遠い昔、忘れがたい記憶がある。実際はいつのことだったのか、そこを覚えてはいないけれども。
それでも、記憶は鮮やかだ。
覚えているのは、突き刺すように冷たい空気。その寒さに、吐く息は白く。握りしめた手は冷たく。
それでも、目の奥が熱くなったのを覚えてる。
昔の俺は、習い事が多い子供だった。
それは嫌ではなかったが、好きでもなかった。最初は楽しかったが、すぐに飽きた。…集中力のない子供だったのだ。要は。
その時、その日はことにそうだった。
どうしよもなく、その稽古に行きたくなかった。
だから、家を出た後に、さぼった。近くの公園で、ぼんやりとすごした。
そこで夕方まですごしていると、迎えが来た。
心配そうな顔をした母と、いやそうな顔をした姉だった。
母は、さぼりの理由を聞かなかった。
ただ怪我ををしていなければいいと言われて、くしゃくしゃと髪を撫でられた。
姉も、さぼりの理由は聞かなかった。
呆れた顔をして、一度ぺちりと俺をはたいた。
その時二人にかけられた言葉は、よく覚えていない。
覚えているのは別のこと。
『まったくもう、あんたは。なんでそうばかなの?』
『旭、そう言わないであげて。この子にもなにか考えがあるの』
『でも、馬鹿は馬鹿でしょう』
『…あなたは少し言葉を控えなさい。それではダメよ。無駄な敵を作ってしまう』
『……はぁい』
そのやりとりを見ながら、思った。気づいた。…胸が痛んだ。
―――両親は優しい。俺が何をしても怒らない。…なにをしても何も言わない。
なにも……期待していない。
いつだって、なにかを頼まれるのは姉だった。
なにかを期待されるのは姉だった。
その時感じた思いは、なんだろう。
劣等感か、失望か、絶望か。
…どれもおそらく、少し違う。
そこまで大げさなものではない。
けれど、思った。
ああ。ダメだ。
俺は、ここではダメだ。
それからも、似たようなことは数度あった。
両親は俺がどれだけ落ちぶれようとしても優しく…高校をさぼり気味の頃は、さすがに苦言を呈されたが。基本的に優しく。
姉はともかく俺に厳しく、それ以上に己に厳しく。眉間にしわを寄せながらある日婿候補つれてきて、そのまま結婚し。子供を産んだ。…姉が笑うのを見たのは、無事に子供を産んで数日たった日が初めてだった気もする。
……ああ。ともかく、なんだ。
俺はともかく実家が苦手で、ことに姉が苦手だという話だ。
***
色々あって入院した。
知り合い…知人。…友人を病院に連れれいったら、自分も同じく入院することになった。
…けどな。
これ、みてもらっても分かんないだろうな。
胸糞悪くなるようなあれこれでできた傷を、ぼんやりと眺める。恐らくずっと治らないだろう傷を眺める。
…けれど、これだけですんだのだから。安いもんだろ、友人の命助かったことの代償としては、上等だ。
そう。だからそれはいい。いいんだ。入院は。二日だけだし。本当。だがしかし。
「…久々に会った身内になにを渋い顔を」
実家で清く正しくせわしくしているはずの姉、三ツ木旭は椅子に腰かけながらそう言った。
「…いやだって。あんた忙しいだろ。なにをわざわざ遠出して…、…そもそも俺は連絡入れては」
「あなたの上司が知らせてくれた」
「じーさん…!」
しかしうめくまでもなく彼しかいない。入院のことを言ったのは彼と周ちゃんだけだ。
「…不満?」
「…いや。…本当申し訳ないだけだよ。……明日退院するし。病気とかじゃないけど、…本当、なんで」
「私も仕事でこちらに来る予定があっただけ。そうじゃなきゃ来ない」
「…そっか」
「そっか。ではなく。申し訳なさを感じる点がずれて居るんじゃないの?」
「いや、俺だって長期入院とかになったらちゃんと知せ―――」
「それでもなく。来てたらしいわね。京都」
ちくりやがったあのジジイ。…では、なく。
「…いや。確かに行ったが。急に仕事が入り顔を出す暇がなかったんだよ」
「言い訳がましい」
「はい申し訳ありません」
気が付くと背が伸びて、気が付くと頭を下げていた。条件反射だ。
「…衛太郎」
「はい」
俺は昔から。この八つ上の姉が苦手だ。
嫌ってはいない。疎ましくもない。几帳面な仕草に、落ち着いた声色に。ただただ体が硬くなる。
…後ろめたさと、劣等感で。なにもかもがぎこちなくなる。
「あなたが実家に戻ってこないこと。私はどうでもいい」
「…はい」
「でも母と父とチビたちは少し残念がっていた。少しだけど」
「姉さんのとこの息子と娘に関しては俺が申しわけなさを感じる言われは」
「話は途中。黙って聞いて」
「はい」
「……私が婿を取ったのはあなたを追いだすためではない」
「言われずとも分かってるが、そこは」
「あなたがクズというか、根無し草というか…ふらふらしていること。私は気に食わないけど。両親は気にしていないし。それこそあなたも知っているでしょう、そこは」
「……」
固い体が鈍く痛む。特に耳が痛い。ちぎれそう。
「都合が悪いからと言って黙らない!」
「はい!」
そして黙って耳を痛がらせてもくれない。この人は。
椅子から立ち上がった姉は、がしりとこちらの肩をつかんでくる。
小綺麗に整えられた眉が強く顰められ、眼鏡の奥の瞳がひたすらに厳しい。姉はあまり目つきがよくないから、余計にそう見える。
化粧を落とせば顔は多少似ている―――それ以外はなにも似ていない俺の姉。
「衛太郎」
「……なに?」
「あなたが顔を見せても見せなくとも。うちの両親はあなたを気にかけているし…その程度でつながりを斬れると思うな」
「……別に切ろうとは思っていないよ」
「そう。その通り。あなたは切ろうなんて思ってはいない。なあなあに適当に生きて、そのままふらふら出ていったのが後ろめたいだけ。
…だらしがない。意気地がない。それが成人した人間の態度? 思春期かなにかなの?」
「なああんたの辞書にデリカシーとか遠慮はないのか!?」
「使う価値のある相手にしか使わない」
「ぐ」
「…そこで黙らずに。価値あるものになりなさい」
「……それは」
「…本当に。意気地がないこと」
俺はこの似ていない姉が、本当に苦手だ。
常にやるべきことを、言うべきことを見据えるこの人が。
なんというか……なんというか。きつい。
…よくとコレと恋愛して結婚した男がいたものだ。猛者か。
諸々の思いで目をそらすと、静かなため息が聞こえた。
明らかに聞かせるための、呆れをたっぷりと含んだため息だ。…結構嫌味だしなあ、性格もさ。
「怪我しているのは本当のようだから。寝なさい。見舞いは例の所長さ…先代さんの方へ渡してきた」
「……悪い」
「ありがとう」
「は?」
「ありがとうは? 見舞いに来たのは仕事のついでだけど。品物を選ぶときは並んだの、私」
「……ありがとう」
「よろしい。…あと。思ったより顔色よくて安心した」
言うなり肩から手が離れる。
ついでといわんばかりに、ぽん、と一度頭を撫でられた。
そのまますくっと立って、ろくな音もなく静かに病室を去っていく。
病院だからと、明らかに気を遣ってる。とても静かな足取りで。
それを横目で確認して、ようやく肩から力が抜ける。
…俺はあの人のことが、本当に苦手だ。
堅苦しくて正論ばかり。きつくて説教ばかり。口元が笑っていても、こちらを見る目はいつだって笑っていた試しがない。
けれど嫌ったことは一度もない。それは、相手も同じだろう。
…顔色よくて、安心、だもんなぁ。
「本当……苦手だ」
卑屈いうか女々しいいうか、なにげにコンプレックスがこじらせ系男子三ツ木君。セッションには別に関係ない小話。
ちなみにきょうだい仲は悪くないのだけど。嫌いあってもいないのだけど。なんか苦手。とお互い思ってる。別に姉ちゃん探索者にはしない。性格的に厄介事関わらないだろうし。保身のために身を引くタイプだろうし。姉。
塩屋 周 様
これを見たということは、連絡が行ったのだろう。
ならば今更という話なのだろうが、口座をひとつ残しておく。
退職金、あるいはバイト料。
バイト続けるかは君が決めることだ、どちらととるかは君に任せる。
君にしてみれば覚えのない金だろうが、受け取ってくれると嬉しい。他に渡す相手もいない。
親にしてみりゃはした金だし、あちらには保険行くし。気にするな。
とはいえ、気にはなるだろう。君は俺の妹でも娘ではないわけだから。
どうせ最後だ、言っておこう。
あの京都の一件で、君は俺を尊敬していると言った。
隣に立ちたい探偵だと言ってくれた。
俺はそれが嬉しかった。
なんの情熱もないまま始めた探偵だった。
先代に拾われただけだった。
それでも誰かに影響を与えたのが嬉しかったのだろう。
それにともう一つ。
君がそう祖母の話をしているのを聞いているが 楽しかった。
だから君の夢が叶えばいいと思う。
そういうことだ、受け取っておいてほしい。
後味が悪ければ、さっさと使ってしまえばいい。
できれば少しは君の人生に役に立つことを願っている。
三ツ木 衛太郎
***
「……」
書き終えた手紙を小さな金庫に仕舞う。金庫に仕舞って、それを机の引き出しにしまう。
金庫の番号は弁護士と先代に伝えておいた。なにかあったら伝えてくれるだろう。
実にこっぱずかしい。これは見られたら死ぬしかない。死ななきゃ見られない予定だ、大丈夫だろう。
……別に。死ぬ気があるわけではない。
ただ、半年前。半年前の京都の一件は、堪えた。
堪えて、遺言状でも作っておこうと決めて。できあがったのが昨日。…こんなにもかかるものだったんだな。
『待て待て、あれなのか!? 俺はそういう目で君を見るべきなのか!? 前提条件が色々違くなる! 俺は君をそうい目でみてないからこそお預かりしていたわけでな!?』
『そこは先輩の好きでええんちゃうの?』
「……俺の好きにつーなら、こうなるだろ」
この関係の名前は、先輩後輩。追加して雇用主被雇用主。
あの時それに『相棒』と追加されただけ。
俺の気持ちとやらの行き場は……まあ、別にいいだろう。
別に、そんなものがなくとも。
死ぬかと思ったあの一件の後、ふと。ふと彼女に残せるものがあればよいと願った、これはそれだけの話なのだから。
…ああ。死を意識したのは。京都の一件と、もう一つ。
とある友人を、女を助けに行って、エライ目にあった時。
迫る危機から他の友人と逃げまわる内、ようやくその助ける対象を見つけた。
手ひどい怪我を負ったその女を、最初は俺が背負って。どうにも逃げられなそうだから、別の友人が背負ってくれた。…彼女の友人は俺一人だったので。彼に彼女を助ける義理はなかったはずなのだが。おいていけという彼女に、その友人は言い放った。
『黙って背負われてろ! 俺は! お前を三ツ木のところに返さなきゃいけないだよ!』
『その気遣いはマジありがてぇし、手負いの俺よりあんたが早いが。そいつと俺はそういうんじゃねぇよ?』
―――そんなものではない、彼女は、そんなものにはならない。……俺は、と。
…帰れないと思ったあの時、浮かびかけた言葉は。生涯追及しないでおこう。
違う、追及するまでもない。
死を近くに感じたあの時に、思い浮かんだのは札を切る音と、静かな声。
最後まで、塩屋周の信頼に値する『探偵』でありたいと願った。
それは確かなことで、それだけでいいのだろう。きっと。
テーマ:愛してると言わずに愛してると書いてみたけど。恋なのかどうかは色々とひたすらに微妙というか。彼に自分からそれを恋と認める男気があるわけないだろう!というあれです。
彼にとってはなんだろうね、もういっそ所謂ファム・ファタール的なあれですかね。宿命の女。運命を変える人。破滅する運命をもたらすもの。でも悪女ではないね。あと単純に仲間だと思っているというあれでもありますしね。
しかし彼が死んだら届けられるのはきちんとした遺言状が届きますよ。個人の貯蓄はすごい額とかじゃないだろうけど。三ツ木たぶん車以外に金使てない。金かかる趣味はない。
こっちの遺言ポエムは先代所長あたりに金庫の番号伝えられるよ。仮にも所長だから身の回りの整理してるよ。きちんと弁護士もつけた遺言書が銀行あたりにあるので間違いなく財産が行くよ! 事務所は一旦先代の元に戻るようにしてるよ!
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