今日も幸福は遠く苦い

 物心ついたころから「はい」以外の言葉は許されなかった。

 なにが欲しいかとは、よく聞かれた。
 何を要求しても否定されたのを覚えてる。

 例えば、本が欲しいと言ってみた。
 どうせくだらぬものだろうと言われた。

 ならば、と父の職業に関係ある本を選んでみた。当時、意味など分からなかったけど。
 子供のくせに小賢しいと、結局買ってもらえなかった。

 小賢しいとか、くだらないとか。
 言葉の意味をよく知らないうちからたくさん聞いたので、一時期はそれが「こどものこと」を示すのかと。私はそう思っていた。

 母は、優しかった。
 ぼんやりとしていると、よく本を読んでくれた。
 なでてくれた。

 少なくとも私が幼い頃は。
 忘れもしない、10歳のあの日までは。


 母は、優しかった。
 今思うと、動き方がぎこちなかった。
 いつもどこかをかばっていた。

 今思うと……
 いつもどこかを痛めていた。
 服を着ていれば傷は見えなかったけれど。
 痛めていると、そう気づいたのは。やはり10を過ぎた頃だった気がする。


 ………。
 母は、それでも優しかった。

 私が殴られるようになるまでは。
 代わりに殴られるようになるまでは。

 始まったのは、小学校に上がるころだった気がする。
 母はかばってくれなかった。
 たくさん泣いてはいた気がする。

 空っぽな笑顔で本を読んで、泣きながらなでてくれる。
 それだけの人だった。

 今ならわかるのだ。
 今なら、わかる。

 それでも精いっぱいの人だったのだろう。
 それでも。
 それでも、10歳の時。

 殴られ、なじられ、そうして、廊下の方にいた母と目が合った

 涙をたたえて、悲しそうに。
 口元に、笑みが。
 うっすらと笑う、母と。目が。
 ……目が。


 ………
 それ以外の両親に関する記憶は、曖昧だ。
 なにしろ代わり映えがない。
 家を出るまで、決まりきったルーチンワークをなぞってた。
 なじられ、たまに殴られ、否定され、外にいれば褒められるから怖かった。
 自慢のよくできた娘ですと言われるから、怖かった。
 怖いという感情すら、そのうちに感じなくなった。

 勉学をおさめれば認められるかと思った。
 調子に乗るなとなじられた。
 少し成績が下がった時があった。
 親に恥をかかせるつもりなのかと踏みつけられた。

 同級生の話を聞き、欲しくなった髪留めを買った。
 ささやかな、プラスチック細工のついた安いもの。赤色の澄んだ、小さな花を。
 色気づくなと殴られたし、安っぽいと取り上げられた。
 自然と、身なりを整えるという発想はなくなっていった。
 いつも辛気臭い顔だと言われるようになった。
 少しは華やかな格好ができないかとなじられた。
 …なにを選んでもなじられるので、用意されるものばかり着るようになった。

 体を鍛えるようになった。
 家で鍛えたのでは、殴られるだけと覚えた。
 部活に入った。
 胴着さえ着れば腹や脚が隠れてちょうどよかったので、剣道にした。

 ほどなくして、それなりの結果をたたき出した。
 どうやら才能があったらしい。

 父の言動も、暴力も変わらなかった。
 母の無気力も、泣き顔も変わらなかった。

 けれど少しだけ、心に余裕ができた。
 外部で認められて、ようやく思った。

 ―――こんな家は出ていこう。

 高校を出たら。
 住むところがなくても、食べるものがなくても。どんな仕事でもいいから、家をでよう。

 口に出せば殴られるのは目に見えていた。
 学校という社会に出ることがなくなれば、あるいはもっと暴力が激しくなるかもしれない可能性も。

 だから、少しずつ用意した。
 母方の祖父母に連絡をとった。
 …しぶられたが、一時期身を寄せる算段がついた。

 そうして―――もうすぐ卒業するときだった。

 結婚するらしい。
 私が、結婚するらしい。

 10だか30だか年上の遠縁だった。
 一度結婚し、妻と別れたらしい。

 今度は若いものが良いということだったらしい。
 自分が躾けてやるから、何一つできない娘でも構わない。むしろ、そのほうが好都合だと、そんな風に言っていたらしい。
 …要は妻には逃げられたのだろう。

 ありがたく思えと言われた。
 お前のようなものをもらってくれるできた人間など、他にいないと。
 なにもできないのだから、黙って従えと。

 ありがたく思えと言われた。

 嫌だ、と言った。
 殴られるために、証拠を残すためにそうした。
 殴られている間は、相手のところに連れていかれることはないだろうと思ったから。

 学校には、階段から転げ落ちたことにした。
 …不審には思われていたのだろうけれど…それだけだ。


 卒業式の日、逃げ出した。
 必死で死守していた印鑑と身分証明書だけは持って、逃げ出した。
 逃げて、働いて、逃げて、逃げて。逃げた。
 追われているのかわからなかったけれど、気持ちはずっと、逃げていた。
 祖父母のところにいったのは半年後だ。
 そうでもないと、すぐに連れ戻されると思ったから。

 案の定、そちらに捜索の手は伸びていたらしい。
 らしいけれど……
 思ったよりも、歓迎された。

 …あるいは、母が何か言ってくれたのかもしれない。
 私は迷惑で、厄介ごとの種でも。母のことは愛していたのかもしれない。

 住所を得て、バイトをした。
 金をためて、また引っ越した。


 そうして…
 そうして。

 色々とあった。
 色々なことがあって。そうして。


『史美さん』
 記憶の中から、声がする。
 やわらかな、幼い声がする。
 愛し愛された子供だった。
 親だけでなく、周囲にも。
 幸福を祈られた命だった。
 私が助けることができた命だった。

 だからしばらく一緒に暮らした。
 家族の真似事をした。

 だから、おそろしくなった。

 なにをしていいのかわからなかった。
 非日常、彼女の命を守ることができても。日常の中で彼女になにかをできることなんて、何一つ。

 だから怖くなった。
 怖くて、彼女と別れた。両親を亡くした彼女には、それでも優しい親戚が残っていたから。

 別れたけど、彼女とはたまに、電話で話をする。
 その程度なら、できる。
 その程度なら、できるようになった。

 その程度すら、精いっぱいだ。


「…新年、あけましておめでとうございます」
「はい! あけましておめでとうございます!」

 この笑顔を見ているだけで、精いっぱいだ。

「初詣、もういってしまいましたか?」
「ええ。でも、2回行ってはダメということはないでしょう?」
「はい。…1日でもよかったんですよ?」
「そういう日は、家族とすごさなきゃダメですよ」
「でも」
「あなたは心配する人がいるから、そういうことはこなさなきゃダメ。…でも、一緒にいきましょうね、初詣。
 よい神社がありますから」
「良い神社?」
「あなたならきっと良い友達になれる子がいるんです。今日もいるといいんですけど」
「それは楽しみですし…終わったら剣教えてくれますか?」
「…だ、だから。そこはあきらめてください」
「…かっこよかったですよ?」
「だから、…それだけは、あなたのお願いでもダメ」
 なだめるようにそう言って、今日は自分から手を伸ばせた。
 そっと手をつないだ彼女は、ふんわりと笑っていて。

 ああ。家族になんてなれないし、なりたくないけど。
 この笑顔を眺めているのは、とても―――幸福なことだ。

とてもふわっとした救いようのない人のお話。
何が救われないって、本人が救われたくないと思っているところが。
だってもう救われたから、これだけで十分だと思ってる。

彼女の母親は普通の人でした。
普通だからじわじわと壊れて、娘の心にとどめをさしたわけですが。
今も逃げるという発想は失せているけれど。もしかしたら娘の身は少しだけ案じているかもしれない。
父親はまあ、わかりやすい外面お化けのくずだよ。それがすべてだよ。今の史美さんなら素手で殺せるだろうけど、骨まで恐怖がしみついてるから会っても逃げるしかできないよ。そういう人だよ。

史美さんの環境にわかりやすい救いがあるとしたら、どっからどう見ても虐待だからまだ助けを求められたところじゃないかなあ。
20歳の瞬間死ぬほど頑張って法的な縁きりまくった。

繰り言だけが響いてる

 手の平に、感触が残る。
 救えなかった人の赤い色の熱。
 私が斬ったものの、感触だけが。
 どうしたらよかった? どうしたら救えた?
 今もわからないまま、私はあの日を思い出す。
 がたがたと震えはじめる無様な手に、終わらせる手段だけが残った、あの日のこと。
 あの日のことが―――残ってる。

 ある人を救えなかったあの日から、私は一時期例の探偵社を辞めた。やめたというか、休暇をとったというか。バイトだからしばらく休んでいるだけだというか。
 しばらく別の町で暮らしてみた。
 そこでもおかしなことに巻き込まれて、でも生きて帰ることができて。なんか、助けた子としばらく暮らしたりもした。
 その子と暮らす日々は、幸せだったと思う。
 違う、幸せだった。そう認めるのが、なんとなしに後ろめたかっただけ。
 恩を返す、と言ってくれたあの子。
 でも彼女には、私より一緒に暮らすべき人がいるだろう。というか刀教えてくださいとか言われてしまったし。そんなこと教えたくないし。そんなことを教わりたいのなら、一緒にはいられない。
 ……恩など、返してくれなくてよい。
『あなたは生きていてくれた。それだけで、いいんです。これからも、元気にまっとうにしてくれれば。それだけでいいの』
 別れ際にあの子へと告げた言葉を思い出す。握りしめた手を思い出す。
 あの子と暮らした数か月、私はその熱を感じる度に泣きたくなっていた。

 そうして結局、例の探偵社に戻ってきた。
 数か月たっても同僚は元気だったし、所長は所長だった。ツタヤの連帯料金を恐れ徹夜してた。本当所長マジ所長。
 別にこの探偵社でバイトしていても、稼ぎはないに等しいのだけれども。
 所長はともかく、他の二人が慕わしくて。戻ってきた。
 戻ってきた矢先、また怪奇現象に巻き込まれたことは―――そろそろ笑える。


 ……笑う元気あるくらいには、私にとっての救いがあったあの出来事。
 あの出来事の舞台にそっと足を運んで、玄関に座り込んでみる。
 ここに先生がいるかは、知らない。
 姿を消しているのかもしれないし、今はどこか外にいるのかも。
 でも、どうしても。いい損ねたことを言わないと。
「正直翠ちゃんの件はまるで分からないんですけど―――……たぶん、先生が私を助けてくれたのは分かります」
 あの時、玄関から出れなかったあの時。あるいは、明らかに翠ちゃんがこの家にきていないことに気づいた時。
 ああ、たぶんあの子に、何かしらを裏切られたんだろうな、と思わなかったら嘘だ。
 それでもいたずらかもしれないとも思っていたけど……あの時の傷が綺麗に治るのは、人間業じゃないし。
 ……別に、良かった。
 あの子が人間じゃないことは、どうでもいい。本当に、どうでもいいの。あの心が人なら。それでいい。
 それでも、たぶん、タイミングとか、先生のメモとか考えると……陥れられそうになっていたのかもしれないし。
「だから、ありがとうございます。先生」
 答えはない。聞いているかは知らない。
 どちらでもよいことだ。人も、化け物も、私にとって。
「お礼になるかは知りませんが、私の部屋ならいつでもきてほしいし、記憶ならいつでもお好きな時に見るなり煮るなりどうぞ」
 ああ、むしろ。忘れさせてほしいかもしれない。だからここにいるのかもしれない。
 ずっとずっと手の平にこびりつく、あの無力感を。
 いや、ダメだな、それは。
 そんなことまで望むのは、あまりにムシがいい。あまりに……すくえなかったあの人に、申し訳ない。
 手の平を握りしめる。あの日からタコの増えた手の平。あの日と違う、赤くない手の平。
「……ホント、ロクなお礼もできませんが。先生のファンなのは本気でしたので、どうかお元気で」
 何度も何度も蘇る後悔に蓋をして、言いたいことだけ言ってみる。
 届いているかは知らないし、それこそどうでもいい。
 ただ、ずっと、予感があるだけ。
 私は多分、天寿を全うしないだろうなと、ぼんやりと薄暗い予感が、こびりついているだけ。
 だから、今のうちにいっておこう。
 先生。あなたを消さずに済んで、本当に救われた気持ちになったんです。私は。

 ちらちらと彼女の探索人生が見えるけどネタバレはしていない。致命的なあれやこれやは。
 先生がかわいかったのでいっそ一緒に住みたいくらいでした。というだけの話。
 2017/01/19
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