3.唇に指を這わせ
昔、こんなことがあった。
いつのころだろう、彼女がレモンパイを焼いてきたことがあった。
理由は恐らく、なにかのお詫びだとか、そんなものだった。
砂糖控えめのその味は、僕でも美味と味わえた。しかし、彼女は己の口には運ばなかった。
「食べないの?」
「ええ。貴方にあげたものですから」
たわいないその響きは、それなりに心地よく響いた。
恋する相手が自分のためになにかをしてくれるというのは、それなりに心地よく響いていた。
「それとも、なにか入れているのかもしれませんよ?」
「例えば、なに?」
その声が、唇に手を添える仕草が。全てが。
傍で見ていたいものだった。
「そうですね、毒薬ですかねぇ」
「殺したいと思ったことはないんじゃなかったの?」
綺麗な笑顔に返した笑顔は、彼女にどう映っていただろうか。
「殺しませんよぅ。綺麗なままとっておくんです」
「とっておいてどうするの」
「飾って毎日お話しましょう」
蒼い瞳に映る世界、その中で僕はどんなものだったのだろうか。
手を伸ばし、触れて、確かめたことがないから。
その欠片すらもわからない。
分からないのに、夢を見る。
昔の夢を、彼女の欠片を、繰り返し。
脳は彼女を忘れることを拒絶し、何度も幻を作りだす。
それに飽きて目を開ければ、空を見る。
蒼い蒼い空。晴れた空は、美しい。
それでもあの瞳の美しさを知ってしまえば、満たされることはない。
唇に手を添えて、紡ぎかけた言葉を飲み込む。
彼女の名前を呼びたがる唇を押し殺し、蒼い空を黙って見つめた。