知人―――いや。友人だとは思っている男の身辺が、どうにも奇妙な出来事にまみれてきたのは、いつからか。俺の感覚としては、例の怪盗ジゴマ事件と嘯いたあの事件からである。…古川さんの様子をみると、もっと前からだったのかもしれない。
とはいえ、その辺りはどうでもよいことだ。
問題は、彼が現在進行形でおかしなことに巻き込まれているということ。そのことについて、話すと言ったはずだが。最近ちっとも音沙汰がないことだ。
話すといったはずなのに、適当な男である。
適当な男―――なのだろうか。
適当な男と言いきれるほど、紫野燕について多くを知っているわけではない。
むしろ、知らないことの方が多い。そこまで心配してやる相手でもない気はする。…しかし。
しかしな、彼は。それでも、友人だと。一種のシンパシーを感じていたのだな、と。
彼の危機に思いのほか動揺した自分に、そんなことを思っただけだ。
―――俺と紫野燕が出会ったのは、ある活動写真を見た時だ。
あの時の上演は実にすばらしかった。とある国の英雄が、一度すべてを失ったものの、再び栄誉を得るまでの物語。痛快な冒険活劇だったが、栄誉を得た主人公は、最後には民衆に打たれて死ぬ。戦乱が終わった世の中で、英雄はあまりに異質な存在であったゆえに。
そのように、ともすれば後味が悪い物語だというのに……最後に主人公は満足げに笑って、幕が落ちる。その所為だろう。実にすがすがしく、すばらしい物語だった。
周囲の観客もそう思っていたのだろう。よそ見でもして歩いていたのだろう。俺はあの時、誰かに押され、転びそうになり―――紫野君にぶつかった。
おかげで俺は転ばずにすんだが、彼はその靴を水たまりに思い切りつっこむことになった。
見るだけで上質と分かる靴に、これはまずいと思ったことを覚えている。
『これは申しわけありません。…洗うなり、代わりのものを買うなりする資金。私がお出しします』
『別に構わないが』
『いえ。そういうわけにもいかないでしょう』
『ふぅん。そうなのか。…ところで、君』
『はい』
『君も、活動写真が好きなのかい?』
―――その後。詫びをするよりも、とその活動写真の感想を言いあったのが、最初。
それからは、示し合わせて見に行くこともあったし、彼に誘われることもあった。
彼が生家を離れているにしても、本来道が交わるような身分ではなかったが。彼は頓着しなかったので、不思議と。浅く、長く続いていた。
…本当に、不思議と。
不思議と、続いてきた。
だから今、連絡がない今。このまま交流が途切れる方が、いっそ自然ではあろう。
繰り返すが、成人した人間を意地でも、それこそ命をかけてまで守ろうという義理はない。
一度目は、勢いとなりゆき。二度目は、保身ともののついでだ。俺があの時無事に帰さねばと思っていたのは、飯田君と早乙女嬢である。
そう、だから、本当に。このまま連絡が来なければ、それまでなのだが。
「……それでも、気にはなる」
いったい、彼の目が痛んだ理由はなんだったのだか。
不気味なことを不気味なままで放置するのは、存外気分が悪いものだ。
意外な発見を胸に、俺は空を見上げる。
今日の空は、ぼんやりと薄暗く。
彼と初めて会った、雨上がりの季節を思い出した。
眼球倶楽部から最終幕までこんなことを考えてたんじゃないかなぁ、という独り語り。いや、昨日、「初めて会った時のこと覚えて居るか」聞いたじゃないですか。今後なりゆきによってはまた聞くだろうから。今のうちに捏造しておいた。久世さんに怒られたら消す。
たぶん友人とは思っているよ。友人とはね!
あの日は、雨が降っていた。
朝は綺麗にはれていたのに、随分と激しい雨だった。
診療所はいつも通り、重症患者などはおらず。時間をつぶしに来ている高齢の方々でいっぱいだ。
恩師の友人から受け継いだこの診療所は、いつもこのような感じである。
だから、あの日も。この雨じゃ余計に帰れないなあ、などと話す声に頷いていた。
頷いて、その時、診療所のドアがガラリと開いた。
「失礼。こちらは子供のことも診ていただけるか」
雨を背中に、静かにそう問うてくる男は、厳しい顔をしていた。
片手に、彼の奥方の手を。
反対の片手…片腕に小さな子供を大切そうに抱えて、長閑な診療所へかけこんできた。
…それが。
俺と古川誠の出会いだった。
父だという男の腕に抱かれたままの幼子は、時折苦し気にせき込む。これはと思い喉を見れば、脹れてていた。…しかし。
「ご息女は軽い風邪です。心配することはありません」
「そうか」
父親の短い言葉に、彼の隣の母親がほっと息をつく。息をつくご婦人の肩に、そっと男の手が置かれたりもする。
…仲睦まじいな。
横目に見えてしまった光景にため息をつきそうになり、やめる。…これでも医者だ。患者の家族の前でため息はよくない。いらぬ不安を与える―――とか、あの恩師の友人、つまりここの先代は言っていたっけ。
しかし、珍しいと思う気持ちは抑えられない。
雨でぬれているにしても、二人とも、いや。幼子も含め、随分上等の衣服だ。徒歩でこんなところをふらふらしていたのも珍しいし、両親が直接子供を抱いてくるというのも、珍しい気がする。
母親はともかく、父親がな。子守雇うか、母親に任せきりなものだと思っていた。身分の高い家というものは。
…などど、思っているのが顔に出たのか。でないのか。
「…なにか?」
問うてくる顔は、非常に厳しいというか、冷たい。
「はい。お二人も濡れていらっしゃる。着替えを用意させましょうか?」
しかし、口は滑らかに嘘を紡ぐ。
なにしろ、数年前まで一応上流……いや。うちは金だけではあったが。ともかく、腹を探ったり上辺を取り繕ったりして生きてきた。
いや。取り繕って生きているのは。今も変わらない、か。
「それはありがたい申し出だ。…しかし私が着ることのできる服があるだろうか」
「確かに長身ですね。しかし、大丈夫ですよ。これでも診療所ですので」
「では持ってきましょう。それまで、ご息女はお二人が診てれば大丈夫です。…すぐに戻りますが、万が一気になる点があれば及びください」
「ああ。…ありがとう」
しずかに礼を言う彼に、にっこり笑って背を向ける。
そうでもしないと、今度こそ顔に出る。
いや、本当に。珍しい。
下のものにあそこまで素直に礼を言うか、あの手の身分の者が―――と。
ちなみに、服を貸すとき、彼の身分を聞いた。身分を証明するものを見てしまった。
華族で軍人とは恐れ入った。…恐れいったというか、本当に。本気で。
随分とまあ、飾らぬ人柄であることだ。
その後、ほんの少し熱の引いた娘を抱き、家に帰っていく貴人は、とても穏やかな顔をしているように見えた。
それからも、不思議と彼との付き合いはつづいた。なにしろ共通の知人がいたし、なにかと診療所に足を運んでくれた。
なんというか、本当に。実に気さくな貴人だ。それが女性から好意を寄せられる秘訣なのだろうか。あるいは顔か。そこは顔か。いや。古川さんの容貌のことなどどうでもいいが。
そう、古川『さん』。この呼び方とて、やはりおかしい。変っている。
勿論最初は古川様と呼ばせてもらっていた。彼は客だし、身分が身分だ。
しかし、それは堅苦しいという。ならば、と彼の階級で呼んだ。別におかしな対応ではないだろう。
だというのに、彼は言った。
『君と会うのは私事だ。気を遣わないでほしい』
なんというか……本当に。
もう、色々と考えるのが馬鹿らしくなるな。
色々と諦めたのは、その頃だった。
そうして、その頃を経て。
今日もかの貴人は目の前で猫を撫でている。
おっかなびっくりだ。とてもおっかなびっくりだ。
…数分すれば慣れるんだろうが。この方のことだから。
「……なにか?」
「いえ。改めて奇妙な縁だと思いましてね。…というより、あなたはやはり変った人だ」
「そうか」
誠実な貴人が、静かに答えてくる。
あまり動かない表情は、それでももしかしたら任務の時よりは柔らかかったりするのであろう。
なにしろ、今は私事の時間であるそうだから。
そうなんだろうな。たぶん。
先生と古川さん友達なんでしょうけど。友達になるまで色々とあっただろうなあ。ふふ。
この手のものぼちぼち増えますよ!
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