手の上なら尊敬のキス。額の上なら友情のキス。頬の上なら満足感のキス。唇の上なら愛情のキス。閉じた目の上なら憧憬のキス。掌の上なら懇願のキス。腕と首なら欲望のキス。
―――そんな話を聞いたのは、いつだろう。
そんな言葉を吐いた男の顔も覚えていない。ただ、口説かれて口づけられた時だと、記憶しているけど。
確かなことは、そう。今目の前の男はそんな気障ったらしい知識はあるまいという、それだけだ。
重なって触れ合って
ある日、夕飯に呼ばれた。家に帰ろうと思ったら、外が豪雨だった。
豪雨も豪雨、少々年代物の部屋の壁がみっしみっしと鳴るくらいの豪雨だ。
「秋の天気は変わりやすいから」
「変わりやすいにもほどがあるだろ」
「そうね。…どうするの? 帰れる?」
「…いや。悪い、泊めてくれ。明日定休日だし」
「そう」
本当は。副業にでも出かけるかと思っていたけれど。この中を歩いて行きたくはなかったのだ。
―――そんなやりとりをしたのは、一時間ほど前で。
ベッドに転がっていると、その脇に腰かけられた。じゃあどこうと腰を上げたら、気にするなと言われた。
そうなると、ベッドに二人で転がることになる。広いとはいえないベットに、2人で。…いや、いいんだけどさ。
「…おまえってさー。俺に警戒心を抱くとか、ないのか?」
「別に」
「……じゃあちょっとどきっとしたり、…いやいい」
「…しょげるなら聞かなければいいのに」
「…うるさい」
心底不思議そうに尋ねられて、思わず声が沈む。沈むことに一層沈む。
背を向けていても感じる体温とかそういうのもに色々と考える自分には、さらに沈む。
「私はソファで寝たくないし。あなたをソファに転がすのも窮屈だろうし。どう考えてもこうなるじゃない」
「いや…そうだけどな」
「さっきもしたのにしたくなるとか?」
……。
沈んで底に行き着くようなことを言われた。
思わず振り向く。身体の向きを変える。
当然近い顔に、盛るより切なくなるのはなぜだろう。
「…否定しねーけど。そういうことさらっと言われるとなんか萎えるだろ」
「そういうもの?」
「とりあえず俺は」
「じゃあ躊躇いがちに言えばいいの?」
「それはそれで鬱陶しい」
「…我儘よ、拓登」
「…ま、そうだな」
確かにそうだな、と思うが。少しだけ困ったようなその顔はそれなりに心躍った。
いつでもどこでも平然とする女の表情が変わると楽しいというか、嬉しいのだろう。
自分の単純さに笑いつつ、軽く口づける。正確には、額に口づけて己の行動に気付く。
「……」
…身体って欲望とかに忠実だよなー…
なに、とか、やっぱりしたいのとか聞かれることを覚悟しながら、そっと目を閉じる。今考えた以上に返答困ること聞かれたら寝たふりしよう。見破られても、寝たふりを。
「…キス。しなかったわよね。少し前まで」
けれど、間近から聞こえたのは、疑問ではなく確認をとるかのような声。
以外な反応に、思わず目を開く。
かっちりとかちあったのは、こちらをじっと見つめてくる瞳。
「大概の場所にされた気がするけど。口にはしなかったわよね」
目が合ってしまったわけだが非常に反応しづれーよこれも。
「けじめと言うやつだったのかしら」
……だったのかしら、と思うなら。
「…本人にそういうことを聞いてくれるな。頼むから」
「他人に聞いたら分かるの?」
「人に、聞くな。察しろよ」
「察して、確かめたくなったの。
不思議だったもの、することしてたのに」
「………。ああけじめだよ。告白してないのに手ぇ出して今更んなもんねーだろーけどけじめだよ」
「別に私は気にしてないけど」
「いや、不思議だったっていったじゃねーか」
「…口のキスは愛情」
「…はぁ?」
「手の上は尊敬。額は友情。頬は満足感。瞼はあこがれ。掌の上は懇願。腕と首は欲望。
そんな俗説があるそうよ」
「…………んなことしらねーけど」
「そう、あなたは知らないと思った」
「だけどなぞるようなことをするから、ずっと不思議だった」
好きだ、と告げて。同じように帰らないことを悟っていたから、黙っていた。
マネゴトだ仮初だと、その距離は都合がよかった。
「…そりゃあれだよ」
都合がよくても、いつも思っていた。
告げてしまえれば、どんなにか。
告げて―――その口が答えてくれたら、どれだけ。
「んなことしらねーけど。口ってなんとなく恋人っぽいと思ってただけだ」
どれだけと思いながら、塞ぎたくなかったと。
なにかの拍子で、こぼれはしないかと。
そんな女々しい希望を持っていたことを言わずにすむなら、少しくらい恥ずかしいことを言っておこう。
「…俗説も馬鹿にできないのね」
「…かもな」
感心したような呟きに、少しだけ笑った。
キスの格言 byグリルパルツァー
言った後の二人がふっと書きたくなった。とても小ネタです。何が裏って書いてない直前までが裏。