05:口の端が切れた

 何とも言えない鈍い音の後、頬が熱くなる。遅れて、口の中に血の味を感じた。
 なんとなく舌先で拭う。苦いというか、しょっぱいというか。気持ちのいいものではない。床に転がっているのも同じだ。少し背中に痛みを覚えながら、半身を起こす。
「…思いっきり殴ったね」
 責めたわけではないけれど。目の前の女は一瞬悔いるように顔を逸らす。それでもすぐに顔を上げて睨みつけてくる辺りが、とても好きだと思う。
「……あなたが悪いんでしょう」
「うん、俺が悪い。から甘んじて殴られてみたけど。不服?」
 にこにこ笑ってみた。案の定、嫌な顔をされた。
 なんでそれが分かって殴られるようなことをするのかと聞きたそうな顔だ。聞かないのは、同じだけ聞きたくないって思ってる所為だと思う。
 …ああ、小賢しくて可愛いなあ。本当に。
 なんて思っていると、手が伸びてくる。もう一度たたかれようが気にならなかったけれど、それは殴った場所を撫でてくる。
 触れた手の平は冷たい。というより、俺の頬が熱いらしい。…まったく、本当にどれだけ思い切りぶん殴ったんだよ。それなのに、今、労わるように触れてくるのだから。お笑い草だ。
 それにしても、気持ちよく殴ったんだから、少しくらい気ぃ晴れたような顔すればいいのに。
 それなのに、どことなく品をともなって整った顔はこれ以上なく歪んでいる。罪悪感か嫌悪感か。どちらでも構わない。
 だってそういう彼女は可愛い。客観的に見て泣きだす直前の顔なんて、みっともなくてみじめったらしくて見れたもんじゃないけど。彼女のそれはとても可愛いと思う。
「智華、可愛い」
 殴ったも刺されても撃たれても、俺は抵抗しないのに。そんなに怯えたような顔してさ。
 性格も素行も悪いと思ってるけど。君に酷いことはしたくないって、思ってはいるし。最近は、結構実行もしてたんじゃないかな。昔散々辺り散らして、死ねないくらい後悔したから。
 ああ。それとも。
「…怖いの?」
 まだ、怖いの?
 いなくならないで。死なないで。生きていて。
 そんな風に泣いていた時と、同じふうに。
 俺がいなくなるの、怖いとか、言うの?
 口に出しなどしない声が聞こえたように、その顔が一層歪む。痛いと訴えるように。
「……私、は」
 それなりに饒舌なタチの彼女が口をつぐむ。何も言いたくないとでも言うように。
 言いたいことがいっぱいあるような顔をして、黙りこんでいる。
 綺麗で冷静なこの女は、いつだってとてもくだらないことで乱れていく。
 おかしいなあ。滑稽だなあ。苛々するなあ。まぁ、可愛いから、いいや。
「…ねぇ」
 呼びかけて、軽く唇を合わせる。乾きかけた血は、彼女の口元を少しだけ汚した。
「愛してるよ」
 囁いて、移った血を拭う。
 なんとなしに口へと運んだそれは、先ほどのそれと変わりやしないのに。ひどく甘く香った。




なにかのきっかけでぶん殴られた彼氏とぶん殴った彼女。彼女の諸々の感情でゆがむ顔を彼氏はなにより…、…本当は笑ってる方が好きだったんだろーけど、なにより好きなんだと言うお話。殴ってる方が可哀そうな立場なのはなんでだろう…