綺麗な尾をした金魚を飼った。
この『街』の『番人』たる姉弟が主催した縁日もどきで、戯れにつかまえた金魚。
赤い赤いその尾は、本当にきれいだった。
金魚
その金魚へちぎったパンを与えていると、執務室のドアが開いた。
振り向くと、薄い紙きれを持った紫音がいた。
「報告書?」
「ああ」
言って、彼女はそれを机に放った。
「乱暴に扱わないでよぅ」
「よぅ、ってなんだ、その無駄にむかつく語尾…。…いいじゃないか、どうせ紙だし」
「ただの紙じゃないの…こういうのはちゃんと記録してた方がいいのよ…?」
今度はあたしが顔をしかめる番、だけど。大して気にしていない。
これが紫音なのだから、仕方ない。
ひそかに息をついて、ちぎったパンを放る。すいすいとよってくる赤い尾に、僅かに笑みが漏れた。
「…魚」
不意に、紫音が呟く。あたしは静かに首をふった。
「金魚よ」
「金魚は魚だろう」
「あなたが魚っていうと、おいしそうとか続けようよね」
「言わないぞ。食いでなさそうだ」
「そーゆー問題なわけぇ…?」
食いでがあったらあたしのペット食べるわけね、あなた。
そういうのは嫌いじゃないけどちょっと見たくないわねえ。この子、チワワとかもたまにおいしそうとか言い出すから。
「…お前、そういうの、好きなのか?」
「そうね。わりと。綺麗じゃない」
「でも、役に立たんだろう。まずそうだし」
「役に立たなくとも、綺麗だもの。いいじゃない」
「…綺麗、か」
「…紫音?」
綺麗、といった彼女の声は、らしくない戸惑いがある。
「なぁ、聖那。お前、それ見てる時、変な顔してた」
「…へぇ、どんな?」
躊躇って、聞き返す。
親友の声は、静かだった。
「泣きそうだ」
言い返す言葉を、一瞬、忘れた。
「お前が、母親といる時みたいだ」
言葉はまだ戻らない。喉の奥でつっかえる。
「…なあ、聖那。ずっと前から、訊きたかった」
紫音は続ける。あたしが黙って彼女がしゃべる。ああ、いつもと逆だ、とそんなことを思う。
「お前の母は、いいのか」
それは、きっと。確かに、ずっと前から聞きたかったことなのだろう。
彼女の声には、焦りの色がある。
支離滅裂な言葉だけど、いいのか、という、その意味を問うこともしない。
紫音はあたしの父を知っている。
だから、父とあたしを仲良くさせようとはしない。
彼女はあたしの母も知っている。
だから、父と引き離させて、守らないでよいのかといいたがっている。
ちらり、と鉢の中の魚を見つめる。ひらひらと綺麗なその尾を見つめる。
「……あの人はね、金魚なの」
「はぁ?」
「綺麗で、きれいで―――大きな海は泳げない、金魚なの」
紫音は不思議そうな顔をする。不思議そうな顔で、先を促してくる。
「…一緒にいようかと思ったことはあるわ。今も、ここに来るというのなら拒むつもりはない。
けれど―――いつかアレと争うことになって。そうしてあの人が人質にされても、あたしは動かないのでしょうね」
あの父とあたしがいつか争うのは、もはや決まりきったことだ。今は、スポンサーという形で見られているが、飽きればそれまで。飽きれば、連れ戻そうとするだろう。自らの跡継ぎとして、別に必要がないあたしを。それが「一番面白いから」と。
そんなことは嫌だから、全力で抵抗する。抵抗して、そのせいで、あの人が…母が死ぬことになればきっとあたしは泣くだろう。
か弱いあの人を守らなかったことを、生涯後悔する。けれどそれは、あたしや…目の前の彼女を喪うことと天秤にかける程度の痛みではなく。
あの人があたしに見切りをつけたように、あたしも母親を見きってしまっている。
「…そうか」
「ひどいと思う?」
「…まぁな。父親はともかく、母親はお前の親だろう」
「そうね。ついでに忌々しいけどアレはあたしの実の父親だわ」
「そしてあの人の旦那…だけど、躊躇わないで…その、片づけるぞ? きっと」
「知ってるわよ」
「いいのか?」
「仕方ないもの」
そうか、と親友は頷く。
明らかに怒っている顔で、それでも静かに頷いた。
「…なら、その時は」
けれど、怒りの色が見えたのは一瞬。ちらりとうかがった顔は、ひどく穏やかだった。
「私がお前の母を助けに行くんだろうな」
あっさりと言われた言葉に、言葉を失う。
なにを馬鹿なことを。思うものの、目に浮かぶようだ。
親を見捨てるなんてそんなことお前にさせられるかと、そうやって怒りながら、彼女は死地へ赴くだろう。
勝手に価値観を押し付けて、そうしていってしまうのだ。
「………紫音」
きっと、あたしは、そんな彼女を止めないまま、助けに行って。そうして。
「…そうね。きっと。そうなのね」
そうしてあたしは心の中のやわらかいなにかを守るのだ。
「…あなたは最高のボディガードだわ」
「…ほめてないだろ、それ」
「いやね、ほめてるわよ」
「お前の言うことはほとんど嘘に聞こえるんだよ…」
「…ホントウよ」
あなたに言うことは、本当なのよ。
胸の内だけで呟いて、そっと餌を放る。
鉢の中の金魚は、ひらひらと優雅に泳いでいた。