方ないくらいに。可愛く思ってる。

 後日談SSに手を色々加えてみた。鬱々とした恋心のお話。
 彼が彼女を信頼できる日がくるのか、それは私が一番聞きたい。というかこの二人この「謎の同居人」が唯一添える距離感だとしか思えないよね! だって好きって思ったら意味奈さんいなくなるらしいし!

薄ら寒い話

「意味奈さんは誰にでも笑顔ですね」
「それはほら、私はこうですから。そのほうがいいでしょう? いうほどいつもというほどじゃありませんし。…それに、大征君もそうでしょう?」
「…ああ。確かにそうだね」
「それに、誰とも仲よければそれが一番だと思います」
「そっか。…君は前向きだね」
「ふふ。そうでしょうか?」
「うん、…立派だと思うよ」
「そんなこともないと思いますけど」
 俺がほめると、君は笑う。
 笑って、やんわりと否定が多いと。最近気づいた。

 優しいのが怖いと言われた。
 正確に言えば、優しすぎて怖いと。

 確かに、善意だけの人間など信頼できない。人の善意など信頼できない。
 けれど、君はむごいことをされるのは嫌だという。痛いのも怖いのも嫌だという。
 …安心して死にたいと、そんな風なことを言った。

 けれど俺は君を殺したくない。
 殺したいけれど、それだけではむなしい。
 ああ、とても君が欲しい。
 欲しくてほしくて、仕方ない。
 こうして一緒に暮らして――目に見える範囲に君がいて。それだけで十分だったのに。

「…喉乾いたから、お茶入れるけど。…君も飲む?」
「ええ、温かいものならどれでも」
「そうだね」
 君のことが、そのくらいしかわかっていない。

 プロポーズ断られた事件から自分の渇望というか業を自覚しはじめた猟奇趣味がどこにいくのかわからない。R18にいったらGもついてきそうだなとは思う。

目次