殺したいと思った、殺せると思った。
けれど、殺意を以ってふりかぶったナイフは、届かぬままにはじかれた。
―――ねえ、あなた。そんなに無駄に死にたいなら、その命あたしによこしなさい。
それが、彼女と彼女のはじまりの記憶。
記憶
何でも屋『曼球沙華』の社員の殆どが詰めている、寮のような場所。元はホテルになるはずだったそこを改装してできた場所。
そこには当然、トップである桜木聖那の私室もある。いつも綺麗に整えられている一室がある。
あれこれとせわしく動きまわるか、微笑んで執務室で指示を飛ばすかで、私室にいる時間が少ない所為で、ますます綺麗だ。乱れる道理がない。
しかし、ほぼ同じ条件で散らかしている紫音は、そうは思わない。
聖那は昔から―――少なくとも、紫音が出会ったころから、細々と身の回りを整える。身なりも同じだ。胸元あらわな服を着ることが増えたが、だらしない恰好はしない。
へらへらと笑って、適当に物事をあしらって、気まぐれに生きているこの女は、綺麗なものが好きなのだから。
だから、自分の近くを汚くなどしたくないのだろうと、知っている。
『近くにある』最たるものである紫音も、昔は随分としごかれた。
背筋を曲げるなベルトはちゃんとしめろいくらなんでもその年で俺はみっともないいつもの言葉づかいは気にしないけど公式の場で使う言葉くらいは覚えなさい。
最近はめっきり何も言われないが、まるで母親かなにかのように躾けられた日々を、紫音は忘れない。
慕わしい父母から教えられたことも受け継いだものも、全て忘れて背中を丸めていた日々。その合間に差し出された手を、忘れない。ずっと逃げてただ家族の敵のことだけを考えていた日々を終わらせたのは、彼女に出会ったからだろう。
彼女に出会って、手を組み。共に同じ敵を追うことになったからだろう。
それから、紫音はずっと聖那と共にいる。
それが目的に近づくことであり、願いをかなえる手段であり。
恩ある気まぐれな親友のことを、結局は大切に思っているから。
その、大切な主の私室。
白い壁に囲まれた部屋で、ふわりとカーテンが揺れる。光沢のある薄緑の生地は、光を受けると縫い込まれた模様が透ける。
甘酸っぱい香りのハーブから出たお茶を飲みながら、その愛らしい様を見、紫音はふうと息をついた。
特に意味もなく安堵の息をもらしてから、目の前の主件親友を眺める。
「やあねえ紫音。お茶飲んでそれで溜息なんて、年寄りくさい」
「年寄りくさくて結構だ。…にしても、なんでいきなり茶なんだ」
「今日は急いでこなさなきゃいけないこともないから。たまには優雅に暇をつぶそうと思ったのよ」
言葉通り優雅っぽい仕草で、聖那はティーカップを揺らす。
どちらかと言えば派手好みの彼女が選んだ、色とりどりの花々の咲くティーカップ。紫音にとっては少し目に痛い色。しかし、今彼女の目を細めさせるのは、その極彩色ではない。
「………聖那。具合が悪いのなら、医務室、…いやちゃんと医者にかかった方がいい」
ここの医務室にいるのだって、それなりにちゃんとした医者ではあるのだが。怪我の治療が専門で、病気になると若干弱い。
それでは心配だ、こんな異常事態なのだから。
語らずとも態度でそう示す部下に、聖那は深く息をつく。
「あら失礼。いつも通りあなたに無茶ぶりして暇潰してもいいんだけど。まだ怪我痛むかと思って遠慮したっていうのに…そんな優しい心遣いを無視して病人呼ばわり? 駄目ねえ紫音。あなたは疑りぶかくてー」
「疑い深くしてんのはお前だよ主に! …つーか、気にしてたのか」
「あたしの大事な紫音の怪我を心配しないわけないじゃーい」
冗談めかした言葉に、大仰な仕草。綺麗に弧を描く赤い唇。それは、聖那の常の姿。しかし、瞳だけは静かで、少しだけ冷たい。
それに気付いたから、紫音は驚く。
「たいした怪我じゃないだろう。もうふさがってるし」
「…ええ、そうね」
紫音はあっさりとした心地で言いきって、カップを置く。
ほの赤い澄んだ色を飲みほして現れるのは、つるりと黒い底。つやつやと濡れるそこに新しい茶を注ぎながら、聖那は続ける。
「大した怪我、じゃないけど。あなたが怪我するとは思ってなかったのよ、あの時」
「そうか」
立ち上がってカップに茶を注がれると、紫音からは聖那の顔は見えない。
少し横を見ればいくらでも伺えるものの、やらない。
きっと、少し怒った顔をしているのだろうと、経験から知っている。
こういう話を二人きりで持ちかけてくる時、彼女は少し怒っている。怪我をしてけろりとしている親友に、危機感が足りないと腹を立てている。
「だから、ちょっと屈辱だわ」
「…それは私の台詞じゃないのか」
だから、少しだけ自分の至らなさなどを反省していた紫音は、あくまで真顔で問いかける。
それに答える彼女は、それはそれは甘く、鮮やかに笑った。
「紫音のくせにあたしの予定にない行動をとるなんて。なんて生意気なのかしら」
「なんでいちいち頭にくる言い方で言うんだよ、お前は」
ころりと『人をからかう時の笑顔』に代わった上司に、からかわれた女はぶすりと答える。
不機嫌そうなその顔に一層微笑んで、席に戻った聖那はテーブルの真ん中に置いた皿を押し出す。ほんのりとチーズの利いた、さくりとしたクッキー。わずかな酸味を纏い甘さ控えめのその味は、菓子全般を好んでいない紫音も黙って口に運ぶ一品だ。
そうでなくとも人の勧めに弱い彼女は、表情を変えずに丸いクッキーを受け取る。さっくさっくとかじって、湯気の出るお茶を喉に流す。
無言のまま、それでも少しだけ眉間のしわを和らげるその姿に、聖那は今度こそ声に出して笑った。
「あなたの反応がいちいち素直でおもしろげだから、ついつい余計なことしたいし言いたくなるのよねえ。いやん紫音ったら罪なヒ・トv」
「しなをつくるな。もたれかかるな。行儀が悪いんだろうそれは!」
「いいじゃない、あたしとあなたの仲だものー」
「お前がそれですまそうとすることは、大抵よくないことだろうが!」
あー鬱陶しい! 頬に伸ばされた手を払って、紫音はぐいとカップを傾ける。自棄酒のように茶を煽る。
聖那はまだ笑っている。
聖那はよく笑う女だ。よく笑って、よく不機嫌になって、よく喜んで、悲しむ。けれど、心配しても、苦しくとも、涙は流さない。
そのことを知っているから、紫音はじりと眉を寄せる。
ふざけた真似をするのは、わかりやすいストレス発散の方法だ。分かりにくい方法も色々とあるから、これは軽いストレス発散だ。
でも。
やっとできた休みだと言うのなら、少しは穏やかに過ごしてほしい気がする。
退屈が嫌いで、逆境を愛している。追いつめられれば追い詰められるほど、楽しげに笑う。その方が、しなやかに強い。それでも。
親友の無理が苛立ちを呼ぶのは、結局のところ、同じだ。
「…聖那」
「うん、もう、おかわり?」
いつのまにやら再びたっぷりと中身の満たされた透明なポットがゆれる。
ほの赤い茶が、ガラスの中できらきらと輝く。
窓から燦々と注ぐ陽の光を受けて、綺麗にゆらめく。
「私はお茶より腹にたまるものが食べたい」
―――そう、今日は、とてもよい天気なのだから。
部屋で二人きりというのも、味気ない。
「……色気のない子ね」
まあ、あたしのお茶に付き合ってくれたのだし、次はあなたに付き合いましょうか。
言って席を立つ聖那に、紫音は頷く。
片付けが終わったら、どこかに連れて行こう。買い物に出かけたマリシエルに合流して、どこかに食べに行こう。
そうして、この女が心穏やかであれる記憶を重ねておこう。
かつて、幼かった紫音に両親がそうしたように。
今が平穏とは言い切れなかったとしても。誰かの行き先がどんなに辛いものだとしても。
優しい記憶は、いつまでも胸のどこかに残るから。
あとがき
常に振り回されてこき使われて遊ばれている紫音ですが、それでも聖那のことが大好きです。大好きというか、守ろうと思っています。腹が立つのとそれは別問題だそうです。
理由はあげればいくらでもあげれるのでしょうが。大切なものは大切だから、で納得している本人。
親友件主従件家族愛に似ている。まあ、あえて言うなら友情だって近いのだけど。
ちなみに聖那に会う前の紫音は逃亡生活をしていました。父親が、かつての仲間からの逃亡生活をしていた、なので。本人に自覚がでたのは、随分後になってからですが。色々あって1人きりになってからは、逃亡しながらずっと敵を探していましたが。それはまあ、別のお話。…にできるといいなあ。
2011/12/01