病院で籠目さんが語る言葉を聞きながら、愕然とした。
そもそも、目の前の彼女が語る過去が真実かどうか、判断する術がない。私が今彼女を信じるのは、彼女の知人であり、嘘をついていると思いたくないだけ。
そのことに気づき、愕然とした。
ああ、そうか。
当事者じゃないというのは、そういうことか。
こうして、疑われている間に。
目の前のこの子はこうして傷ついて。
そういう父親から逃げたい程度には心が残っていた彼は死んで。
………もういない彼は。ひとりぼっちで苦しみ続けたのか。
ああ、本当に。
当事者じゃないというのは、こういうことなのか。
***
花屋で菊を買う。
…いつもと違う花屋なので、顔を覚えられていないのが新鮮だった。
最近、家の近くの花屋では顔を覚えられた。心配までされた。そんなにマメに墓参りに行かずとも、と。
月命日だけだ。大げさな。と思うけど。心苦しい気がするので、以降はスーパーで買っている。
花束を持って、ガケに行く。
このガケで聞いた話を思い出す。姉さんは自分を嫌ってる、食事に毒まで盛った、か。
彼女が彼を嫌っていたのは確かだろう。おそらくは、外に良く見せたかったことも。身についた処世。日本人の習慣として、真実だろう。
…毒を盛るくだりがなきゃ、多少信じたかもしれない。
隣人の迷惑を考えずに真昼から性行為にふける人間の言うことだ。鵜呑みにまでは、できないけど。
家族だから毒など盛らない――とは思わない。毒などそうそう入手できないとも、思わない。
ただ、そうであるなら、人を呼んで外に出そうとは思わないだろうとは思う。後ろめたい人間は、家に人を入れたがらない。
ここで死んだ籠目稲人という男は、なるほど、確かに。どうしよもない男だったのだろう。
けれど少しだけ思う。
姉さんの苦しんでいる顔が好き。
吐き気を覚えるべき言葉なのだろう。
あんな男は死んで当然だと思うべきなのかもしれない。
けれど、少しだけ。少しだけ羨ましい気がした。
好きも嫌いも、愛も憎いも。私にはもう分からないから。
私も―――死人も。そういった感情を抱くことはできない。
なにかを好きと思うだけの心があるなら、それでいいじゃない、などど。
そう、籠目市子はそんなことを想う必要はない。
彼女は、今度こそ、自分の思うとおりに、思うままの道を選べばいい。自分のことだけを考えて生きて欲しい。
ただ、思うのだ。
世の中には、余力がある人間がたくさんいるくせに。
暇をもてあまして、くだらない噂話をするしか能がない奴らばかりなのに―――
どうして。
どうして、誰も助けてくれないの。
なんで、どうして、誰か。
籠目市子を助けるべきだ。
籠目稲人を助けるべきだ。
彼らのような、自身では選べないハズレくじを引かされた人間を、一秒でも早く。誰かが。
でも、現実には誰もいない。
いるけれど、足りない。本当に、くだらない人間ばかり。
…そのくだらない大衆の中に、今の私も入っている。
籠目さん一人が生きたところで、何一つ変わらない。
彼のような人間はごまんといる。
籠目市子を助けてたところで。彼の過去も、死んだ事実も、覆らない。
「………」
私の命よりも大事だった子。
するりとこぼれた言葉に、笑えそうになった。
彼にそう言えなかったのに。
籠目市子をみたら、彼はどう言っただろう。
私には想像もできない。
籠目市子を助けたことを見てたら、見直してくれただろうか。
想像もできない。
籠目稲人が死ぬのを見たら、悲しい顔をしただろうか。
想像もできない。
私より上手に寄り添えただろうか。
それも―――なにも、想像もできない。
誰よりもなによりも大切で。
関わるのが怖くて遠ざけて。そのまま二度と会えなくなった。
だから、なにも分からない。
「…ごめんね」
ごめんね。籠目稲人さん、あなたのことは助けられなくて。
「………ごめんね」
市子さん、あなたを代わりにしていると言ったのも嘘だ。
彼の代わりなどどこにもいない。
彼の代わりなど何一つなれない。
「……ごめんね」
愛しくて憎くてもう会えない君。
きっとそう思うことすら間違っている、私のたった一人。
私は今も。
君に会いたい以外の願いが、何一つ見つからない。
とんだキャラシ事故で楽しかったです。ちょっとだけ救われて、それ以上に絶望してる。
代わりにしてるのが後ろめたい程度には善人で。代わりなどなるものかと思う程度にこじらせて。
世界が嫌いで、それよりも自分が嫌いな女の独自。
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墓の前に、女が手を合わせている。
真新しい花束を、枯れた花束に取り換えながら、穏やかに。
穏やかな笑みをたたえて、語り掛ける。
「ねえ、この間、おかしなことを言われた」
「おかしいでしょう。私、やさしいんだって」
「困ってる相談受けてるのに、他人事みたいでダメだよって怒られるのにね、ああ、君にも注意されたっけ。もっと聞くものじゃないですか、って」
風が吹き、花がなびく。それ以外の音はない。
女の声だけが響いていく。
「君が言ってくれたことは、気をつけてるつもりだけど」
「やさしくなれたなら、うれしいな」
「君にもね、もっと優しくしたかったから。だから、やさしくなれたらうれしいな」
穏やかな、穏やかな笑みで女は墓に声をかけ続ける。
「彼女、これから小説を書くんですって。できたら読ませてくれるって。…ここにも持ってくるね」
「…楽しいと思えるかな。私、よくわからないんだけど…」
「君も楽しいと思ってくれるかな。思ってくれたら、いいな」
女の笑みは変わらない。
水を取り替え、線香に火をつけ、そっと手を合わせ目を閉じる。
「……ねえ」
「ねえ。なんで何も言ってくれないの」
ゆるりと開いた瞳が、墓を見る。
笑うのをやめた唇から、今にも途切れそうな声が漏れる。
「なにか、言って」
墓石は何も返さない。
「ひとりに、しないで」
ため息に似た言葉は、強く吹いた風に紛れる。
乾ききった瞳がパチリと瞬き、じっと伏せられた。
墓所にはもう、何の音も響かない。
理由などわかっている。
理由など知っている。
墓所には何の音も響かない。
一人でいると延々こういうことしてるからコヒナさんはオフはパフォーマンスかボランティアか知人に会うでつぶしています。
誰といても「ひとりだなあ」と思うタイプ。友達甲斐はない。
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