夢をみた。
 夢だったのだろうか。
 夢をみた。
 ……ただそれだけの、はずなのに。
 乾いた喉に、塩味が広がる。
 額からとめどなく流れる汗が、あるいは目から流れるなにかが。
 口の中に、ひどく苦い味を広げていた。

夢のあとの話

 数日前のことだ。僕は、夢を見た。
 ひどく悪い夢。不気味で悪趣味で……冒涜的なんて言葉が浮かぶような悪夢。
 けれどただの夢で、夢のはずなのに。
 ここ数日、調子が悪い。
 ……身体は、別に。なんともないけれど。
 気分が悪いんだよな。
 ―――そう、僕は。ただ気分が悪いだけ、だろう。
 勤め先からの帰り道。
 そんなことを思いながら歩いている。
 ここ数日、日課になってしまった行動だ。
 気を紛らわせたくて、町を眺める。
 曇り空の下、どこか憂鬱な色に染まったアパート。
 ちゃりんちゃりんとベルを鳴らして走っていく自転車。
 澄ましたように歩いていく、白い猫。
 ……本当に、いつも通り。いつも通りの。帰り道。
 ああ。本当に。
 いつも通りなのに、ちっとも落ち着かない。
 物事に動じない、クールな人とか言われたりしていたんだけど、な。

 けれど―――
 けれど、繰り返し思いだしてしまうんだ。

 夢をみた。
 夢をみていた。
 ただの夢を。
 夢でしかないはずの、悪夢の光景。

 けれどなぜだろう。
 生々しい恐怖感。
 鮮やかな嫌悪感。
 死を覚悟した、否、死んだとしか思えない苦痛。

 思いだす。忘れない。忘れることなどできない。

 明るく優しい女の子。
 驚くほど朗らかな女の子。
 鮮やかに勇敢な青年。

 なにもできなかった自分。
 それに、もう一人。
 もう一人、女の子が。
 小さな、か弱い。今にも折れそうな女の子。

 その手に不釣り合いな拳銃。
 何も映してないようなうつろな目。
 ≪名前もない 貴方の 下僕≫
 何もしゃべらない。けれど確かに。
 嬉しそうに頷いていた。
 怖がっていた。

 そんな女の子が。

 女の子、が。

 赤い。
 見慣れた色。
 見ている色。
 見慣れぬ生き物。  生き物?
 あれはそんなものだったか?
 違う、僕は。その名前を。夢の中で。違う。あれは、夢、では。

「……重症だ」
 たどり着いたバス停で、ぼんやりと息をつく。
 いつもの便が来る前で、あと数分というところ。
 他にすることがないので、時計の針を眺めている。
 銀色の針が動いているのを、ただ眺めている。
 銀色の、針を。
 ―――銀色。
 銀色の、器に入った。赤い、赤いスープ。
 中身を、僕は知ってる。わかる。
 いつも見ている色。あの女の子がまき散らしたのと同じ色。
「……あー……」
 僕はいつまで、こんな思いを引きづるのだろうか。
 答えは出ない。
 答えは出ないし、きっと忘れられない。
 向こう側から走ってくるバスを眺めて、はあと息をつく。

 夢をみた。
 夢でしかないはずなのに、心むしばむ悪夢を。
 その夢のことを、僕はよく覚えている。
 覚えてだけの、終わってしまった物語。
 狂気と血肉に彩られた物語。
 なにもできないままに終わった、小さな誰かを見捨ててしまった、ひどい後悔を呼ぶ物語。
 バスに揺られながら、眩暈に似た感覚をやり過ごす。
 じっと瞼をふせる、その裏側。ちらつく赤と銀に、後悔を煽られながら。

 毒入りスープ卓では本当に特に何もしなかった小島さんですが次回があったらもう少し有効活用したいところです。
 ところでSANチェックの結果を見るとこいつ中々血も涙もない。なんだ。医師ってそんなに血なまぐさい職業なのか。
 2016/06/24
目次