鏡のようにゆらめく水に、ほのかに映る己の体は。
控えめに言って、痣だらけだった。
―――悲しいかな。珍しいことではない。
04:叫ぶ
腹のあたりの痣を眺めながら、ぼんやりと思う。
いっそ叫んで嘆いてしまえば、よかったのだろうか。
叫んで呪って、膝を折り。
そうして誰かに跪けば、あるいは?
なにか変ったのだろうか。
「…くだらない」
なにより、そんなこと。してなるものか。
わたしは、わたし達は。なにもしていないのに、傷つけられて。
なにもしていないのに、蔑まれて。
それなのに、嘆くなんて。
なんだかひどく、悔しくてならない。
ひどく悔しくて苦しいから、ぱしゃりと水に手を浸す。森から持ってきた草を浸す。
母のわずかな蔵書にあった、傷をいやす草。
いつものようにそれを洗って、何か適当なものですりつぶして。塗り込んでしばらくしたらキレイになるから、そうして家に帰ろう。
母が心配しないうちに、母が心配しない顔をつくって。
思ったとき、背に衝撃。
がくんと揺らいだ上体が、水面に向けてかしぐ。
キャア、と漏れた声は、自分でも驚くほどに高かった。
「………」
冷えた水の中で体を起こして、ぼんやりと己の手の中を見つめる。
薬草は手放してない。よかった。
けれど、浅い川の底はごつごつとした石で。とっさについて手に、ほかの降れた場所に。新しい傷ができている。
痛みをこらえて、振り向く。
誰だ、こんなところまで追ってきて。人を突き落とした奴は。
どうせやりかえすことなどできなくとも、せめてその顔を覚えておこうと思った。
せめて許せぬ相手の顔くらい、覚えておきたかった。
けれど。
「見るな」
振り向いたと同時に、顔を覆われる。
黒い布で覆われた視界は、声の持ち主を映さない。
「見るな。ああいや…『聞くな』」
聞くな、と。命じるその声は、人と人とが意思を疎通するための言葉ではない。
この世非ざる世界に触れるための、呪。
とても短い、呼びかけのようなそれに、奇妙に耳が遠くなる。
…ちょっと待って。なにこれ。
たったこれだけで、なんでこんなことが。
ぞくり、と背中に怖気が走る。
けれど、背の冷たさに反する熱が、顔のあたりに広がる。
先ほど散々殴られたあたりに、ぬくく広がる。
くぐもった音の、声の意味など分からない。
けれど、ひいていく痛みが示すことは、まさか。
治療されてる?
「……あんた、なに」
「自分で考えろ」
思わず漏れた呟きは、我ながら間が抜けている。
抜けているけれど―――傲慢な声色には腹が立つ。
目があえば、睨みつけてやるのだろう。
屈せずに、睨みつけること。
それしかできることがないから、それしかできないけど。
…考える、ねえ。
そんなこと、初めて言われた。
そうして、思い出す。先ほどの短い呪による力の行使と、母の教え。
この世には、人の暮らす―――人の見えざる世界がある。
呪とは、そこに住むもの達へ願う言葉だ。契約する言葉だ。どうぞその力を我が前に。そんな風に、乞うための言葉。
それがたった一言でなぜこんなにも聞く。乞うているのではなく、命ずるように。ごくごく自然に、力をふるえる? そんなの、おかしい。
なによりも、わからない。この里に、わたし達へ差し伸べられる手など、ないはずだから。
ああ、ならば。
―――今わたしの傍にいるこれは。果たして人だろうか。
くすり、と乾いた笑みが漏れた。
頬からぬくもりと痛みとが消えたと同時に、つぶやく。
「あんたが。なにでも、どうでもいいわ」
「ほう」
「わたしの益になるならいい。―――利用するだけ、だもの」
「…道理だな」
治療は終わったと見えるが、目隠しははずされない。
けれど奇妙な耳の遠さは、すっきりと治る。
違う。
より奇妙に、目の前にいる誰かの声だけが響く。
目には見えないまま、声だけが。響いてくる。
…聞き覚えのない声だ。
けれどもともかく、傲慢な声だ。
「…私がなにであるかは、お前が決めろ」
「なんで命令されなきゃいけないの」
「なぜ命令してはいけない?」
おかしそうに、楽し気に。そういった誰かの立つ気配。
衣擦れの音。遠くなる声。
ざわざわと、周囲の音がよみがえる。
「まあ、すべてはどうでもいいことだが―――…」
ざわざわと、なにもかもが。
ひどく不気味に、騒いでいた。
「またいつか。優羽実」
なんでわたしの名前、と。
声を上げる前に、視界が晴れる。
―――そこには、誰もいなかった。
まるで最初からそこにいなかったように、誰も、なにも。
ぞくり、と肌が泡立つ。
冷たい感覚は、しばらく消えてくれなかった。
Q.なんでわたしの名前を。A.この時点で既に(サイコな)ストーカーだから…
そんな二人の馴れ初めっぽいお話。始まりはもしかしたら穏やかで。そのまま続いていたらあるいは幸せになれたかもしれない二人。
しかしこのままでは続かなかったのでたった一人彼だけが幸せになったお話は表参照。
ちなみに彼女の本名は彼女の母が祈ってことがこもっています。優れた羽でいつか遠くに。願いは彼女には届かなかったというよりは、彼女の大事なものが継いだのでしょう。